02 兄貴
ピピピ、とスマホから目覚まし音が鳴る。
俺は枕元を探って、その音を止めた。
「うー……」
ゴロンと寝返りを打ちながら、重いまぶたを無理やりこじ開ける。しかし、すぐに閉じた。……眩しい。
カーテンの隙間から陽の光が部屋の中に差し込んでいる。俺はそっと目を開け、その眩しさにもう一度眉をしかめた。
ベッドから降りて、カーテンを開ける。それから、窓を開け、朝の澄んだ空気を思いっきり吸い込んだ。鼻の奥がひんやりするのを感じた後、ゆっくりと息を吐く。そうやって、寝ぼけた頭に「起きろ」と合図を送る。しっかりと目が覚めたところで、俺は窓を閉めた。
机の横にある本棚に目をやる。写真立ての兄貴に向かって、声をかけた。
「兄貴。おはよう」
変わらない笑顔。返事はないが、その微笑みは「おはよう」と返してくれているようだった。
俺も釣られて口角をあげる。すると、母さんが「朝陽ー!」と呼ぶ声が部屋に届いた。
階段下から、二階に向かって声をあげているようだ。俺の名前を呼んだあと、「おきなさーい!」と続けて叫んでいた。
「起きてるー! いま行くー!」
俺は大声で返事をする。部屋のドアを開け、階段を下りた。
そのまま洗面所へ行き、先に顔を洗う。濡れた顔を上げると、鏡に映った頭には寝癖がついていた。尻尾のようにピンと跳ねた髪は、ちょいちょいと撫でた程度では直らなさそうだ。
洗面台の蛇口をシャワーに切り替えて、冷たい水のまま頭全体を濡らす。それから、タオルでしっかりと拭いた。短髪の頭は、これだけですぐに乾く。ドライヤーいらずの頭は楽でいい。
寝ぐせが直ったことを鏡で確認すると、俺はリビングへ向かい、ドアを開けた。
「あー……腹減った。母さんご飯~!」
お腹をさすりながら、テーブルにつく。
リビングではテレビがついており、朝の情報番組が流れていた。
母さんは「はいはい」と言いながら、ご飯と味噌汁を運んでくる。
テーブルの上には玉子焼き、焼き鮭、小さなサラダが置いてあった。母さんが椅子に座った俺の横からみそ汁を差し出す。湯気とともに立ちのぼる香りが、腹の虫を刺激した。俺は手を合わせ、「いただきます」と言ってから、箸を手に取った。白米を口に運び、次に玉子焼きに箸を伸ばす。
母さんは一度キッチンへ戻り、お茶を淹れているようだった。お気に入りのマグカップを持って戻ってくると、俺の正面に座る。母さんは湯気が立ちのぼるカップに息を数回吹きかけた。ずずっと啜りながらテレビを見ていたが、ふいに何かを思い出したように、俺のほうを見た。
「そうだ。朝陽、今度の土曜日は予定を空けておいてね」
「ん? なに?」
「お兄ちゃんの一周忌だから。前にも言っておいたと思うけど、覚えてる?」
「うん。もちろん覚えてるよ」
「それならよかった。にしても……週間天気予報だと、ちょっと週末の天気は悪そうねぇ」
母さんの視線が俺からテレビに戻る。俺も釣られてテレビを見た。土曜日の予報は、傘のマークがついており、降水確率は60%と表示されていた。今日は月曜日。土曜日が近づくにつれ、この予報も変わるかもしれない。
俺はみそ汁に手を伸ばし、ずずっと啜る。口に広がる温かさに、ふうっと息が漏れた。
一年前までは隣にいたはずの、けれど今はいない隣の椅子をチラッと見た。
遠野光輝──五歳年上の兄貴の名前だ。
兄貴は一年前に交通事故で亡くなった。
あれは忘れもしない中三の秋だった。
受験勉強の追い込みがかかり始めるこの時期に、突然、教頭先生が教室にやってきた。
「遠野朝陽くん。今すぐ家に帰りなさい」
教頭先生はそう言うと後、担任の先生に近寄り、ヒソヒソと何かを話し始めた。
俺はポカンと口を開いたまま、固まっていた。いきなりそんなことを言われても、「はい。わかりました」と言って、すぐには立ち上がれなかった。
教頭先生は教室を出ていく。話を終えた担任の先生が、教頭先生と同じ言葉を俺に告げた。
「遠野。すぐに荷物をまとめて家に帰りなさい」
「……はい」
──なんで?
