味噌と醤油を求めて・5
「初めまして。アーレスの姉のグレイスですわ。イズミ様。この度は愚弟との結婚、了承してくださりありがとうございます」
「はじめまして。イズミです。こちらこそ。行き場のない私をアーレス様が引き取ってくださって。感謝しています」
いずみの日本人らしい謙遜交じりの挨拶に、グレイスは少しばかり眉を寄せた。
しかし言葉を発する前に、アーレスが横やりを入れてくる。
「姉上、なんだその派手な格好は」
「相変わらず女心の分からない唐変木ね。女性が新しいドレスを着てきたらまずは褒めるものでしょう? アーレス」
「いい年して派手すぎじゃないか」
つぎの瞬間、ゴンと固い音が鳴った。百戦錬磨の騎士団長が、あろうことか線の細い女性にあっさりと殴られたのだ。
「弟はこんな男だから、私心配だったのよ。結婚後の女性の心情なんて、何もわかっていないんだから。結婚したとしても、女性は女性であるべきなの。おしゃれにおいしいもの。噂や新しい情報。そんなもので満たされるべきなのよ。……ただでさえイズミ様はこの世界を満喫しているとは言い難いのに。ねぇ、あなたに必要なのは社交だと思わない? お友達を作らなくちゃ。ぜひ私のお茶会にいらっしゃい。みんなを紹介するわ」
グレイスはいずみの手を取り、ギュッと強く握りしめた。
「あ、ありがとうございます」
「そして異世界のお話を聞かせていただきたいわ。まさにトップニュース!」
どうやらグレイスはアーレスと違って、結構なミーハーのようだ。
いずみが何も言えずにいるうちにどんどん話が進んでいく。
「姉上! イズミはこの世界に来たばかりです。無理強いしないでください」
「バカね。来たばかりだからこそよ。女性の間ではね、情報を制する者が強いんです。お前にその辺の機微が分かるとは思い難いわ」
「うっ……それは」
「だったら黙って私にこの子を任せなさい」
グレイスに言いくるめられたアーレスは、申し訳なさそうにいずみを見る。
「……君が困るなら、俺が断る。だが、俺が女性の気持ちが分からないのは本当のことだ。姉上の言うことにも一理あるだろう。イズミはどうしたい?」
大柄な体からこぼれだしたのは、優しく、思いやりにあふれた声だった。
心配してくれるのだ。その一方で、いずみの可能性をつぶしてはならないと考えてくれている。
(誰かに、自分のことを真剣に考えてもらえるのって、こんなに嬉しいんだ)
じわじわと胸に熱が広がっていく。この世界に来てから、アーレスだけが何度も、こんな風にいずみの胸を高揚させてくれる。
「グレイス様が心配してくださるのは嬉しいです。もちろん、アーレス様が私を守ろうとしてくださるのも」
グレイスはいずみの口元をじっと見つめている。先ほどまでは勢いに負けていたけれど、よく見れば決して話を聞かない女性ではなさそうだ。
(そういえばこの人は、私を見ても落胆しなかったな)
落胆しないということは、最初の期待値が低いということだ。
社交的に見えるが、噂をうのみにする人ではないのかもしれない。
グレイス自体が強烈な印象のある、強い引力を備えた人だ。従うが吉なんだろうとは思う。けれど、話を聞こうとしてくれる人に本心を話さないのはまた違う気がした。
「もちろんグレイス様主催のお茶会も参加したいです。でもそれよりも今は私、味噌と醤油が欲しいのです」
「味噌……、醤油?」
グレイスは間の抜けたような声で反復する。
「ええ。グレイス様はご存知でしょう? ミヤさまが考案したという異世界の調味料」
「もちろん知っているわ。うちのシェフが作りつづけているから、今もあるわよ。味噌は正直よくわからないけど、醤油はおいしいわ」
「それを、私に少し分けてほしいんです!」
グレイスの顔が固まった。どうにも腑に落ちないという顔をしている。
「それを手に入れて、どうしようというの? あなた」
「もちろん、料理を作るんです!」
