人生に希望が無くなったんで、暇つぶしとして美人に自分の技術全てを叩きこんでやった。
僕の職業は画家だ。幼少期の頃から絵を描くことが心の底から好きだったし、少なくとも筆を扱うのに非凡な才能をゆうしていると自分ながら考えている。つまり、僕にとって画家という職業は天職なのだ。命が燃え尽きるまでこの仕事を全うしようと確信していた。
でも、どうして、神は僕から光を奪うような試練を託したんだろうか。
最初はちょっとした視界のブレだった。寝不足だろうと思い、その症状をほっといていた。でも、その日は突然だった。見えている世界が今までとは比べ物にならないほど険悪だった。おかしい。すぐに眼下に赴いた。医者は僕の瞳に光を当て、一瞬顔に訝し気な影を落とした。そこから、至急精密検査に掛けられた。
医者が言うに僕の瞳は急速に衰えているらしい。目の難病だ。どうやら、現代の医学ではどうにもならないそうだ。医者からその言葉を聞いた時、最初に僕が思ったのは絵が描けなくなるだった。どんなに絵が上手くても描き出す像が瞳に映らなければ、それは絵を描くとは言えない。
僕はこんなに絵に対して真摯に向き合っているのに、運命がそれを邪魔する。
幸いなことに自分の絵は富裕層の人々に高値で取引されている。だから、金をこれ以上得る必要は大してない。陳腐な言い方だが金なら腐るほどあるんだ。
しかし、画家としての僕はもうすぐ死ぬ。これからは死んだように生きるしかないんだ。生きた屍だ。だから、彼女との交流も最初はただの暇つぶしだった。どうせ目が見えなくなるんだから、お遊びで付き合ってやろうと思っただけなのに、
「君の笑顔をもう一度みたいな……」
心の底からそう思ってしまうんだ。
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突然の訪問だった。医者からのオピニオンを受けてからただただ絶望感に打ちのめされてしまい、日がな一日、怠惰な生活を送っていた。そんなある日、僕の自宅のインターフォンがなった。応対する気も起こらず、最初は無視した。しかし、インターフォンは何回も鳴らされる。
「はぁ。はいはい。今出ますよ」
無視するより、適当に対応して帰らす方が効率的だなと思い、気だるげに僕は玄関を開けた。扉を開けるとそこには一人の女性がいた。とても美しい女性だった。目鼻立ちはくっきりしているし、肌は透き通っている。それはまるで絵画の人物だった。彼女は呆けている僕を気に留めず、声を発した。
「伊阪信二さんですよね?」
「あ、ええ、はい」
「初めまして。私、山岸まどかって言います」
そう言って彼女は丁寧なお辞儀をした。一挙手一投足が全て様になっている。
「実は」
彼女はそこで言葉を区切って、一歩僕に近づいた。遠目から見てるだけでも鼓動が早まるほどの容貌が間近に迫る。
「お願いがあるのです」
「お、お願い?」
「はい」
「な、なんでしょうか? 宗教勧誘ならお断りです……が」
「私に絵を教えてもらいたいのです」
「……え?」
「はい、絵です」
口をだらしなく開きながら、僕は暫し方針する。対して、彼女は真っ直ぐな眼差しで僕の瞳を見据える。全く対照的な構図だった。
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僕は一旦、彼女を家に招き入れ、彼女にもう少し詳しい説明を求めた。どうやらこういう事らしい。
彼女ー山岸まどかはネット上で歌い手として活動しているらしく、ゆくゆくはシンガーとしてデビューするのが夢だそうだ。ネット上で見てくれる人も増えていき、音楽事務所から歌手デビューの打診も受けたらしい。万事順調。しかし、そんな時、彼女に悲劇が襲った。病だ。それも耳の。次第に聴力を失っていき、最後には全くの音が聞こえなくなる難病。
歌い手にとって耳が聞こえないのはそれこそ死活問題だ。この病を聞くとデビューを持ちかけていた事務所は計画を白紙に戻した。山岸さん自身も自分の聴力が次第に失われているのを実感していき、己の歌が土台から揺らいでいるのを確信した。
「もう、無理なんです。今まで通りに歌うのは出来ない」
俯き気味に呟いた。その陰りの表情に見覚えがあった。これは僕と一緒だ。今の僕そのものだった。画家でありながら、視力を奪われる僕。歌い手でありながら聴力を失う彼女。似ている。二人の間に気まずい沈黙が流れた。その沈黙を打破する為、僕は尋ねる。
