03 高校
「あー……やっぱ、さすがに眠いわ……」
俺は大きなあくびをする。家を出ると、電車に乗り、高校の最寄り駅に着いた。
駅から十五分ほど離れた場所に学校がある。学校に向かって歩きながら、俺はもう一度あくびをした。
校門をくぐり、昇降口で上履きに履き替えると、右に曲がって廊下をまっすぐ進んだ。自分のクラス──一年二組の教室のドアを開ける。
「ういーっす」
「お、朝陽。はよーっす」
挨拶をしながら入ると、先に教室にいた友人が挨拶を返してきた。
窓際の一番後ろが自分の席。中学二年生の辺りから、ぐんぐんと身長が伸び、そのおかげで一番後ろがほぼ自分の定位置となった。中三からずっと後ろ。たまには前の席になってみたいと思ったが、黒板が見えにくいとクレームが多発することは想像に難くない。
カバンからペンケースや教科書を取り出す。それが終わると、机の横にあるフックにカバンを引っかけた。俺の前の席に座っている吾妻が、後ろを振り返って、声をかけてくる。
「朝陽、お前めちゃくちゃ眠そうじゃん」
「ちょっと昨日ゲームしすぎた……あくびが止まらん」
「ゲームか。それは仕方ないわ」
「だろ? あと五分だけ! が、一時間になるよな」
吾妻が、腕を組んで「わかる」とうなずく。そんな何気ない会話をしていると、またひとり「おっす、おはよー」と声をかけ、俺たちの輪に入ってきた。
ホームルームの始まりを告げるチャイムが鳴る。
俺たちはお喋りをやめて、俺と吾妻以外は自分の席に戻っていった。
一限目が始まり、先生が教科書を開いて、読み上げる。その単調な声は、眠気を誘うには十分だった。
今日は外の天気もいい。窓際にいる自分を暖かな空気が包み込む。俺は教科書を持ち上げ、口元を隠し、大きなあくびを連発した。
**
キーンコーンと、ようやく午前の終わりを告げる鐘が鳴る。
お昼休みに入った途端、教室がざわめき出した。俺はポケットからスマホを取り出し、画面を確認する。授業中にポケットの中で震えていたので、何かの通知が届いているはずだ。
新着のメッセージが一件──送信主は母さんだった。画面をタップしてその内容を開く。
「えっ……あれ?」
俺は机の横にかけているカバンに手を伸ばす。中を開けてみた。いつもなら、そこに鎮座しているはずのものが……ない。
「本当だ。弁当忘れてる」
送られてきたメッセージには『お弁当忘れてるわよ』と書かれていた。
朝、教科書を取り出したときには、まったく気づいていなかった。はぁ……と、ため息を吐く。俺は、スマホを操作し、母さんに返信を送った。
──ごめん。メッセージ、今見た。お弁当は夜に食べる。
スマホをポケットにしまうと、カバンの中から財布を取り出し立ち上がる。椅子を引いた音が聞こえたたのか、吾妻が後ろを振り返った。
「あれ? 朝陽、どったの?」
「弁当忘れたから、学食に行ってくる」
「マジか。俺も一緒に行く?」
「お前、弁当じゃん。教室でゆっくり食べてろよ。ラーメンでも食ったら、すぐ戻るわ。……あ、帰りにジュースでも買ってこようか?」
「お前のおごりなら買ってきて」
「ばーか。金はしっかり請求するよ」
俺がそう言うと、吾妻は「じゃあ、いらね」と笑って返してきた。吾妻に軽く手を振り、俺は教室の外に出る。この高校の学食は激戦区だ。食いっぱぐれないようにと、早足で学食へ向かった。
「うーわ。もう溢れ返ってるじゃん……」
たどり着いた食堂前で、思わず心の声が漏れた。
注文カウンター前には人の壁ができている。俺が立ち尽くしている間にも、人がバタバタと走ってきて、その壁に突撃していた。ここで怯んでいては、食べ物にありつけないと思った俺も、厚い人壁に向かって行った。
「おばちゃん! A定食ひとつ!」
「綺麗なお姉さん! 日替わりひとつお願い!」
「あいよ! 日替わりだね!」
学食のおばちゃん、もとい、お姉さんはあっちこっちから飛んで来る注文をテキパキと受けていく。次々に伝票に書き込んでは、会計もこなしていた。会計が済むと、数字の書かれた控えの番号札を生徒に渡していく。注文をし終えた生徒は、受け渡し口のほうへと移動し、まだ注文できていない生徒のために注文カウンター前の場所を譲った。