拳に力を入れて、目をキラキラさせたイズミを、グレイスは呆れたように見つめた。
「あっははは」
そこで笑い出したのはアーレスだ。グレイスが更に眉間にしわを寄せ、彼を睨む。
「なに笑っているのよ」
「だって、姉上を呆けさせることができる人間がいるなんて思わないだろう。いつもこちらを自分のペースに巻き込む姉上のそんな顔は初めて見た」
「あれっ、私何か失礼をしましたか?」
いずみは焦る。礼を失した覚えはないが、アーレスがこんなに笑い、グレイスが仏頂面になったところを見ると何かしてしまったのだろうか。
「……いいえ。そんなことはないわ。貴族の奥方が料理?とは思ったけれど、可愛い義妹の願いだというなら、喜んで差し上げるわ」
「本当ですか!」
「ええ。そんなに遠くないから、うちに寄っていらっしゃい。夫にも紹介するわ」
その後、ヴィラに贈ったお土産を見たグレイスは、再び興奮したように騒ぎ、クッキーを食べて今度は上機嫌となった。
感情の起伏の激しい女性は苦手なはずだが、グレイスは裏がないのかあまり嫌な感じはない。
「しばらくジナと久しぶりに話したいから、あなたたちはグレイスの屋敷に行ってらっしゃいよ」
というセリーナに背中を押され、イズミとアーレスはふたりで味噌と醤油をもらうためにグレイスの屋敷へと向かうこととなった。
「姉上はああ見えて人嫌いなんだ」
移動の馬車の中で、アーレスがいずみにぽつりと言う。ちなみにグレイスは自分の馬車で先導しているので、中にいるのはふたりだけだ。
「そうですか? そうは見えませんけど」
「姉上は見た目がいいらしくてな。結婚する前は、王国が生み出した宝玉とさえ言われていたんだ。極端に整った容姿は、いいことばかりでもない。色々あったんだろう。十五を過ぎたころには家族以外の人間は信用できなくなっていたようだ。とにかく人の上に立っていないと落ちつかないらしい」
「まあ」
「人を制するには情報、と言っていただろう? 誰にも侮られることのないように、情報招集に夜会に繰り出しては精神を摩耗して帰ってくる。俺には馬鹿なことをしているようにしか見えないんだが、姉上はそれが正しい生き方だと思っているようだ」
いずみは隣に座るアーレスの顔を見つめた。
バンフィールド伯爵家はみな整った顔立ちだ。アーレスだって、その筋骨隆々な体つきが前面に立っているだけで、鼻筋の通った端整な顔をしている。若い頃はさぞかしモテただろう。
(じゃあ、アーレス様は真逆なのかな。ずっと辺境警備にあたっていたと聞いたけれど。騒がれたくないからなのかしら)
「……私には、なにが正しい生き方かなんてわかりません」
いずみはポツリと告げる。
今もまだ、迷っている。聖女と呼ばれ、役立たずと呼ばれ、それでも彼の側に居場所を見つけた。
今はこの世界に来た当初に比べればずいぶん優遇されていると思うが、これが最上かどうかは分からない。
「まだ途中なのかもしれません。もしかしたら、人間は生きている間ずっと探しているのかもしれませんね」
その時々の、最適を。
だから人は努力をし続けるのだろうし、今よりもいい何かがあることを信じている。
希望無き人生は、暗闇だ。希望を抱き続けていられる間は、人は幸せなのかもしれない。
「……君といると、今からでも自分が生まれ変われる気がしてくるな」
横を向くと、アーレスが優しいまなざしでほほ笑んでいる。
いずみの胸が、静かにけれどたしかに躍動する。頬が熱くなるのが分かって、いずみは顔を見せないように前を向いた。
「君は、俺にとってはたしかに聖女だ」
続けられた言葉は、これまでで一番の爆弾だった。
(う、嬉しい。そしてなんだかものすごく恥ずかしい)
だったらあなたは、私の心を守ってくれる、国一番の騎士様です。
そんな返し言葉が浮かんだが、口に出すのは恥ずかしく、いずみは両手で顔を押さえたまま、「ありがとうございます」と消え入りそうな声を出した。