第16球 蘇る悪夢
準決勝、対アクアリア・パイレーツ戦。
プレイボールのサイレンが鳴り響く前から、スタジアムは異様な熱気に包まれていた。
これまでの試合とは全く違う。ゴルダ戦の重々しさとも、シルヴァニア戦の静謐さとも違う、どこか胡散臭く、騒然とした雰囲気。
三塁側のアクアリア応援席からは、野太い野次に混じって、調子っぱずれなアコーディオンの音色と、時折「ブオォォォ」という法螺貝の音が響き渡り、俺たちの集中力を容赦なく削ってくる。
「なんだか、やりにくい雰囲気だな……」
マウンドのグランが、眉間に皺を寄せて呟く。
「ああ。だが、惑わされるな。俺たちの野球をやるだけだ」
俺はそう答えながらも、内心では強い警戒を覚えていた。
これは、ただの野球の試合じゃない。
海賊たちの縄張りに、俺たちが丸腰で足を踏み入れてしまったようなものだ。
そして1回裏、アクアリアの攻撃。
先頭打者の紹介に、スタジアムがひときわ大きくどよめいた。
『1番、ショート、キャプテン・キッド!』
監督兼主将である、あの男が、飄々とした態度でバッターボックスに入ってくる。
彼は眼帯のない方の目で、俺たちバッテリーを値踏みするように見つめると、ニヤリと笑った。
(……来るぞ)
俺は、マスクの下で気を引き締める。
初球。グランが、渾身のストレートを内角に投げ込む。
だが、キッドはそれを待っていたかのように、バットをさっと引き、投球と同時にスタートを切っていた。
絶妙な、セーフティバント。
ボールは三塁線のギリギリのところを転がり、グランが慌てて処理に向かうが、キッドの足は、カイに匹敵するほど速い。
「セーフ!」
いとも簡単に、先頭打者を出塁させてしまった。
そして、ここからが、海賊たちの本当のゲームの始まりだった。
一塁に出たキッドは、俺の警戒を嘲笑うかのように、全く走る素振りを見せない。
「おい、ピッチャー! そんなにビビって牽制ばっかしてっと、肩壊すぜ?」
彼は、グランを軽口で挑発する。
「ぬうう……このクソガキが……!」
単純なグランは、その挑発に乗り、何度も、何度も、一塁へ鋭い牽制球を投げ込んだ。
だが、キッドは、まるで未来が見えているかのように、常に余裕を持って一塁へ戻っている。
(ダメだ、グランが完全に遊ばれてる……!)
俺は、一度マウンドへ行こうかと考える。
だが、その瞬間だった。
グランが、痺れを切らして、次の打者への投球モーションに入った、その刹那。
――キッドが、スタートを切った。
完璧なタイミングの、盗塁。
「しまっ……!」
俺は、慌てて立ち上がり、捕球と同時に、二塁へと矢のような送球をする。
俺の肩なら、間に合うはずだ。誰もがそう思った。
だが――。
「!?」
二塁ベースカバーに入ったリコの目の前で、キッドが、ありえない動きを見せた。
彼は、二塁ベースの手前で急停止すると、まるでダンスでも踊るかのように、くるりと身を翻し、三塁方向へと駆け出したのだ。
挟殺プレー(ランダウンプレー)。
だが、それは俺の知る挟殺プレーではなかった。
「リコ! 三塁へ投げろ!」
俺が叫ぶ。
リコも、慌てて三塁を守るゼノへと送球しようとする。
だが、その送球コース上に、次の打者が、まるで「偶然を装って」バットを素振りするかのように、ぬっと立ちふさがった。
「危ねえ!」
リコの投げたボールは、その打者の背中に当たり、大きく弾けてファウルゾーンを転々としていく。
その間に、キッドは悠々と三塁へ。
それだけではない。打者走者も、その混乱に乗じて、しれっと二塁へと進塁していた。
ノーアウト・ランナー二、三塁。
たった一つのアウトも取れず、たった一人の打者と対峙しただけで、俺たちは、絶体絶命のピンチを招いていた。
何が起きたのか、理解できなかった。
頭が、真っ白になる。
周囲の音が、急速に遠のいていく。
(……まただ)
脳裏に、あの日の光景が、鮮明に蘇る。
(また俺は、この世界の野球の掌の上で、踊らされている……!)
自分の知識が、セオリーが、全く通用しない。
あの時と同じ、絶対的な無力感。
仲間の「お前のせいだ!」という罵声が、幻聴のように、頭の中で響き渡る。
「ソラ! しっかりしろ!」
「キャプテン!」
仲間たちの声が、どこか遠くで聞こえる。
だが、俺の耳には、もう届いていなかった。
俺は、過去の悪夢に、完全に囚われてしまっていた。
(取り返さなければ……俺の采配で、このピンチを切り抜けなければ……!)
焦りだけが、俺の思考を支配する。
ノーアウト・ランナー二、三塁。
次の打者が、バントの構えを見せた。
「(読める……! この場面は、スクイズしかない! 俺の知識が、そう言っている!)」
俺は、冷静な判断力を完全に失い、自分の知識だけを信じて、投手のグランにサインを送った。
――ピッチアウト。
打者のバントを外すため、ボールゾーンへ大きく外す、絶対的な一手。
グランは、俺の鬼気迫る表情に、何も言わずに頷いた。
そして、サイン通り、大きく外角へボールを外す。
だが。
相手打者は、バントの構えを、すっと解いた。
そして、まるで「そう来ると思ってたよ」とでも言いたげな、嘲笑うかのような表情で、そのボール球を、平然と見送った。
――フェイク。
「しまっ……!」
完全に、裏をかかれた。
俺とグラン、バッテリーの動揺は、ピークに達した。
そして、その動揺は、最悪のミスを引き起こす。
ピッチアウトで大きく外したボールを、俺が、ほんの僅かに、後ろへ弾いてしまったのだ。
パスボール。
そのコンマ数秒の隙を、三塁ランナーのキッドが見逃すはずがなかった。
彼は、電光石火の速さで、ホームへと突っ込んでくる。
「あああっ!」
俺は、慌ててボールを拾い、ホームベースへと飛び込む。
タッチ!
間に合え!
だが、キッドは、まるで水の中を泳ぐ魚人のように、滑らかな、予測不能なスライディングで、俺のタッチを掻い潜り、その指先が、ホームベースに触れた。
「セーーーフ!」
非情な審判のコールが、響き渡る。
先制点。
最悪の形で、相手の術中にハマり、俺自身のミスで、失点してしまった。
俺は、グラウンドに、膝から崩れ落ちた。
マスクの隙間から見える、土の黒さが、まるで俺の心の闇のように、どこまでも広がっているように見えた。
瞳からは、光が消え、深い、深い絶望の色が浮かんでいた。
「ソラ……!」
「キャプテン、しっかりしろ!」
仲間たちが、心配そうに俺の元へ駆け寄ってくる。
だが、その声は、もう、俺の耳には届いていなかった。