先生にそう聞きたいけど、聞いてはいけない雰囲気が漂っていた。
俺は混乱したまま、机の上のシャープペンを片付ける。教科書とペンケースを一緒にカバンにしまい、忘れ物がないか確認してから教室を出た。
自転車に乗って、自宅へ向かう。
家に着くと、自転車に鍵をかけてから玄関のドアを開けた。
「ただいま」
今日は平日。この時間には誰もいないはずだ。
俺は習慣で「ただいま」と、つい言ってしまった。
(……あれ?)
玄関に、ここにいないはずの人間の靴がある。
黒い革靴──これは父さんの靴だ。
「……父さん? いるの?」
靴を脱いで、廊下を歩く。リビングに続くドアを開けた。すると、ソファーに座って俯いている父さんの姿がそこにあった。
俺の胸が、ざわつき始める。
いつもの父さんなら、靴を揃えて家の中に入る。
──なのに今日はその靴が乱れていた。
俯いている父さんのまわりだけ、空気が異様に重い。
──学校では理由もわからないまま帰された。
それらすべてが、なぜか俺の不安を煽ってくる。
「父さん……?」
声をかけると、父さんの身体がビクリと揺れた。顔をあげて、こっちを見る。
「あ、ああ……朝陽か。帰ってきたのか」
「うん。先生から家に帰れって言われたんだけど……父さんこそ、仕事は?」
「…………」
父さんは黙ったまま、立ちあがる。俺に近づいてきて、足を止めると両肩をぐっと掴んできた。
眉間の皺が深くなる。険しい顔つきに、俺はごくっと唾を飲んだ。
「これから病院に行く」
「……これから? どっか悪いの?」
「朝陽。心して聞きなさい」
「…………え?」
手に持っていたカバンが、ドサッと床に落ちた。父さんが言った言葉が信じられなくて、何度もまばたきする。言われたからと言って、実感なんて湧くはずもない。けれど、胸の奥に言葉にできない黒いインクのようなものが滲み出す。
────兄貴が、死んだ……?
父さんが「母さんは先に病院に行っている。俺たちも行くぞ」と俺に告げた。玄関に向かって歩き始める。俺は父さんの背中を慌てて追いかけた。目の前を歩いている背中が、少し小さくなった気がするのは……気のせいだろうか。
靴を履いて外に出ると、父さんがいつの間にか呼んでいたタクシーが止まっていた。後部座席に乗り込むと、父さんがタクシーの運転手に向かって病院の名前を告げる。タクシーがゆっくりと動き出す。俺はぼーっと窓の外を眺めた。
病院に到着して、俺はまた父さんの後を追う。案内された一室に入ると、ベッドに横たわった人の姿があった。顔の部分には、ドラマでしか見たことがないような白い布がかけられていた。
ドクリと心臓が大きく跳ねる。家で感じた黒いインクがさらに滲み広がった。
(この人は、まさか……もしかして……)
母さんは顔を覆っている。父さんは母さんの肩を抱いて、寄り添っていた。
俺は白い布に手を伸ばし、そっと取ってみた。布の下には、見慣れた顔が──目を閉じた兄貴の顔がそこにあった。
「あに、き……?」
こうやって対面しても、まだ信じられない。兄貴はとても綺麗な顔をしている。本当にただ眠っている、そんなふうに見えた。
俺は兄貴の頬に触れてみた。……触れた感覚は思っていたものと違っていた。
──温かな体温は消え失せ、冷えきった肌がそこにある。
脳みそが働かない。実感もない。ないけれど、目尻に涙が浮かび始める。
もう一度「兄貴」と呼んでみた。冷たくなった兄貴から、返事が返ってくることはなかった。
俺は床に膝をつく。右手で自分の口元を押さえ──嗚咽を殺した。