第六話-4
ウィルヘルム・アップルトンに関する情報は、特別情報庁が僅かに保有していた。その内容は、冬雪とトパロウルの警戒をより引き上げるものだった。曰く、
「ウィルヘルム・アップルトンは、神暦五九九一年まで帝国海軍省領海警備隊所属、現在は退役済み……?」
トパロウルに手渡された資料を読むと、冬雪の声に険が籠った。トパロウルも椅子に身を沈め、同様に唸っている。
「領海警備隊といえば、海軍情報部に引き抜かれやすい部署だ。軍情報部は、共和国でもそうだが、帝国軍でも配属者は軍を退役したことにされる。現在本当に一般庶民なのかは疑わしいところだな」
帝国にも、無論専門の情報機関はある。帝国の保安省国防情報庁が、共和国でいう内務省特別情報庁に相当する機関だ。それはそれとして両国にも正規軍があり、それぞれに情報部が設置されている。主として陸軍情報部は防諜を、海軍は諜報を担当するが、ここまでは連邦も同様の組織図だ。
共和国と帝国で違うのは、専門情報機関と正規軍情報部の力量関係だ。共和国では、情報機関の歴史により、特別情報庁が軍情報部の上に立つ。特別情報庁は陸軍庁海軍庁いずれとも別の組織だし、本来なら干渉し合うこともないのだが、国家機密情報取扱法が定められた際に、情報機関の力量関係には例外が設定されたのだ。
対して帝国は、公官庁はいずれも皇帝に仕える臣の組織として対等であり、そこに貴賤はない、という扱いだ。実際にはより組織として大きい国防情報庁の方が軍情報部より多少発言権が強い、などの事情はあるものの、法の上では国防情報庁から軍情報部に対しての命令は強制力は持たない。
「国防情報庁の方が、実質的に上に位置しそうなものですけどねえ」
「そうならない理由もある。単純に正規軍情報部の実力が高いんだ。国防情報庁とやり合えるほどにな」
「面倒ですねえ、本当にウィルヘルム・アップルトンが帝国のスパイなら、一筋縄ではいかなそうな……」
「お前さんには、そいつの監視をしてもらうことになるな」
それはそうと、といって、トパロウルは話題を転じる。
「例の河童……アンドリュー・ピットの雇い主の話だがな」
「雇い主?」
アンドリュー・ピットの雇い主は帝国のスパイだ、という話は、誘拐事件から一週間で判明している。その後も特別情報庁が尋問を行っていたはずだが、トパロウル曰く、新しい情報が引き出せたのだ。
「奴は基本的に手紙で支持を受け取っていたが、何度かは直接会って話したらしい。奴から引き出した情報をもとに作ったスパイの似顔絵がこれだ。面白いことが分かったぞ」
「……ほう、事実なら、警戒を強めなければなりませんね」
その似顔絵を見ると、冬雪の左右色違いの瞳が妖しく光った。
「間違いはないだろうが、決定的な証拠がない。どうにかして引きずり出して来なければならん」
「恐らく河童が拘束されたことは薄々気付いてはいるでしょうよ。それにボクが隠れもせず外を歩いているんです、早々に向こうから何らかのアクションがあると思いますがね」
資料を焼くと冬雪は身を翻し、トパロウルの執務室の出口に向かった。彼が扉に手をかける寸前、トパロウルが呼び止めて言った。
「任務に失敗したスパイがなりふり構わない手段に出ることはある。用心しておけ」
「こんなところで不覚は取りませんよ。守るときは、最初から容赦しませんからね、ボクは」
よろしければ、作品のブックマークやいいね・レビューなど頂けますと幸いです。