その名は団長殺しの聖女・1
それからさらに三日後、アーレスは屋敷に戻った。
傷口もあらかた塞がり、抜糸も終えた。通常ならばひと月は安静にしなければならないのに、と驚異の回復力に医者は驚きを隠さなかった。
その間、イズミも騎士団宿舎に泊まっていたため、久々の屋敷である。
「みんな、ただいま!」
「おかえりなさいませ、旦那様、奥様」
迎える使用人たちも笑顔だ。
「疲れたでしょう。今日はゆっくりしてくだせぇや」
ジョナスが用意してくれた料理は肉豆腐とタコと青菜の酢のものだ。
「見たことのない料理だな」
「アーレス様がいない間に、奥様があれこれ試作していたものですよ。本当はご自分で作りたかったんでしょうが、今日はお疲れでしょうから俺が準備しておきました」
勝手にすいません、とジョナスが続ける。
だが、和食が食べたい気分だったので、いずみは嬉しかった。
アーレスも顔をほころばせ、「では皆で一緒にいただこう」と片付けに奮闘するジナたちに声をかけた。
「ちょっとお待ちくださいねぇ」とジナが悲鳴に似た声をあげ、「イズミ様、騎士団はどのような場所でしたか」と子どもたちがいずみの周りに群がって質問する。
いずみは帰ってきたのを実感し、ホッとする。この屋敷が、迎えてくれる人たちが、自分の帰る場所なのだと改めて実感したのだ。
湯あみを終えたいずみは、ジナに送られて自室へと戻ってきた。
いつも通りの日常が戻ってきたのだ。
だが、以前と違って隣のアーレスの部屋がとても気になる。
(お話しませんか……って言ってみようかな)
お互い気持ちを確かめ合い、ようやく両思いと分かったのだ。
恋人らしい触れ合いも、フレデリックに邪魔されて以降、何となくタイミングがつかめずにいる。
ここは勇気を出して誘うべきか。
いずみは意を決して隣の部屋に向かい、ノックする。しかし返事はない。扉をこそりと開けてみると、部屋には誰もいなかった。
「ああ、イズミ様。アーレス様ならただいま湯あみのお時間です」
廊下の端からリドルが早足で近づいてきてそう言う。
どうやらいずみと交代で入りに行ったらしい。
「そう。ならいいの。別に用事があったわけでもないから」
「さようでございますか?」
リドルにはもの言いたげな顔をされたが、いずみはにっこりとほほ笑み、何食わぬ顔で部屋に向かう。
いずみとしては結構な勇気を振り絞ったのだ。もう一度それをするのは不可能に近い。
(いや、もう無理。今日の勇気は出し切ったわ)
ふらふらと部屋に戻り、ベッドにダイブする。
思えばずいぶん疲れていた。騎士団の食堂のみんなともなじめたし、それなりに楽しい時間を過ごしたとは思うが、やはり家はいい。心の安らぎ方が違う。
ふわりと柔らかい感覚は、いずみを眠りの世界へと急速に連れていった。
*
アーレスが湯あみを終えて着替えているとき、リドルが浴室に入ってきた。
「旦那様、先ほど奥様がお部屋にこられたようですよ。湯あみ中ですと伝えたので、後で来られるかもしれません」
「イズミが?」
体がしっかり温まったアーレスの体からは、風呂上がりだというのに汗が出る。薄手の夜着はぴったり体に張り付いていた。
「では、着替えを用意してくれないか」
反射的にそう答えると、リドルは異物でも見るような目を主人に向けた。
「……なぜですか?」
「なぜって……イズミに会うのにこの格好では」
「イズミ様はあなたの奥方様ですよ。夜に、夜着にガウンを羽織っただけの格好で訪れた奥様に、正装で対面する気ですか?」
リドルの言葉の意味がアーレスに正しく伝わるには時間がかかった。
しばしの沈黙の後、突然顔を赤らめ、汗を拭くような仕草で何度もタオルを顔に擦り付ける。
それを見ていたリドルは、沈み込みそうなほど深いため息をつく。
「なんだか心配ですね。私は邪魔しない方がいいのか、サポートすればいいのかどちらですか」
「さ、サポートって何をする気だ」
「あなた方を一部屋に引き合わせるくらいですかね。それとも、媚薬の類でも用意しましょうか?」
「いい! ちょ、落ち着け」
「私は落ち着いています。旦那様、そもそもあなたはどうしたいんです。結婚しておいて、ここまで奥様を放置していたのは、どうしてですか? 奥様が気に入らないのですか」
リドルが咎めるように目を細めてアーレスを見つめる。
「そんなわけないだろう。イズミは大事な人だ。他にはいない」
「そう思うなら、いつまでも聖女のようにあがめていないで、ちゃんとなさったらいかがです。男女の仲は心のつながりも大切ですが、体だって大事でしょう」
存外初心な主人に呆れながら、リドルはガウンを取り出し、彼の肩にかける。
「そのまま、奥様の部屋に行かれてはいかがです。お飲み物をお持ちしましょうか」
「いや、いい。……呼ぶまで来るな」
アーレスは浴室を出ると、いずみの部屋に向かってまっすぐ歩き出した。
帰る場所のないいずみの、帰る場所になってやりたかった。
そのために、彼女の気持ちを無視するようなことはしたくなかった。
彼女に用意された夫候補者三人の中に、彼女の理想とするような相手はきっといなかっただろう。自分が選ばれたのは、その中でマシだっただけだ。だから性生活を強要してはいけないと、そう思っていた。
だが、そんなものはただの言い訳だったのかもしれない。
初めて会った日、もう行くところが無いんです、と泣きつかれたあのときから、たぶんアーレスの心はいずみに捕まっていた。
だから保護者のようなものだと自分に言い訳をして、彼女を大事に囲おうとした。本当は違うのに。
年の離れた自分が、彼女にどう思われるのか。戦うしか能がないことに幻滅されたりはしないか。
アーレスはずっと、それが怖かったのだ。
“愛は全身で伝えるものよ”
姉の言葉が頭にこだまする。
そうだ、まずはきちんとそれを自覚しなければならない。
このままずっと我慢することなどできない。無理やり体を疲れさせなければ寝られないほど、いつも隣の部屋が気になっていたくせに。
欲しいのならば、望むのだ。無理強いじゃなく、愛を乞おう。
自分はいずみが欲しいのだと、まずは伝えなけれならない。