第13球 天空に描く放物線
試合は、終盤の8回表を迎えようとしていた。
スコアは、依然として0-1。
4回に、俺たちの小さなミスを完璧に突かれて奪われた、たった一点。その一点が、まるで大陸を隔てる大洋のように、重く、そして絶望的に、俺たちアークスにのしかかっていた。
俺が指示した「超感覚野球」は、確かに機能していた。
カイの獣じみた直感は、安打性の当たりを何度もアウトにし、シルフィの風を読む力は、外野に飛んだ打球を全て、そのグラブに吸い込んでいる。
守りは、膠着している。
だが、それは相手も同じだった。
俺たちの攻撃は、いまだルシオンの『予知』とも思える投球の前に、完全に沈黙させられていた。
出塁すら、ままならない。
ベンチの空気は、鉛のように重い。誰もが、攻略の糸口が見えない「見えざる壁」の前で、為すすべなく立ち尽くしていた。
「(ダメだ……守れてはいる。だが、このままじゃ、ジリ貧だ……!)」
「(攻撃で、何かを変えなければ……!)」
俺が焦りを募らせ、次の攻撃の策を必死に考えていた、その時だった。
ずっと、誰よりも悔しそうな顔で、唇を噛みしめながら戦況を見つめていたエルマが、フィールドで躍動する仲間たちの「セオリー無視」のプレーと、それをいなすルシオンの「自然な」野球を見比べ、ふと、何かに気付いたように、ポツリと呟いたのは。
「……違う」
その声は、あまりにも小さく、隣にいた俺とルーナにしか聞こえなかった。
「……え?」
「あいつ(ルシオン)は、読んでなどいない。未来予知なんかじゃない」
エルマは、確信に満ちた、射貫くような瞳で、俺を見た。
「――ただ、風や、マナの流れに、身を任せているだけだ……」
その一言が。
俺の思考の闇の中に、一条の雷光を落とした。
「(流れに、身を任せる……?)」
「(予知じゃない……? じゃあ、なんだ? 風……? マナ……?)」
「(まさか……!)」
頭の中のバラバラだったピースが、急速に繋がり始める。
そうだ、なぜ気づかなかった。
ルシオンの投球は、カイやシルフィの守備と、本質的には同じなんだ。
彼は「打者の思考」というミクロな情報を読んでいるんじゃない。
このグラウンド全体を流れる、風、湿度、魔力の流れ、観客の熱気、そういったマクロな『世界の呼吸』を読み、それに逆らわない、最も合理的で、最も自然な一球を、ただ投げているだけなんだ。
「(だから、俺たちが理屈で考えれば考えるほど、その思考の『歪み』を読まれて、逆を突かれる……!)」
「(そうだ、精密機械じゃない。自然そのものなんだ!)」
「(――なら、理屈で崩そうとするから、ダメなんだ!)」
「タイム!」
俺は、叫んでいた。
8回裏、アークスの攻撃が始まる直前。俺はバッターボックスに向かおうとするフィンを呼び止め、ベンチの前で円陣を組んだ。
「キャプテン……?」
「どうしたんだ、ソラ?」
選手たちが、いぶかしげな顔で俺を見る。
俺は、興奮で早くなる鼓動を抑えながら、全員に告げた。
「いいか、よく聞け。次の回、俺たちの攻撃戦術を、完全に変更する」
「……変更って、今までだって、何もできてねえじゃねえか」
ゼノが、皮肉っぽく呟く。
「ああ、そうだ。だから、全てを捨てる」
「……は?」
「全員、頭を空にしろ! 狙い球も、コースも、配球も、何も考えるな!」
俺の言葉に、選手たちがどよめく。
「な、何を言ってるんだキャプテン!」
「考えないで、どうやって打つんだよ!」
「そうだ! そんなの、ただの出たとこ任せじゃねえか!」
選手たちの戸惑いは、もっともだ。
だが、俺は構わずに続けた。
「出たとこ任せでいい! いや、それがいいんだ! いいか、相手は俺たちの思考を読んでるんじゃない。世界の『流れ』を読んでるんだ。なら、俺たちがやるべきことは一つ! 思考を捨て、理屈を捨て、お前たちの本能の『流れ』を、相手の完璧な『流れ』に、真正面からぶつけるんだ!」
俺は、一人ひとりの顔を見て、叫んだ。
「来た球に、お前たちの本能を、魂ごとぶつけろ!」