「なるほど、でも、なんで僕に絵を教えて欲しいんですか?」
「伊阪さんは確か目のご病気を患っているんですよね」
「……ええ」
自分で声のトーンが下がるのが分かった。僕はある程度の知名度がある。だから、僕の病についてはメディアとかでも少なからず報道されているのだろう。でも、やっぱり、他人に眼の事を言われると改めて現実を突きつけられた感覚になってしまう。そんなマイナスの感情を振り落とすかのように僕は少し首を振り、改めて彼女と目を合し、彼女が考えている事を言ってみた。
「もしかして、聴力を失って歌い手になれないのなら、残っている視力を使って絵画になるって事ですか」
「はい、その通りです。お話が早くて助かります」
「そういう事ですか」
「もちろん、タダでとは言いません。お金はお支払いしますし、家事炊事もさせていただきます」
そういえば、最近はコンビニ弁当ばっかり食べていた。部屋を掃除する気なんて湧き起らないから家全体がなんだか埃っぽい。
「どうですか、承諾してもらえますでしょうか?」
山岸さんがこちらを見つめる。その瞳には覚悟があった。強い静かに、でも熱く滾っている覚悟が傍目から見て感じ取れた。その時はただの暇つぶしだった。どうせこれから僕は無為な命を消費するだけの人生を送るんだから、少しぐらい僕が持っている技術を他人に教えるのも悪くはないと思った。
でも、今考えるとあの時僕は当てられたんだ。彼女の鉄の意志を感じさせる覚悟に当てられたんだ。
「お金はいらないよ。家のお世話と温かいご飯を作ってくれるだけでいい」
「つまり……」
「いいよ。山岸まどかさん。君に僕が持っている全てを教えます」
これが僕と彼女が教える者と教えられる者に別たれた日。そして、僕と彼女が別ちたがいほど繋がり始めた日だった。
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彼女には才能があった。
僕が教えるモノはスポンジのごとく吸収したし、吸収した知識を自分なりに応用した。彼女は僕なんかよりもよっぽど素晴らしい画家になる。教えていく日々でそう思えてならなかった。彼女は絵を描くために生まれて来たんだ。
彼女は僕の知識をどんどん得ていく。それに連なるように僕の瞳からどんどん光失われていく。まるで、彼女自身が僕から光を奪っているかのように。彼女は素晴らしい絵を描けば描くほど、逆説的に画家としての僕は殺されている。
不思議と悔しさはなかった。新たな花が芽吹くためには肥料がいるのは必然なんだ。それが何かを繋ぐという事だ。それは長い歴史を持っている絵を記すという生業をしてきた僕自身が一番理解している。
ただ、僕は日に日に成長する彼女を見るのが嬉しくてならなかった。いつのまにか彼女に絵を教えるのは暇つぶしではなくなっていた。
ある時、彼女に聞いた事がある。
僕と彼女が出会って半年。僕が彼女に絵を教え、彼女は僕に美味しい料理を振舞ってくれる。そんな日々が常態と化したとある夕食時。
「ねぇ、まどかさん」
「どうしたんですか、信二さん」
この時、僕たちはお互いをファーストネームで呼び合う程、心を許し合っていた。
「ずっと聞きたかったんだ」
「はい」
この時、僕は酔っていた。そう言い訳しとこう。素面で聞くのには少しだけ抵抗感があったから、僕がこれからまどかに尋ねる旨はもしかしたら彼女を否定してるように聞こえてしまうだろうから。でも、この日は突発的に聞いてみようと思った。
「君は本当は歌を歌うことがそこまで好きじゃないんじゃないのか?」
この今まで歌を歌っていた彼女自身を否定するような言葉を聞いてもまどかは感情の波に波紋を起こさなかった。穏やかに微笑んでいた。彼女は箸を置き、思案するように瞼を閉じていた。そして、ゆっくりと開いた。
「そう、かもしれません。多分、たまたまだったんでしょうね。私にとって歌を歌うことは」
「たまたま?」
「小学生の頃『怪獣のバラード』を歌った時、先生に褒められたんです。上手って。それが嬉しくて、だから、いつのまにか歌を歌い続けようって考えてました。でも、本当にそれは偶然なんです。作文を褒められたら小説家に、スポーツが褒められたらスポーツ選手に」
「絵もたまたまかな?」
