第一話 サラリーマン
ネオンがやかましく光っている街がある。
シャワーのように酒を浴びている男がいると思えば、この世の終わりかのように目を腫らしている少女がいたりする。欲望の街とはこのことだ。
そんなきらびやかな街で、光っていないのはきっと僕だけだろう。
地味なIT企業でコードと睨めっこして一日を終えたばかりだというのに、周りは楽しそうなニンゲンばかりだ。
おじさんのご機嫌取りをして、口だけ達者な営業からの無理難題にこたえて――、一体何のために働いているのだろう、そんなことを考えてしまう。
顔を上げると、ネオンの明滅を映してぎらついているバッグを肩に下げた女性たちが、建物の壁沿いに何人も立っていた。きらびやかな化粧に不釣り合いの鋭い目つき。彼女らに声をかけられたらたまったものじゃない。目先を鈍く光るつま先に落とし、早足に歩く。
――チッ...。
すぐ近くで舌打ちの音がした。反射的に肩がすくむ。目をつけられてしまったのだろうか。
「は?...おっさん、今ウチらに舌打ちした?」
壁にもたれていた派手な服の女二人が鋭い視線を向けてきた。背中を凍り付かせるような、鋭利なまなざしだ。
「ち......違いますぅぅぅ!」
声が裏返るのと同時に踵を返して走り出していた。もう逃げるしかない。
「おい!待てオッサン!」
聞いたことがないような発狂まがいの怒号と変に踵の細いハイヒールが飛んできたが、そんなもので止まってはいられなかった。
走った。とにかく走った。
肺が焼けるよう痛くなり、額から滝のような汗が落ちるころにはもう、罵倒の声もヒールの音も遠い喧騒に紛れて聞こえなくなっていた。
「な....なんなんだよ、まったく....」
肺の空気をすべて取り換えるように大きく肩を揺らす。
さっきの舌打ちは、おそらく僕のものだったのだろう。自分の舌打ちにビビるなんて、我ながら情けない。
まだ揺れが収まらない肩をさらに落としながら、見覚えのない路地を見回す。はたから見たら迷子の犬のようだろう。心の中のしっぽが股の間から見えたような気がする。
路地裏と言ったほうが正しいのだろう、なぜか濡れている地面には、生ごみがぎゅうぎゅうに詰まった袋が口を開けひどい匂いを漂わせていた。それに誘われたように、ネズミが独特の声を上げながらごみをむさぼっていた。
「どこ...ここ?」
無我夢中で走ってきたらしい。ここまでの道をまったく覚えていない。
胃からこみあげてくる何かを抑えながら、さっきの光景を振り返るまいと歩き出した。
鼻腔を刺すような酸っぱい匂い、喉の奥を焼くような焦げた苦み、そして、腐りかけた果実のような甘さ――。
それらが溶け合って、空気そのものがどこか毒々しく濁っている。
いつの間にか、街の喧騒は遠のいていた。誰の声もしない。ただ、臭いだけがまとわりついてくる。
思わず顔をしかめながら、呼吸を浅くして歩く。
しばらくすると、臭いにも慣れてしまったのか、あるいは僕の鼻が壊れてしまったのか――気づけば、嫌悪感すら感じなくなっていた。
「……慣れるって、こういうことか……」
苦笑のようなため息をつき、革靴の先を左へ向ける。
まだ続く悪臭の中を、一歩ずつ進みながら、僕はふと気がついた。
空気の中に不思議な香りが混じった。
甘いようで、どこかすっぱい。渋さと柔らかさが同居していて、言葉にできない。
まるで、いくつもの香水が溶け合って生まれたような、官能的な芳香――。
どこか、幾重にも重なった花の香りのようでもあった。
香りに誘われて、路地の角を曲がる。
路地の奥、闇に紛れるようにして、小さな屋台がぽつりと佇んでいた。
赤提灯がゆらめき、微かな熱を撒いている。漫画で見たことのあるような、古びた手押し車の屋台だ。
暖簾には文字一つなく、誰かが光を織って染め上げたかのように、白く澄んでいた。
……なんで、こんな場所に?