それは、監督として、転生者として、俺が積み上げてきた全てを放棄するにも等しい、狂気の采配だった。
選手たちは、戸惑っていた。
だが、俺のその目に宿る、狂気じみた確信に、何かを感じ取ったようだった。
◇
8回裏、アークスの攻撃。
この回の先頭打者は、7番のフィン。 特別に足が速いわけでも、パワーがあるわけでもない、ごく普通の人間族の選手だ。
だが、彼には、誰にも負けない武器があった。
「(絶対に、諦めない心……!)」
フィンは、俺の「考えるな」という指示を、愚直なまでに実践した。
ただ、来た球に食らいつく。その一心で、ファウルで粘り、相手バッテリーを苛立たせる。
そして、8球目。
根負けした相手投手が投じた、僅かに甘く入ったスライダーを、フィンの執念が捉えた。
打球は、ボテボテのサードゴロ。誰もがアウトだと思った。
だが、フィンは、ヘッドスライディングで一塁に滑り込む。
送球よりも、コンマ数秒、早かった。
泥だらけの、執念の内野安打だった。
「よっしゃあああ!」
ベンチが、今日一番の盛り上がりを見せる。
続く打者が、きっちりと送りバントを決め、ワンアウト・ランナー二塁。
次の打者が凡退し、ツーアウト・ランナー二塁。
そして、バッターボックスには、4番のバルガスが向かう。
スタジアムの空気が変わる。
これまで沈黙していた、アークスの最終兵器。
彼の登場に、シルヴァニアの鉄壁の守備陣も、明らかに警戒を強めていた。
俺は、バッターボックスに向かうバルガスの背中に、一言だけ、声をかけた。
「――バルガス」
「……おう」
「考えるな。来た球を、食ってしまえ」
その言葉に、バルガスは、ニヤリと、獰猛な笑みを浮かべた。
「応っ!」
彼は、全ての思考を捨てた。
ミーティングでのエルマの侮辱も、これまでの鬱憤も、チームの勝利も、今はどうでもいい。
彼の頭の中にあるのは、ただ一つ。
来た球を、ぶっ飛ばす。その、純粋な本能だけだった。
マウンド上のルシオンは、バルガスの全身から立ち上る、獣のような殺気を感じ取っていた。
だが、彼の表情は、変わらない。
彼は、いつも通り、世界の『流れ』を読む。
風、マナ、観客の期待と不安。その全てが、彼に告げている。
「(――外角低め、ストレート。この流れを、この一球で、完全に断ち切る)」
ルシオンは、静かに、そして完璧なフォームで、その腕を振るった。
放たれたボールは、彼の読んだ通り、寸分の狂いもなく、バッターボックスの最も遠い場所、外角低めのコースへと、吸い込まれていく。
理屈の上では、ミノタウロスの短い腕では、絶対に届かないはずの、完璧な一球。
だが。
全ての思考を捨てたバルガスの『本能』が、その完璧な『流れ』の、ほんの僅かな計算誤差を、こじ開けた。
「――ウオオオオオオオオッ!」
理屈では届かないはずのボールに、バルガスの肉体が、獣のように反応する。
彼は、体勢を大きく崩しながらも、その規格外のリーチとパワーで、強引に、バットを叩きつけた。
ゴッ!
ボールが、悲鳴を上げたような、鈍い破壊音が響き渡った。
バルガスが理屈を捨てたその一撃は、もはや「スイング」ではなかった。
それは、魂そのものを叩きつける、「爆発」だった。
打球は、美しい放物線を描き、夜空を切り裂いていく。
鉄壁を誇ったシルヴァニアの外野陣が、初めて、追うことを諦め、呆然と、その軌跡を見上げていた。
白球は、ぐんぐんと伸びていき、レフトとセンターの、最も深いフェンスを遥かに越え、その向こうにある、静かな森の中へと、吸い込まれるように消えていった。
逆転の、ツーランホームラン。
一瞬の、静寂。
そして、スタジアムは、割れんばかりの大歓声に包まれた。
圧倒的な『パワー』が、洗練された『美学』と『予知』を、粉々に打ち砕いた瞬間だった。
ベンチで、エルマが、その光景を信じられないという顔で、ただ、呆然と見つめていた。
自分が、最も軽蔑していたはずの、「野蛮な力」。
それが、自分では決して届かなかった、あの分厚い壁を、いとも簡単に破壊してしまった。
その事実に、彼女の価値観が、ガラガラと音を立てて、崩れ始めていた。