「ふふ、そうですね。何か描きたいわけじゃ無くて、たまたま信二さんの報道を見たからですかね」
まどかは申し訳なさそうな顔で笑った。まどかは続ける。
「多分、示したいんでしょうね」
「示す?」
「私がここに居るって、生きているっていう事を示したい。その示す術として私は何かを生み出そうと思っているのかもしれません」
生きた証。山岸まどかはありとあらゆる術を使ってそれを示そうとしている。その生き様をできる人はどれほどいるんだろうか。僕は、僕は出来るだろうか? 視力を奪われた事で全てに絶望していた僕にそんな強い生き方は全うできるだろうか。きっと、出来ない。
「さっき、絵もたまたまって言いましたけど」
「あ、うん」
この時だったんだろう。この時の彼女の言葉、表情、声のトーン、ありとあらゆるモノがこの時まどかが持っている全ての要素が僕を
「絵はたまたまですけど。私と信二さんが出会ったのはたまたまなんかじゃないと思うんです。運命…なんてモノがあるのか分かりませんが、私と貴方が出会ったのにはなにか強い何かがある、そんな事を最近よく考えちゃいます」
恥ずかしそうに彼女は笑った。ああ、僕は今この時、ぼやける眼で捉えた山岸まどかに恋をした。そう思った。
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もう自分の視力が限界を迎えると悟ったのはまどかに対し教えることは無くなったと思った時と一緒だった。視界はぼやけるし、まともに色彩を認識する事が出来ない。もうダメだ。もう、僕の光は無くなる。
「え? ごめんない信二さん。もう一度言ってください」
「だから、最終試験だよ!」
僕の視力と呼応するかのようにまどかの聴力は著しく低下していた。それなりに声を張り上げないとなんと言っているか分からないらしい。僕もまどかも限界だった。だから、最終試験だ。
「最終試験?」
「うん、ハッキリ言って僕が君に教える事はもうないんだ。全てを伝えた。だから、その伝えたモノ全てを使って、とある絵を描くのを課題として課す」
「その絵というのは?」
「それは僕の肖像画だよ」
「信二さんの……」
「うん、その肖像画を僕が認めたら君は晴れて立派な画家として認める。その後は章に応募するでもいいし、なんなら、僕が知り合いに話を付けて個展を開くのもいいと思う」
「は、はぁ……」
まどかは聞えていないのか、得心がいっていない表情を浮かべる。その顔がなんだか可愛らしくて僕は思わず笑ってしまった。そのさまを見て、まどかが少し拗ねたような態度を示す。それに対し僕が笑って謝罪する。こんな日々がもうすぐ無くなってしまうと思うと、なんだか物悲しさがある。
あの日、僕が彼女に対して恋心を確信した時、僕は自分の恋心を一生封じようと誓った。もちろん、彼女と恋仲になるたい。でも、こんな目の見えなくなる男を彼女の貴重な人生に付き合わせるわけにはいかない。彼女は天才だ。きっと歴史に名を遺す画家になるだろう。だから、彼女の足枷にはなりたくなかった。
彼女と過ごせる希少な時間を大切にし、彼女が浮かべる数多の表情を失われゆく瞳に刻みこもう。そう心に誓った。
「それじゃあ、試験は明日の朝にやるからね。今日はもう休みな」
「……」
「分かったかい!」
「あ、は、はい。大丈夫です。聞こえてます」
先程から心ここにあらずの彼女に対して疑問が沸き起こるが、何か聞くのはやめておこう。緊張しているのかもしれないし、なんなら僕との生活を惜しんでくれるのかもしれない。いや、これは慢心だな。彼女とずっと向き合ってきたから分かる。彼女は自分が今何をするべきか理解しているし、そこに他者が入るこむ余地はない。彼女は自分があるのだから。彼女で心が満たされてしまっている僕なんかとは全然違う。
「それじゃあ、お休み」
そう言って、僕は寝室に赴いた。寝よう。明日が最後だから掛け替えのない明日を存本に慈しもう。
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神様、僕は貴方を恨んでいたんですよ。でも、その恨みは感謝になったんです。だって、まどかに合わせてくれたから、彼女と出会ったのは僥倖でしかない。だから、そんな運命を齎してくれた神様に心の底から感謝した。
ああ、でもやっぱり貴方は意地悪なんですね。どうして、今この時、僕の瞳から光を奪ってしまうのですか?