時刻は夜11時をすでに回っている。通りは人けもなく、灯りも乏しい。
そもそもここは路地裏だ。町の喧騒は遠くに聞こえるだけで、人の往来は期待できないだろう。
普通じゃない、と頭ではわかっているのに、目が離せない。
脳の片隅で「近づくな」と警報が鳴っているのに、身体が勝手に前に出てしまう。
まるで、香りそのものに引きずられているようだった。
「お兄さん、軽く疲れをとっていかないかい?」
耳に届いた声には、どこか若さと艶めきがあった。
普段は怒鳴る上司か、感情のない同僚の声ばかりだからか、その声音はやけにやさしく感じた。
暖簾を軽く上げ、中を覗くと、顔の前にひらりと布を下ろしている黒髪の青年が立っていた。
青年は、肩から足元まできちんと和服をまとい、その上から白いエプロンを腰に巻いていた。昭和の映画から抜け出してきたような、不思議と様になった出で立ちに、つい目を奪われてしまった。
いぶかしげに青年をうかがっているとまた声をかけられた。
「初めましてですね。ではサービスです!ささ、おかけになって!」
促されるままに席に腰を下ろしてしまった。
「お兄さん、ずいぶんお疲れだねぇ。だったらこれだ!一発で疲れが吹き飛ぶよ!」
青年はそういうと、茶碗に水を注ぎ、ことりと僕の前に置いた。
そして、意気揚々と小瓶を取り出し、水に一滴垂らした。しずくは黄金色で、水に触れた瞬間かすかに花畑が目の前に広がった。
...今日は疲れているのだろう。幻覚も見える。
「さあさ!どうぞグイっと一気に!」
青年の押しの強さに負け、恐る恐る口をつけた。かすかに甘いただの水のようだった。
手にしたお椀の縁はわずかに歪んており、左右不対象に膨らんでいる。かといって不完全というわけではないようで、深々と塗られた黒漆は提灯の光を受け怪しく光っている。工芸品のことはわからないが、雅な椀とはこのことを言うのだろう。
揺れる水面に、僕の顔が映っていた。
楕円型の黒縁メガネの奥、墨を流したような深いクマ。
見慣れたはずなのに、どこか遠く、まるで他人のように感じられた。
そこには、疲れと無気力だけを張りつけた、しがないサラリーマンがいた。
「おにーさん、今日は災難だったねぇ。こっぴどく怒られた上に走り回る羽目になるなんてさ。」
青年は小首をかしげ、肩まで手を挙げてみせた。
どこか芝居がかったそのしぐさは、まるで「やれやれ」とでも言いたげだった。そのような動きをしているのに、顔の布はなぜか張り付いたままで、肌のひとかけらすら見ることはできない。
慰めてくれようとしているのだろう。人のやさしさに触れたのはいつ振りか。
霞がかった記憶を思いながら、かすかに花の香りがする水を口に運ぶ。
「...あれ?」
茶碗の水から花の香りが?
最初は何も感じなかった、しいて言えば薄い砂糖水くらいの感触だったのに、今は明確に、花の匂いがする。
淡く、どこか懐かしく、鼻先に触れるたびに胸の奥がきゅうっと締めつけられるような香り。
――いつから、こんな香りがしてたっけ?
「おや?どうされました?」
青年が柔らかく首を傾げた。だが、張り付いた布は動きすらしない。
「いや、その...この香り...なんだか...」
知ってるような...。
そう言いかけて、自分の言葉がふわついているのに気が付いた。
「お気に召していただけましたか。それはよかった。」
静かな声が、少し遠くから響いてくる、そう思えた。
そういえばもう一つ。
僕はいつ「怒られた」ことや「走り回った」ことを話したんだっけ?
問いかけるようと口を開きかける瞬間、ふと、視界の端に花が咲いていることに気が付いた。
――なんでこんなところに花が?
視線を上げると、屋台の周りにはいつの間にか小道が伸びていた。
石畳の隙間からは所狭しと草が生え、淡い黄色がかった花弁が風に舞っていた。
……さっきまで、異臭の漂う路地裏にいたはずだったじゃないか。
いつ変わったのか、巻物を広げるように記憶をたどる。
僕は、派手な人に追いかけられて走ったんだ。
逃げた先で待っていたのは、石畳だった気がする。両脇に広がっていた草原に心が震えたんだったっけ...?
