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第17球 ベンチの切り札

―――ザアアアアアア……。


耳鳴りがする。

目の前の光景が、まるで水の中のように、ぐにゃりと歪んで見えた。

俺は、ホームベースの土の上に、膝をついていた。 マスクの隙間から入り込む土の匂いが、やけに生々しい。


「ソラ! しっかりしろ!」

「キャプテン! 聞こえるか!」


仲間たちが、俺の周りに集まって、何かを叫んでいる。

だが、その声は、分厚い壁の向こう側から聞こえてくるようで、全く頭に入ってこない。

俺の脳裏には、今のプレーではなく、全く別の光景が、何度も、何度も、フラッシュバックしていた。


――俺の知識を信じ、無茶なフォームで投げ続けた親友の、苦痛に歪む顔。

――彼の肩から響いた、「バキン」という、鈍く、乾いた破壊音。

――『お前のせいだ!』『机上の空論で、あいつを壊した!』という、仲間たちからの罵声。


「(……まただ)」


心の奥底から、冷たい声が響く。


「(また俺は、自分の知識を過信し、この世界の『理不尽』に、掌の上で踊らされている……!)」


そうだ。あの海賊、キャプテン・キッドは、俺が転生者であることなど知るはずもない。

だが、あいつの野球は、まるで俺の知識を嘲笑うかのように、その全てを上回ってきた。

俺が必死に組み立てたセオリーは、いとも簡単に破壊され、俺が唯一の武器だと信じていたはずの知識は、今や、俺自身を縛り付け、過去の悪夢へと引きずり込む、重いかせと化していた。


「(もう、ダメだ……)」


思考が、停止する。

戦う意志が、急速に萎えていく。

俺は、壊れてしまったんだ。

監督としても、捕手としても、そして、一人の野球選手としても。


                 ◇


その絶望的な光景を、アークスのベンチの隅で、一人の少女が唇を強く噛みしめながら見つめていた。

マネージャーのルーナだ。


(ソラさん……!)


彼女だけが、ソラの異変の理由を、何となく察していた。

彼が時折見せる、深い翳り。それは、過去に何か、野球に関する大きな失敗を経験した者のそれだと、彼女は感じていた。

そして、彼女の手元には、この絶望的な状況を覆すかもしれない、たった一つの『情報』があった。


(言わなきゃ……!)


ルーナは、強く拳を握りしめる。


(私が気づいたことを、ソラさんに、みんなに、伝えないと……!)

(でも……)


その瞬間、彼女の心に、いつもの臆病な自分が囁きかける。


(もし、私の分析が間違っていたら? この最悪の状況で、さらにチームを混乱させてしまったら……?)

(だいたい、私にそんな資格があるの? 私は選手じゃない。ただの、記録を取ることしかできない、マネージャーなのに……)


そうだ。自分は、フィールドに立つ者ではない。

みんなのように、特別な力があるわけでも、戦う勇気があるわけでもない。

気弱で、引っ込み思案で、いつも誰かの後ろに隠れているだけ。

それが、自分だ。


(……ダメ。私なんかが、出しゃばっちゃ……)


彼女が、諦めて俯きかけた、その時。

脳裏に、ソラの言葉が蘇った。

彼が、王国の書庫の隅で燻っていた自分を、チームに誘ってくれた、あの日の言葉が。


『――あんたの知識が必要なんだ。俺の知らない、この世界の常識も、各種族の特性も、全てを記憶し、分析できる、あんたのその力が、俺たちの武器になる』


(私の、力が……武器に……?)


彼女は、顔を上げる。

フィールドでは、タイムがかかり、選手たちがマウンドに集まって、呆然と立ち尽くすソラを、心配そうに囲んでいた。

あの背中。

いつもは自信に満ち溢れているはずの、キャプテンの大きな背中が、今は、ひどく小さく、か弱く見えた。


(ソラさんを、助けたい……!)

(このチームの、力になりたい……!)


その強い想いが、彼女の心に巣食っていた、臆病な自分を、ついに打ち破った。


「(――可能性はゼロではありません。ここに、勝率を0.1%引き上げるための情報があります!)」


ルーナは、自分の決めゼリフを、心の中で叫ぶ。

そして、ベンチを飛び出し、マウンドへと、全力で走った。


                 ◇


「おい、マネージャー!?」

「何しに来たんだ、危ないぞ!」

「ここは、お前が出てくるところじゃねえ!」


選手たちの輪の中に、息を切らして飛び込んできたルーナに、グランやバルガスが、訝しげな声を上げる。

だが、ルーナは、彼らの声には目もくれなかった。

彼女は、輪の中心で、まだ虚ろな目をしているソラの前に立つと、その手を、両手で、強く握りしめた。


「――ソラさん! しっかりしてください!」


その必死の叫びと、握られた手の温かさが、まるで強烈な電流のように、俺の体を貫いた。

悪夢に囚われていた俺の意識が、急速に、現実へと引き戻されていく。


「……ルーナ……?」


俺は、目の前で、涙を瞳いっぱいに浮かべながら、それでも俺をまっすぐに見つめてくる、気弱だったはずの少女の姿に、目を見張った。

彼女は、震える声で、しかし、はっきりと、自分の分析結果を告げた。


「相手の、キャプテン・キッドですが……!」

「……!」

「彼が、トリックプレーを仕掛ける直前、必ず、一度だけ、三塁コーチを見ます! ほんの0.5秒、その視線が、動くんです!」

「……なんだって?」

「私が、これまでのアクアリアの全試合の映像を、昨夜、徹夜で分析して見つけました! 間違いありません! それが、彼の『ゲーム』が始まる、たった一つの合図なんです!」


彼女の言葉。

その瞳に宿る、揺るぎない強い意志。

それが、俺の心の奥底にこびりついていた、黒い絶望の靄を、完全に吹き飛ばした。


「(……そうだ)」


俺は、なんて馬鹿だったんだ。


「(俺は、また一人で戦おうとしていた。独りよがりになって、仲間の声を聞こうともしなかった……!)」


俺の隣には、こんなにも頼りになる仲間が、ずっといてくれたというのに。


俺は、ゆっくりと、グラウンドに付いていた膝を上げた。

そして、立ち上がる。

俺の瞳には、再び、闘志の光が戻っていた。


俺は、ルーナの肩に、そっと手を置いた。


「……ありがとう、ルーナ。よく見ていてくれた」

「……ソラさん……!」

「お前は、俺たちの最高の、ベンチの切り札だ」


その言葉に、ルーナは、嬉しそうに、はにかみながら、涙をこぼした。

彼女はもう、ただの気弱なマネージャーではない。

情報と分析という、誰にも真似できない武器で戦う、立派な、アークスの一員だ。


俺は、心配そうに俺たちを見守っていた仲間たちに向き直ると、ニヤリと、不敵な笑みを浮かべてみせた。


「悪い、少し、昔の嫌な夢を見ていた」

「……キャプテン……」

「――さて、ここから反撃開始だ」


俺は、眼帯の海賊――キャプテン・キッドが待つ、相手ベンチを睨みつける。


「あの海賊どもに、本当のゲームのやり方を、教えてやるぞ!」


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