第12球 守り抜け、一点差
3回まで、パーフェクト。
アークスのスコアボードには、無情な『0』の数字が9つ、整然と並んでいた。
ベンチに戻ってくる選手たちの顔は、回を追うごとに色を失っていく。それは、ゴルダ戦で感じたような、パワーでねじ伏せられる悔しさとは全く違う、もっと静かで、冷たい絶望感だった。
「くそっ! なんなんだよ、あのピッチャーは!」
カイが、珍しく苛立ちを隠さずに、ヘルメットを地面に叩きつけた。
「こっちが何を狙っても、全部お見通しって感じだニャ……。まるで、心が読めてるみたいで、気色悪い!」
「ああ……」
ゼノも、いつもは余裕のあるその表情を歪めている。
「あれは、もはや心理戦ですらない。我々の思考の、さらに一つ上から、盤面を支配されているような感覚だ」
攻撃が完全に沈黙する中、俺たちの足取りは、守備につくだけで鉛のように重かった。
そして、その重圧は、確実にプレーにも影響を及ぼし始める。
4回裏、シルヴァニアの攻撃。
先頭打者が、初球、絶妙なセーフティバントを三塁線に転がした。
「グラン!」
俺が叫ぶ。マウンドのグランも必死にダッシュするが、その巨体では、俊足のエルフ打者に追いつけない。内野安打。
初めて、ランナーを出してしまった。
続く打者の場面。俺は、送りバントを警戒して、内野陣に前進守備を指示する。
だが、相手はバントではなく、ヒットエンドランを仕掛けてきた。
打球は、平凡なセカンドゴロ。併殺でチェンジだ。誰もがそう思った瞬間だった。
「しまっ……!」
セカンドのリコが、焦った。
スタートを切っていた一塁ランナーの、風のようなスピードが、彼の判断をコンマ数秒、狂わせたのだ。
併殺を狙おうと急いだリコの一塁への送球が、僅かに、本当に僅かに、高く逸れた。
その小さなミスが、全てを狂わせる。
一塁手のバルガスが、必死にジャンプして捕球する間に、打者走者はセーフ。さらに、一塁ランナーはその隙を突いて、三塁まで進んでいた。
記録上は、ヒットとフィルダースチョイス。
だが、内容は、俺たちの完敗だった。
ノーアウト・ランナー一、三塁。最悪のピンチ。
続く打者の打球は、浅いレフトフライ。
通常なら、三塁ランナーはタッチアップできない。
左翼手のフィンも、捕球体勢に入りながら「バックホーム!」と叫ぶ。
だが、三塁ランナーは、ためらわずにスタートを切った。
「なっ!?」
フィンの肩は、特別な能力のない人間族としては標準的だが、エルフの俊足相手では、あまりにも非力だった。
俺は必死にカットプレーを指示するが、ショートのカイからの返球は、タッチするには、ほんの僅かに遅かった。
「セーフ!」
たった一つのアウトも取れないまま、俺たちは、いとも簡単に1点を先制されてしまった。
それは、まるで熟練の狩人が、獲物をじわじわと追い詰めていくかのような、冷徹で、完璧な攻めだった。
◇
ベンチに戻ると、そこには、これまでで最も暗い空気が漂っていた。
ミスをしたリコは、俯いて自分の膝を殴っている。フィンも、自分の肩の弱さを責めるように、唇を噛みしめている。
(ダメだ……このままじゃ、ジリ貧だ……!)
俺は、自分の無力さを痛感していた。
俺の知る『セオリー』が、このエルフたちの規格外のスピードと、ルシオンの『予知』能力の前では、全て後手に回っている。
(俺の頭で考えている限り、あいつらの野球は超えられない……!)
(何かを、根本から変えなければ……!)
(だが、俺から、この転生知識を取ったら、一体、何が残るんだ……!?)