人壁が薄くなってきた。そろそろ順番が回ってきそうだ。
声をあげていいだろうか……? とそう思ったとき、俺の前にいた人物がオロオロと困っていることに気づいた。
「あのっ! すみません……ラーメンを……」
「お姉さん! A定食!」
「あいよ! A定食!」
次々と周りの生徒が注文を頼んでいく中、その人だけが取り残されているようだった。
慣れない学食に苦戦している、そんな印象がある。もう一度、彼は「あの」と声をあげた。耳の奥に優しく届く透明感のある声は、学食という激戦地では不利だったようだ。俺はその人の肩を軽く叩いてから、大声を張り上げた。
「おばちゃん、ラーメンふたつ!」
俺がそう言うと、彼はビクッと身体を震わせる。振り返った顔は、驚きの表情を浮かべていた。
おばちゃんは、元気に「あいよ!」と返事をして、注文を伝票に書き込んだ。会計を済ませ、控えの番号札を受け取った俺は、困っていた彼に『あっち』と指さして合図を送った。
「料理の受け取り口あそこだから。って、今更だけどラーメンでよかった……よな?」
「あ、う、うん。ありがとう」
数分ほど待って、ラーメンの載ったトレイを受け取る。俺は食堂を見回した。注文という名の激戦が終わると、次は場所取りという名の激戦が始まる。
(……どこも空いてないな)
このままウロウロしていては、麺はすぐに伸びてしまう。トレイを持ったまま、一度食堂の外に出るか? と考えていたとき、肩をトントンと叩かれた。
「あの、もし座るところがないんだったら、一緒にどうかな?」
困っている俺に声をかけてくれたのは、先ほど注文に手間取っていた彼だった。彼が指さした先には、ハンカチが置かれた──場所取り済みのテーブルがあった。
「え……? いいの?」
「う、うん。さっきすごい助かったし、困ったときはお互い様」
「ありがとう。正直、すごい助かる」
にっこり笑ってお礼の言葉を告げると、バッと目を逸らされた。少しオドオドした様子で、俺の前を歩いて場所取り済みの席へ移動する。テーブルの上にトレイを置くと、彼はハンカチを畳んでポケットに仕舞った。
向かい合って座り、ふたりで「いただきます」と手を合わせる。箸を手に取ると、まず麺を啜った。出来たてのラーメンは美味い。レンゲを使ってスープを飲む。伸びきる前に食べられたという安堵と、スープのあたたかさに満たされて、思わずほっと息が漏れた。
ラーメンを半分ほど食べて、お腹が満たされて始めた頃、俺はようやく目の前の人物へ興味が湧いた。箸を一度置き、ラーメンの横にあるコップに手を伸ばす。水を少し飲んでから、彼に話しかけた。
「ごめん。そういえば自己紹介してなかった。俺は遠野朝陽、一年なんだけど……同学年、だよな?」
制服のタイの色が、自分と同じ緑色だ。三年はえんじ色で、二年は青色。同じネクタイの色ではあるが、見慣れない顔だ。クラスが違うことは確実だった。
「あ、オレは結城真。先週、転校してきたんだ」
「なるほど。転校生だったのか……そういや、クラスの女子が『イケメン転校生が来た』って、騒いでたな……あれって、結城さんのことだったのか」
「真。オレのことは真でいいよ」
「じゃあ、そっちも俺のことは朝陽って呼んで」
俺は再度箸を持ち、麺を啜る。真も同じように麺を啜った。咀嚼して飲み込んでから、また会話を再開する。
「真は何組? 俺は二組」
「あ、オレは特進の一組」
「特進クラスか~! 頭いいんだな」
「そんなことないよ……って言いたいけど、まぁね。勉強はちょっとだけ得意なんだ」
「おっ! いいね。謙遜しないの、俺好きだわ。特進には知り合いいないんだよな~今度、教室に遊びに行ってもいい?」
「うん。オレ、まだ友達ができなくてさ……朝陽が遊びにきてくれたら、ちょっと嬉しいかも」
『儚げ美人』という代名詞がつきそうな顔をした真が、へにゃっとその表情を崩す。そのギャップに、俺の箸が一瞬止まった。
(まだ友達ができなくて……って、もしかして、この顔も関係してるんじゃ……?)
