第18球 逆転のトリック
7回表、アークスの守備が始まる直前。
俺は、守備位置へと散っていく内野陣を呼び止め、マウンドで小さな円陣を組んだ。選手たちの顔には、俺が正気を取り戻したことへの安堵と、依然として続くピンチへの緊張が入り混じっている。
「……キャプテン、何か?」
二塁手のリコが、不安そうな顔で俺を見上げる。
彼の顔には、まだ序盤の失点に繋がった、自らの焦りが招いたプレーへの後悔が色濃く浮かんでいた。
「ああ。一つ、ゲームを仕掛ける」
俺は、ニヤリと笑って言った。
その言葉に、選手たちの顔つきが変わる。
「いいか、この回、おそらく先頭でキッドが出てくる。そして、十中八九、また何かを仕掛けてくるはずだ」
「……また、あの挟殺プレーみてえなやつか?」
三塁手のゼノが、面倒くさそうに呟く。
「可能性は高い。だから、それを逆手に取る。奴は俺たちの焦りを誘い、視線を読んで動きの逆を突こうとしてくる。その習性を利用するんだ」
「……どうやって?」
「挟殺プレーになったら、ボールを持った奴は、一人のランナーを複数で追いかける基本を徹底しろ。だが、肝心なのはその先だ。追い詰めたら、投げるな」
「はあ!? 投げねえのかよ!」
グランが素っ頓狂な声を上げる。
「ああ。投げるフリをするんだ。それも、本気で。腕がちぎれるくらい、全力で投げるフリをしろ。ヤツは必ず、その偽投に引っかかって、逆方向へ走り出す。――その瞬間が、勝負だ。偽投をした野手は、そのまま全力でヤツを追いかけろ。他の奴らは、逆サイドから挟み撃ちにする。いいな?」
俺は、この作戦のキーマンとなるであろう、一番小柄なホビットを見据えた。
「リコ。お前がボールを持ったら、この作戦を実行する許可を与える。お前のミスを、お前自身の手で取り返してみせろ。できるか?」
「は、はい! やります! やってみせます!」
リコは、恐怖と、しかしそれを上回る使命感に燃えた瞳で、力強く頷いた。
「面白い。海賊相手に、心理の読み合いとはな」
ゼノの口元に、初めて、本気の笑みが浮かんでいた。
俺たちは、無言で頷きあうと、それぞれの守備位置へと戻っていった。
◇
俺の予見通り、この回の先頭打者として、キャプテン・キッドがバッターボックスに入ってきた。
そして、彼はまたしても、いやらしい内野安打で出塁する。
続く打者の場面で、彼は盗塁を仕掛け、俺の送球の間に、二塁と三塁のちょうど中間で、わざと挟まれる状況を作り出した。
――挟殺プレー。
再び、あの悪夢のプレーが、再現される。
ボールは、俺から、三塁手のゼノへ。
キッドは、まるで踊るように、二塁へと戻ろうとする。
ゼノから、二塁ベースカバーに入ったリコへと、ボールが渡った。
その瞬間、俺は確信した。
「(来た……!)」
状況は、作戦通り。
ボールは、リコが持っている。
キッドは、三塁へと向きを変え、リコとゼノの間で、どちらに転ぶか、駆け引きを始めた。
彼の視線は、ボールを持つリコの、その瞳の動きを、射抜くように見つめている。
「(こいつら、さっきより動きがいいな……。だが、まだ甘い。あのホビットの小僧が、一番焦っている。瞳が泳いでいるぜ。あそこが、このチームの穴だ!)」
キッドの、そんな心の声が聞こえるようだった。
そうだ、焦れ、リコ。お前のその焦りの表情こそが、最高の演技になる。
リコは、三塁ベースにいるゼノと、キッドを交互に見る。
そして、意を決したように、三塁のゼノに向かって、大きく、腕を振りかぶった。
キッドの目が、その動きに完璧に反応する。
「(三塁だ!)」
キッドが、即座に方向転換し、二塁へと全力で駆け出した、その刹那。
リコの振り抜かれた腕から、ボールが放たれることはなかった。
――完璧な、偽投。
「なっ!?」
キッドの顔に、初めて、本物の驚愕が浮かぶ。
自分の読みが、完全に外れた。
そして、偽投を終えたリコは、ボールをグラブに握りしめたまま、小さな体を弾丸のようにして、キッドへと向かって、全力でダッシュを開始した。
「しまっ……!」
キッドは、慌てて再び三塁へと反転しようとする。
だが、もう遅い。
二塁側からはリコが、三塁側からはゼノが、そして遊撃手のカイが、完璧な包囲網を敷いて、彼の退路を断っていた。
あれほど広大に見えたベースの間が、今は、絶望的に狭い。
キッドは、最後の抵抗として、魚人のような滑らかな動きで、リコのタッチを掻い潜ろうとする。
だが、リコの瞳にはもう、焦りの色はない。
あるのは、自分の仕事を、絶対にやり遂げるという、強い意志だけだ。
「―――アウトォッ!」
リコは、地面スレスレで、ダイビングするように飛びつき、その小さなグラブで、キッドの背中に、力強くタッチした。
審判の、高らかなコールが、スタジアムに響き渡る。
「アウトォォォォォォッ!」
一瞬の、静寂。
そして、何が起きたかを理解した観客席から、地鳴りのような、割れんばかりの大歓声が、沸き起こった。
「す、すげええええ!」
「偽投だ! 完璧な偽投で、あのキッドを騙しやがった!」
「海賊を、海賊以上の頭脳プレーでハメやがった!」
グラウンドに倒れ込んだまま、キッドは、何が起きたか分からないという顔で、呆然と、自分をアウトにしたリコと、そして、キャッチャーマスクを上げた俺を、交互に見つめていた。
彼は、複雑なトリックに負けたのではない。
たった一つの、完璧に実行された、シンプルな偽投に、敗れたのだ。
俺は、そんな彼に向かって、不敵な笑みを返してやった。
「お前たちのゲーム(だましあい)は、終わりだ」
このビッグプレーによって、試合の流れは、完全に、そして決定的に、俺たちアークスへと傾いたのだった。