騎士団長の長き恋・1
お盆の上で皿がぶつかり合い、ガチャガチャと音を立てる。
(び、び、びっくりしたぁ)
いずみの心臓は、ただいま過去最速の動きを記録している。
(キスしそうじゃ、なかった?)
思い出すだけで血が沸騰しそうだ。
逞しい腕、隆起した筋肉。弱ってもなお男らしさを感じさせる彼を思い出して、体が熱くなる。
近くで見た彼の瞳は、海のような濃青だった。
「かっ……こいい」
このままでは興奮しすぎてお盆を落としてしまう。いずみは屋敷で待っているアメリやハッセを思い出した。
かわいらしい子供たちが、生活魔法を駆使し、いずみに見せてくれた時のこと。
(あ、ちょっと落ち着いて……いや、落ち込んできた)
一度ズーンと沈み込んで、気を取り直して復活をはかる。予想以上に落ち着いた。
(そうよ。落ち着いて考えたら、熱でボケていたのかもしれないわ。それに……別にキスされたっておかしくはないんだわ。私は一応、アーレス様の妻なんだし)
そして前向きに、先ほどのことを考えてみる。新婚の夫婦として、先ほどの行動は何らおかしなところはない。
(むしろこの機会に、妻としての役目を果たさせてもらえばいいんじゃないかしら。私はこんなだけど……アーレス様だって今まで女っ気が全くなかったんだから、わたしで満足してくれるかもしれないし)
もしかしたら、これからは同居人ではなくちゃんと妻として扱ってもらえるかもしれない。そんな期待が、いずみを包む。
やがて食堂が見えてきて、表情を取り繕おうと深呼吸したいずみの耳に、エイダの甲高い声が聞こえてきた。
「えー! でもラブラブだったよ、ふたり」
「まあ、アーレス様だって報われない恋愛をいつまでも引きずってはいないんじゃないか?」
続けられた声は、セイムスのものだ。そしてもうひとり、フレデリックが続ける。
「でもアーレス様、ずっと聖女を想っていたって話だぜ? 昔助けてもらったことがあるんだと。その時から、聖女……ミヤさまの力になることだけを考えて生きてきたって……だからどんな縁談も断っていたんだってルーファス様から聞いたんだけどなぁ」
一瞬、イズミは頭が真っ白になった。
彼らの話を総括すれば、アーレス様の恋しい人とは、ミヤ様だということになる。
とはいえ、ミヤさまは宰相様と結婚していたはずだし、年齢差は半端ない。でもそんなことさえ、あのストイックなアーレスにとっては、障害ではなかったのかもしれない。
「まあ、盲目的に愛しそうだよね、あの人」
「そう、常にストイック。恋愛にもそうなんじゃね? 報われない恋でも、平気で耐えそう」
あんな大きな伯爵家の息子で、騎士団の上役を勤めるような人に、これまで縁談がないわけがないのだ。
(そうか。アーレス様はミヤさまに忠誠を捧げるために、結婚しなかったんだ)
だとしたら納得がいく。あの年まで独身であることも。
「また、……ミヤさま」
同じ聖女でありながら、自分とは天と地ほど違うミヤさま。
ここに来てからずっと比べられ、失望され続けてきた。それでも平気に想えるようなったのは、アーレスが温かく迎えてくれたからで。
(アーレス様も、……ミヤさまが良かったんだ。同じ境遇の聖女だから。だから彼は私を受け入れてくれただけだったんだ)
そう知ってしまったら、もう無理だった。
お盆を掴んでいる手からは力が抜け、茶碗の割れる音が響く。
「誰だっ」
「い、イズミ様?」
ボロボロと泣くいずみに、慌てて近寄ってくるのはエイダだ。
「聞いてたんですか? ちょ、フレデリック!」
「やべ。団長に怒られる」
アーレスの部下に、無様な姿を見せるのは嫌だった。
いずみは袖でぐっと涙をふき取ると、無理やりに笑顔を作る。
「ごめんなさい、割ってしまって」
うずくまって割れた破片を拾い集める。
「イズミ様、いいですよ。私がやります」
「そうですよ。それに、今は団長、奥さまにメロメロじゃないですか。今その話をエイダから聞いてて」
「いいの。ありがとう。気を使わせてごめんなさい」
破片を拾い集めた後は、限界だった。エイダに託したあとは、あてがわれた部屋に急ぐ。
部屋はすでに綺麗に整えられていた。
騎士団宿舎の清掃は王城のメイドが当番制で当たっているらしい。
ベッドにダイブして、ひとしきり泣きまくる。自分でもびっくりするほど、涙が止まらない。帰れないと知ったときでさえ、こんなに泣いただろうかと思うほど。
幸い、しばらくは誰も姿を見せなかったため、イズミは思う存分泣くことができた。
そして落ち着いてくると、今度は部屋に漂う香りが気になった。
見回して、それが部屋に飾られた花から漂っていることに気づく。
男ばかりの騎士団宿舎に、しかも個室に花が飾られているのは意外な気がした。おそらくはイズミが使用することが伝えられていたのだろう。
ふと、いずみは、セシリーのことを思い出した。王城のメイドで、清掃係を担当していた。
まだアーレスと出会う前で、城に住み、神官から魔法の講義を受けては落ち込んでいたころ、部屋の花瓶を交換してくれている彼女に、いずみの方から話しかけた。
セシリーはセンスが良く控えめで、いずみがこぼす愚痴の数々を、穏やかな顔で受け止めてくれた。そして必ず、こう言うのだ。
『聖女様が異世界からやって来たことには、必ず意味があります。イズミ様にはイズミ様の力が、必ずあるはずです』
いずみにとってセシリーは、落ち込みがちな城での日々を支えてくれた頼りになる友人だった。
(まだ仕事中かな。同じ敷地内だし、城に行けば会えないかしら)
思い立ったら、無性にセシリーに会いたくなった。
静かな部屋で、ジナが戻ってくるまでひとりでいるのは、耐えられない。
幸い、いずみはこの黒い髪のおかげで、すぐに召喚聖女だと認識してもらえる。門番に止められることもないだろう。
「ちょっとだけ、出よう」
すん、と鼻をすすってから、いずみはそろりと部屋を抜け出した。