進んだところで、ネズミが何かを食べていたかな。
いい香りに誘われて、お日様のような穏やかな光が浮いていて...。
身体が軽くなる。まるで湯船に沈むように、思考がとろけていく。
「―――、――。」
何かを話した青年の声は、もう耳ではなく、胸の中にしみこんでくるようだった。
「スープが覚めちゃうわよ! さっさと起きなさい!」
階下から母親の声が聞こえる。
開き切らない目をこすりながら布団をめくった。妙に軽いそれは、鳥の羽毛を使っているようで、ところどころから綿毛が飛び出している。
ぼんやりした頭のまま、足を床に下ろす。床板は冷たくも温かくもなく、ただ静かだった。
部屋の窓からは、朝靄をまとった小さな町が見える。レンガ造りの屋根が重なり合い、煙突から煙がゆるやかに立ちのぼっている。
ギシギシと音が鳴る階段を降りると、木の匂いとスープの香りが鼻をくすぐった。
小さなテーブルの上には、二切れのパンと深皿に注がれた野菜のスープ。母はもう食べ終わっていて、白いエプロンの裾をふわりと揺らしながら洗い物をしていた。
「お兄ちゃんはもう出かけちゃったわよ」
母が言う。
「えっ、ずるい……!」
今日は兄と遊ぶ予定だったのに、起こすどころか待ってすらくれないなんて。
薄情だと思いながらも、一緒に遊ぶことを考えると頬が緩む。
急いでパンをかじり、スープを飲み干し、口を拭う間もなく玄関へ走る。
「行ってきます!!」
母の返答を待たずにドアを開けると、朝の空気が勢いよく顔にぶつかってきた。涼しくて、少しだけ草の匂いが混ざっている。
石畳の通りを駆け抜ける。レンガの家々が続く小道を抜けると、一面の花畑が広がっていた。
風が吹き抜けるたび、色とりどりの花がさわさわと揺れ、あたりは蜜のような甘い香りで満ちていた。
遠くの丘の上に、兄の姿が見える。
手を振っても気づかず、くるりと背を向けて歩いていく。
「まってー!」と思いきり叫び、花畑へと駆け出した。
走る足がもつれたのは、たぶんほんの一瞬のことだった。
前のめりに転び、顔から花の中へ突っ込んだ。
ふわふわとした花弁が頬を撫で、視界の中がピンクや黄色、白に染まった。
「あははっ……!」
自分の転び方が可笑しくて、つい笑ってしまう。
すると、ふいに誰かが駆け寄ってくる気配がした。
「顔から地面に突っ込んでたけど、大丈夫?」
やさしい声だった。顔をあげると、白いワンピースを着た少女が立っていた。
透けそうなほど白く細い手を差し出している。
日差しを受けて淡く光るその手を、思わず見とれながら掴んだ。
体を起こすと、少女は少しはにかんだように笑った。
「ありがとう。僕は……えっと...」
話したいのに、口がうまく動かない。
彼女の瞳から目が離せない。全身が熱くなって、耳から火が出そうだ。
少女は、風に髪をそよがせながら、口を開く。
「初めまして。わたしは――」
――チリン。
どこかで鈴の鳴るような音がした。
世界が、一枚の薄い布のように波打つ。
「……もうそろそろかな?」
胸の奥で、誰かの声が響いた。
その瞬間、花畑の色がゆっくりと白くぼやけ、地面が大きく揺れた。
「...お...さん......お客さーん...」
誰かに揺り起こされるような気配がして、僕はゆっくりと頭を上げた。
額が、木の机の表面からペトリと離れる。そこには、うっすらと水滴のような汗がにじんでいたが、不快感はなかった。
視界がふわりと明るくなる。目を覚ましたばかりのはずなのに、頭はやけに冴えている。重さも、だるさもない。
むしろ――軽い。
心も、体も、ふっと宙に浮かぶような軽やかさを帯びていた。
青年が、変わらず目の前に立っている。
赤提灯の光が揺れていて、その灯りの下、青年の白い布が静かにたなびいていた。