最後の一本を食べ終わると、箸からレンゲに持ち替えてスープを啜った。ちびちびと啜るのが面倒になった俺は器を持って、スープを飲む。最後の一滴まで飲み干して、はぁと息を吐いた。食べ終わって、やることがなくなった俺は、正面に座っている真を改めて観察した。
サラサラとした艶のある薄茶色の髪。耳横の辺りの髪は前髪より少し長く、顎の辺りまで伸びていた。ラーメンを食べるには少し邪魔なようで、時々、髪を耳にかけながら食べている。
真が伏目がちになる。長いまつげだ。左目のすぐ下の辺りに、小さなホクロがあった。泣きボクロってやつか。ただの小さな黒い点が、色気の底上げをしていた。
俺はじいっと見つめすぎたらしい。視線を上げた真が、「なに?」と言ってきた。
「いや、真って美人だよなぁ~って思って」
俺がそう言うと、真はブフッとむせる。ゴホゴホッと数回咳をした後、ポケットからハンカチを取り出し、口に当てていた。
「突然、なに……何なの?」
「あ、ごめん。食べ終わって暇だから、ちょっと真を観察してた。さっき友達ができないとか言ってたけど、理由がわかったかも。綺麗なやつってさ~なんか声かけづらい雰囲気あるとかあるよな」
「ええ……? 美人? 綺麗? そんなことないと思うけど」
「いやいや、めっちゃ綺麗な顔してるって。いいなぁ~うらやましい」
ラーメンを啜り終わった真が箸を置く。それから、コップに手を伸ばし水を飲んだ。コップを置くと、トレイを少し横にどけて、テーブルに肘をつく。じいっと長いまつげとその奥の瞳が、俺のことを見つめてきた。
「そういう朝陽のほうこそ、顔悪くないじゃん。むしろ男らしい顔つきで、正直うらやましいんだけど?」
「そうかぁ? そんなこと言われたことないけど」
「それに、その声! 低くてかっこいい……マジでうらやま」
「あー……声は、まぁ……褒められるかな。クラスの女子に、声優の誰それに似てるって言われたことならあるかも」
「オレの声は、良くもなければ悪くもない、なんかフツーって感じだしなぁ」
「そうかな? 声も綺麗じゃん。……っと、そろそろ行くか」
俺はそう言った後、コップに残っていた水を全部飲み干す。ごちそうさま、と両手を合わせた。
真も同じように手を合わせる。俺たちは立ち上がった。席を探してキョロキョロしている人物に向かって、「ここが空くぞ」と軽く合図を送った。
トレイを一緒に返却口に返すと食堂を出てた。普通クラスの俺は一階、真は特進クラスだから二階。渡り廊下を歩いて、階段のあるところまでは同じ道のりだ。
「声優の誰かに似てるって言われてるなら、朝陽は動画投稿とかやってないの?」
隣を歩く真が少し首をかしげ、下から覗き込むように聞いてくる。俺のほうが身長あるため、自然とそういう角度になった。
──俺の心臓がドキッと跳ねる。
配信をやっていることがバレたのかと、一瞬焦った。動揺を表に出さないように気をつけながら、俺はその質問にこう答えた。
「やってない。俺は、やってないよ」