第14球 分かち合う敬意
「うおおおおおおおおおおおおおおっ!」
「バルガース! よくやったぁ!」
「逆転だ! 逆転だぞ、俺たち!」
バルガスが放った、天を衝くような逆転ホームラン。
その余韻が冷めやらぬまま、試合終了のサイレンが鳴り響いた時、アークスのベンチは狂喜乱舞の渦に叩き込まれた。
選手たちはグラウンドになだれ込み、殊勲の巨漢を担ぎ上げ、勝利を喜び合う。
0-1という絶望的なスコア、攻略不可能に思えた『見えざる壁』。それを、たった一振りで、理屈も戦術も関係なく、純粋なパワーだけで粉々に打ち砕いてしまったのだ。
「すげえぜ、バルガス!」
「お前がナンバーワンだ!」
「俺たちの4番!」
仲間たちからの惜しみない賛辞に、バルガスは「がっはっは!」と、子供のように屈託なく笑っている。
その光景を、俺は少し離れた場所から、満足げに眺めていた。
(……理屈じゃねえ、か)
俺の再定義した戦術ですら、あの壁を破ることはできなかった。
だが、俺が全てを捨てて解き放った、仲間の『本能』が、奇跡を起こした。
監督として、これほど嬉しいことはない。
だが、その歓喜の輪の中で、一人だけ、全く違う表情をしている者がいた。
エルマだ。
彼女は、誰とも喜びを分かち合うことなく、輪から離れた場所で、ただ静かに佇んでいた。
その美しい横顔に浮かんでいるのは、勝利の喜びではない。
深い、深い、混乱の色だった。
「(……なぜ)」
エルマの心の声が、痛いほどに伝わってくる。
「(なぜ、私が最も軽蔑していたはずの、あの『野蛮な力』に、チームは救われたの?)」
「(私が信じてきた、エルフとしての誇り、気高さ、完璧な『美学』は、あのミノタウロスの、たった一振りの前には、無力だったというの?)」
彼女は、俺たちに背を向けると、誰にも告げずに、一人でグラウンドを去っていった。
その小さな背中は、ひどく寂しそうに見えた。
◇
夕日が差し込む、静まり返ったシルヴァニア・リーフスの控室。
他の選手たちが去り、一人で静かに道具を片付けているルシオンの前に、エルマは立っていた。
「……来ると思っていたよ、エルマ」
ルシオンは、エルマの姿を見ても、少しも驚いた様子を見せない。
ただ、静かに、そしてどこか懐かしむような笑みを浮かべて、彼女を迎えた。
「相変わらずだね、君は。昔、里の祭りで弓を競った時も、そうだった。負けた時は、必ず私のところへ来て、自分がなぜ負けたのかを、納得できるまで問い詰めていた」
「……覚えていたのですか」
「忘れるはずがないさ。君ほど、純粋に『完璧』を求めるエルフを、私は他に知らないからね」
ルシオンの穏やかな言葉に、エルマは、固く握りしめていた拳を、さらに強く握りしめた。
そして、震える声で、心の内の叫びをぶつけた。
「教えてください、ルシオン! 私は、あなたに勝てなかった! 私の信じる『美しい野球』では、あなたの『流れの野球』には、全く届かなかった……!」
「……」
「なのに、なぜ! なぜ、あんな野蛮なミノタウロスの一振りに、あなたは敗れたのですか!? あんなものは、野球ではない! ただの暴力です! 美しくも、気高くもない! そんなものに、私たちの誇りが、負けていいはずがない!」
エルマの魂の叫び。
それは、彼女が何百年もの間、信じてきた価値観そのものが、根底から覆されようとしている、悲痛な叫びだった。
ルシオンは、黙って彼女の言葉を聞いていた。
やがて、彼はゆっくりと窓辺に歩み寄り、夕日に染まるグラウンドを見つめながら、静かに語り始めた。
「……エルマ。君の言う通り、私の野球は『流れ』を読む野球だ。淀みなく、波紋を立てず、ただ自然の理に従う。それは、我々エルフが、何千年という悠久の時の中で培ってきた、完成された美学だ。そこには、一点の無駄も、混沌も存在しない」
「ならば、なぜ……!」
「だが、あの一振りは違った」
ルシオンは続ける。その声には、敗者の悔しさではなく、むしろ、未知なるものに出会った研究者のような、知的な興奮が宿っていた。
「あれは、『流れ』そのものを、破壊する力だ。自然界で例えるなら、静寂の森を一夜にして焼き尽くす、火山の噴火。穏やかな海を、根こそぎ掻き乱す、巨大な嵐。……我々エルフが、合理性と効率化の中で、とうの昔に捨ててしまった、原初の『熱』そのものだったのかもしれない」
ルシオンは、ゆっくりとエルマに向き直ると、優しく微笑んだ。
「君たちのチームには、それがあった。泥臭く、不格好で、制御不能な混沌の集まりだ。だが、だからこそ、我々の完璧な『静』の世界を、打ち破ることができた。――ねえ、エルマ。教えておくれ」
「――火山の噴火は、果たして、本当に『美しくない』ものなのかな?」
その一言は、まるで強力な魔法のように、エルマの凝り固まった価値観を、根底から揺さぶった。
美しくない、と思っていた。
野蛮で、粗野で、軽蔑すべきものだと、思っていた。
グランの、ただひたすらに己を信じる頑固さ。
カイの、何にも縛られない奔放さ。
そして、バルガスの、全てを破壊する、純粋なまでのパワー。
(あれは……美しくないもの……?)
(違う……あれは、あれで、一つの完璧な『カタチ』……?)
(私の知らない、全く別の『美しさ』……?)
彼女がこだわっていた「美しさ」が、いかに狭く、小さな世界のものだったかに、エルマは、気づかされようとしていた。
◇
どれくらいの時間が、経っただろうか。
エルマは、ルシオンに、深々と、本当に深く、頭を下げた。
「……ありがとうございました、ルシオン。あなたと話せて、よかった」
彼女は、何かを振り切ったような、晴れやかな顔で、控室を後にした。
そして、アークスのロッカールームへと戻る。
そこではまだ、勝利の興奮冷めやらぬ仲間たちが、バルガスを胴上げして、馬鹿騒ぎをしていた。
以前の彼女なら、眉をひそめて、その輪から距離を置いていただろう。
だが、今のエルマは違った。
彼女は、まっすぐに、その歓喜の中心へと歩みを進める。
そして、汗だくで仲間たちに担がれている、バルガスの前に立った。
「……バルガス」
エルマの凛とした声に、騒ぎが少しだけ、静かになる。
バルガスは、きょとんとした顔で、エルマを見下ろした。
「お? なんだよ、エルフの姉ちゃん」
エルマは、少しだけ躊躇いがちに、だが、はっきりと、告げた。
その顔には、ほんのりと、朱が差していた。
「……ナイスバッティング、でしたわ」
一瞬の、沈黙。
そして、バルガスは、太陽のように、屈託なく笑った。
「おう! お前も、次、打てよな!」
その、あまりにも純粋な笑顔を見て、エルマも初めて、心の底から、小さく、本当に小さく、微笑み返した。
チームの異種族間にあった、分厚く、そして透明な壁が、また一つ、ガラガラと音を立てて、崩れていった。
明日からは1日2回更新です(12時と21時)