「今のは...一体...?」
夢とも現実ともつかぬ、あの景色が頭から離れない。
あれはどこだったのか。知らないはずの町、知らない花畑。
けれど――確かに、あの風の匂いや、花に頬を撫でられた感触が、まだこの皮膚のどこかに残っている気がした。
「お客様がご覧になったのは“記憶”ですよ」
青年が答えた。声はいつも通り柔らかく、軽やかだった。
「誰かさんの記憶。とっておきの、幸せな記録です」
「記憶...ですか...?」
唇の裏に、まだスープの味が残っている気がして、僕は思わず口元をなぞる。
「さあお客さん!」
青年は手を叩くようにして笑った。
「疲れはとれたようですね!今夜はもう遅いです。どうぞご安全におかえりください。」
半ば急かされるように席を立つ。
「またのご利用をお待ちしてまーす!」
屋台の提灯が、風もないのにふわりと揺れた。青年は屋台をゆっくりと押しながら、静かな路地の先へ消えていった。
僕はしばらく、その背中を眺めていた。
さっきまで確かに存在していた“あの世界”が、余韻のように体内に残っている気がしてならなかった。
あれから数か月が過ぎた。
あの夜の屋台を思い出すたび、胸の奥がきゅうと締めつけられた。あの記憶の香りが忘れられず、翌日も、そのまた翌日も、同じ路地を何度も通ってみた。でも、屋台は影も形もなかった。
少しずつ、思い出は色褪せ、現実の重みが戻ってきた。
仕事に追われ、時間に削られ、眠気と疲労に沈む日々。
もう一度会いたい。その想いも、次第に自分でも笑ってしまうほど曖昧なものになっていった。
残業終わりの重たい帰り道。
ふいに、あの香りがした。
花でも、香水でもない。なのに妙に甘く、胸の奥にじわりと染みてくる香り。
僕は吸い寄せられるように、その香りを追って細い裏路地へ入っていた。
聞き覚えのある若い声と、酒焼けしたしわがれ声が言い争っていた。
「……最高級の記憶をよこせ……まだ足りねぇ……」
「それはですねぇ……危険ですよ……あんまり飲みすぎると……」
角からそっとのぞき込むと、青年が渋々と頷き、茶碗に黒い雫を垂らした。
男がそれを飲み干すと、呻くような声が漏れ、やがて泣き出すように「許してくれ」と叫びはじめた。
声は、泣き声とも、叫びとも、断末魔ともつかぬ響きになった。
まるで何かが壊れていくように、男の体は跳ね、やがて動かなくなった。
「ふふっ。面白い記憶でしたね。お客様……なかなか深い後悔をお持ちで」
青年は、白い布の奥で、笑っているようだった。
恐ろしい光景に、僕はその場に凍りついた。
だが、香りだけはなおも鼻腔をくすぐってくる。
その中に混じるのは――硝煙。土と煙の焦げた匂い。そして、血のにおい。
「この記憶は手に入れるのに苦労したんですよ。なんせ戦場まで取りに行きましたから」
まるでわざと聞かせるように、青年が言った。
一歩、また一歩と、こちらに向かってくる。
その香りは、だんだんと濃く、熱を帯びていく。
僕は逃げ出した。体が勝手に反応していた。
靴音だけが、路地裏に虚しく響いた。
――あの香りを、僕は生涯忘れることはない。
けれど、もう二度と近づくことはない。
あれは誰かの記憶。誰かの人生。
甘く、美しく、時に残酷な、切り取られた一場面。
あの夜、僕は確かにそれに救われた。けれど、今なら分かる。
それは、ほんのわずかな角度で、僕の足元を狂わせていた。
僕はもう、あれを“羨まない”。
あれは僕の人生じゃない。僕の痛みも、僕の選択も、僕の歩みも、そこにはなかった。
そう信じることでしか、もうあの場所から離れられない気がしていた。
けれど――
ときおり、風に混じって、あの香りが鼻をかすめることがある。
記憶の残り香のように、どこかで、ずっと。