俺は、監督として、転生者として、最大の岐路に立たされていた。
自分の存在意義そのものを、捨てる覚悟があるのか、と。
「……タイム」
俺は、かすれた声で審判に告げると、マウンドへと歩き出し、内野陣を集めた。
選手たちは、また俺が小難しい指示を出すのかと、うんざりした顔で俺を見ている。
俺は、そんな彼らの顔を一人ひとり見つめ、そして、大きな賭けに出ることを決意した。
「いいか、お前ら」
俺は、静かに、だがはっきりと告げた。
「――もう、俺のサインは見るな」
「……は?」
「え?」
選手たちが、呆気にとられた顔で俺を見る。
「データも、セオリーも、俺の知識も、全部捨てろ!」
「な、何を言ってるんだ、キャプテン!?」
フィンが、慌てて俺に問いかける。
「じゃあ、俺たちは、どうやって守ればいいんだよ!」
俺は、ニヤリと笑って見せた。
「決まってるだろ。――お前たちの『本能』でだ」
俺は、猫族の遊撃手、カイを指差した。
「カイ!」
「……にゃあ?」
「お前は、打者がバットを振る、その瞬間に、お前の獣としての『勘』で、一番ボールが来そうだと思った場所に動け。理由も、根拠もいらない。俺は、お前の本能を信じる」
次に、ホビットの二塁手、リコを見る。
「リコ!」
「は、はい!」
「お前は、風の匂いを読め。打球がどっちに流れるか、お前のその優れた鼻が、一番よく知っているはずだ」
そして、俺は外野に向かって叫んだ。
「シルフィ!」
センターを守る、風の精霊のシルフィが、こくりと頷く。
「お前もだ! 風と話せ! 落下地点は、ボールがバットに当たる前に、風がお前に教えてくれるはずだ!」
それは、俺が、自分の唯一の武器であるはずの『転生知識』を、完全に放棄した瞬間だった。
俺はもう、監督じゃない。
この世界の住人たちの、計り知れない『理不尽』な超感覚に、全てを委ねる、ただの観客だ。
◇
守備が再開される。
相手打者が、バットを構える。
マウンドのグランが、腕を振る。
そして、打者がバットを振り抜いた、その瞬間だった。
「にゃあっ!」
ショートのカイが、獣のような叫び声を上げ、セオリーではありえない、三遊間の深い位置へと、弾丸のようにダッシュした。
直後。
キィン! という甲高い金属音と共に、痛烈なライナーが、まさにカイが走ったその場所へと、一直線に飛んでいった。
「うおおっ!?」
カイは、地面スレスレで、その打球に飛びつく。
ボールは、彼のグラブの先に、吸い込まれるように収まった。
スーパーファインプレー。
「アウト!」
スタジアムが、信じられないというどよめきに包まれる。
カイ本人が、一番驚いていた。
「にゃ、にゃんで分かったか、分かんないニャ……。でも、なんか、あそこにボールが来るって、血が騒いだんだニャ……」
それは、もはや野球のセオリーでは説明できない、超感覚の世界だった。
続く打者の痛烈なセンターへのフライも、シルフィが打った瞬間に走り出し、落下地点で、まるで最初からそこにいたかのように、悠々と捕球した。
アークスの守備は、俺の知識から解放されたことで、全く新しい次元へと進化を遂げた。
それは、予測不能で、荒々しく、だが、生命力に満ち溢れていた。
俺たちは、選手たちの超感覚によって、なんとかシルヴァニアの猛攻を凌いでいく。
失点は許さない。
だが、攻撃の糸口は、依然として掴めないまま、スコア0-1の膠着状態で、試合は終盤へと向かっていった。
ベンチで、俺は焦りを募らせていた。
「(守れてはいる。だが、このままじゃ、ジリ貧だ……!)」
その時だった。
ずっと、誰よりも悔しそうな顔で、黙って戦況を見つめていたエルマが、フィールドで躍動する仲間たちの「セオリー無視」のプレーと、それをいなすルシオンの「自然な」野球を見比べ、ふと、何かに気付いたように、ポツリと呟いたのは。
「……違う」
「……え?」
「あいつ(ルシオン)は、読んでなどいない。未来予知なんかじゃない」
エルマは、確信に満ちた瞳で、俺を見た。
「――ただ、風や、マナの流れに、身を任せているだけだ……」
その一言が、この分厚い、見えざる壁を打ち破る、最大のヒントになることを、俺はまだ知らなかった。