第七話-3
アーニャは改めて、ヘインツに向き直った。酒に制止がかかるようになったようだが、政治家としてはまだ充分現役だ。
「ご無沙汰しております、ヘインツ先生。本日はご招待いただきまして、ありがとうございます」
「おお、誰かと思えばアーニャ君か。すまんな、招待しておきながらこんな情けない格好で」
「相変わらず、お酒がお好きなようで」
「医者には止められとるがな。酒を止めるくらいなら、飲んで死にたいものだ」
アーニャの表向きの仕事は、通訳者である。特別情報庁の任務で政治家の海外出張に同行したことが何度かあり、ヘインツ・ベイルハーストとも行動を共にしたことがある。その縁で、今回招待客の内に入れられたのだ。もしそれがなければ、特別情報庁からヘインツに、誰か送り込ませろと言い出していたかもしれない。
「ところで、隣の彼は?」
「アーニャの夫、ヴェルナー・アイスナーです。妻の相伴に与らせていただいております」
「ほお、君は何の仕事を?」
「ギルキリア地方工業大学に勤めています。といっても、教員ではなく事務員ですが」
話しながら、ヴェルナーとアーニャは自分たちのグラスに、冬雪が用意した粉末を混ぜ込む。〇・一クルーもあるかどうかという量だが、冬雪曰く、これで効果は充分なのだ。
「何を渡したんですか、師匠」
駐車場で待機している冬雪と通信するルイが尋ねる。何かあるまで待機、何もなければただの送迎要員、と言われていたが、この待機時間があまりにも退屈だったので、弟子の一人に絡んでいるのだ。そこで話題に出たのが、アイスナー夫妻に渡した少量の粉末だった。
「ボクは、呪触媒と呼んでいるよ」
「呪触媒……なんか怖い名前ですね」
「おい、『呪風』を忘れていないだろうな」
「それで、その呪触媒って何なんですか?」
「その話をするには、まず触媒と化学反応についてから話さないといけないな」
前提として、化学反応にはエネルギーが必要になる。活性化エネルギーと呼ばれるこれは反応によって異なる値を示すが、反応物は、この活性化エネルギーが必要量を上回っていない状態では、反応を起こすことができない。その活性化エネルギーの必要量を下げ、反応を起こしやすくする物質が触媒である。
呪触媒は、その場にある物質を魔力によって変形させる物質操作魔術を応用して作られる呪術魔法だ。通常の触媒のように反応速度を高速化するほか、複雑な過程を経て起こる反応を簡略化したり、あるいは反応方法が発見されていない化学変化を強制的に引き起こす機能を持つ。
呪触媒と反応は一対一の関係で、反応ごとに別の呪触媒を用意する必要がある。こういう意味では、たんぱく質を主体とし、鍵と鍵穴に例えられる基質特異性を持つ生体触媒の酵素の方が、性質としては近いかもしれない。
呪触媒の利点は、呪術魔法であることに尽きる。性質として、反応に関係のない別の物質に吸着させることで、容易かつ安全に運搬できる。他にも、冬雪が別個開発している呪容体などと組み合わせて使用すれば、機能のオン・オフも制御可能になる。とにかく、呪術魔法によって構成される、という点が重要なのである。
「その呪触媒を、予めアイスナー夫妻には持たせておいた。機能は酒精の無効化だ。水と酒精から糖を作らせ、酒に酔わなくする目的だな」
冬雪が常時持ち歩き、セリプウォンドではシンディの食前酒にも投げ込んだのが、この呪触媒だった。
「ああ、確かに酔ったらお仕事どころではなくなりますからね……」
「むしろ今まではどうしてたんだろうな。呪触媒を作ったのは、今年に入ってからなんだけど」
こうして話している間も、会場に動きはなさそうだ。今しばらく、冬雪の退屈な待ち時間は続きそうである。その間、ルイは彼に絡まれ続けることになるのだ。
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