暗闇だった。朝だと思う。鳥のさえずりも聞こえるし、朝日の温もりも感じる。でも、僕の瞳は何も写してくれない。その事実がただただ辛かった。
「ま、まどか!」
取り敢えず、まどかに気付いてもらおうと大声を張り上げた。寝起きという事で上手く声が出なかったが、まどかの足音が聞えてきた。走ってこっちに向かってきてくれる。そして、僕の寝室の扉を勢いよく開けた。
「まどかかい? そこにいるのか?」
「はぁ。はぁ」
激しい息遣いだったが、その声はまどかだった。
「ごめん…。まどか、こんな折角最後の試験の時に……。こんなことに、本当にごめん」
僕はそう言って頭を下げた。目が見えなくなった事よりも彼女が今どんな表情をしているのか見えない事が悲しかった。そんな僕の様子にまどかは声をかけない。怒っているかもしれない。失望かもしれない。もしかしたら、罵倒を浴びるかもしれない。でも、今は兎に角彼女の声が聴きたかった。
「ま、まどか」
「い、いんじあん……。あ、あし。に、に、いこえなあ」
「え……」
「あ、ああ、あ、いこえなあい」
まどかの声が聞こえた。その声はまどかのそれだったが、紡ぎ出す言葉は今までとは打って変わっていた。おかしい。喋り方がおかしい。
「まどか……。君、耳が」
身体に衝撃が走った。抱きつかれたのだ。まどかに。彼女の激しい呼吸音が間近に聞こえる。泣いている。彼女は泣いている。
ああ、なんでだよ。神様、こんなのあんまりじゃないか。なんで、同じ日なんだよ。なんででこの日なんだよ。今日は僕とまどかの最後の日なんだぞ。本当にふざけるなよ。
そうか、そうかよ。神様あんたはそんなに僕らに苦しんで欲しいんだな。僕らにお互い絶望して欲しいんだろ。良く分かった。でもな、ふざけるなよ。僕とまどかとの日々を甘く見るな。僕はまどかに絵を教え、まどかは僕の技術を得た。その積み重ねの日々を軽視するんじゃない。
「まどか」
抱きついているまどかの肩に優しく触れ、ゆっくり彼女を身体から離す。見えないが僕と彼女は今向かいあっているはずだ。
「あ、ああ、ああし」
「まどか。絵を描こう」
崩れ去りそうなまどかの声に被せるように僕は言った。今のまどかに僕の声が聞こえているはずはない。
「今から、僕の絵を描いてくれ」
僕は目が見えなくなり、まどかは耳が見えなくなった。彼女がそこにいると分かっているはずなのに、焦燥感に襲われる。きっと彼女も形容しきれない不安感を抱えているはずだ。今までは全く違う日々がやってくるのを確約された。でも、だからこそ。いつも通りであるべきなんだと思う。日常の延長線上に今日という日があるとするなら、僕たちは昨日言った通り絵を描かなければならないんだと思う。それが僕たちが絶望しない一番の証左だからだ。
彼女が今どんな表情をしているか分からない。見たい、とてつもなく見たい。でも、僕はただ暗闇しか認識出来ない。
「あ、う、うう」
まどかが声を出す。その声は聞いただけでは意味を解する事が出来ない。しかし、まどかは声を発すると同時に僕の手をぎゅっと握りしめた。それだけで彼女が決心をしたのが分かった。
「うん」
まどかの信念に応えるように僕も力強く頷いた。
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とても穏やかな日だった。街の喧騒なんて微塵も聞こえず、小鳥が囀る音とカンバスの上に筆が走る音だけがこの空間に流れていた。まどかが僕の絵を描いてくれている。別に彼女の絵を見れなくていいなんて思っていない。僕は彼女の絵が心から素晴らしいモノだと理解しているし、肉眼でその絵を見ること自体がどれだけ掛け替えのない経験なのか確りと分かっている。でも、僕は彼女が常に最高を作り出すのを信じているのだ。それは約一年の間彼女と過ごした僕だからこそ分かるんだ。彼女の絵が見れなくとも、彼女の絵が素晴らしいことは確定されている。そんな必然性を有しているのが彼女の絵なんだ。だから、僕は彼女の絵に対してなんら懸念も無い。
ああ、でも、やっぱり
「彼女の笑顔をもう一度見たいなぁ」
心の底からそう思ってしまうんだ。