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ジンジャークッキーの効能・3


 アーレスが帰宅したのは、いずみが夕食を終え、そろそろ湯あみをしようかと、湯を貯めているタイミングでのことだった。


『どんなに遅くてもタイミングが悪くてもいいから、旦那様が帰ってきたら教えて』

という言いつけを忠実に守ったジナに呼ばれ、いそいそと身なりを整えて広間へと向かう。


 家令に足止めされていた彼は、私を見て、「起きていたのか」とつぶやいた。


「おかえりなさいませ。お出迎えが遅れて申し訳ありません」


「ああ。いいのだ、出迎えなど」


 上着を受け取ろうと手を伸ばしたが、彼は家令へと手渡してしまう。


(くう、妻の務めを取られたわ。この宙に浮いた両手をどうしてくれよう)


「コホンっ」


 ジナの咳払いが聞こえ、いずみは本日の目的を思い出した。


「今日はジョナスとお菓子を作ったんです。……アーレス様にもお召し上がりいただきたいんですが」


「あー、悪いが俺は甘いものは……」


「そう言われると思ってました。大丈夫です。そんなに甘くないんですよ。一枚だけでもいいから召し上がってください」


 彼を食堂に案内し、食事の前に紅茶とクッキーを持ってきてもらう。

 アーレスの視線は、怪訝そうに皿といずみを行ったり来たりしていたが、やがて、覚悟を決めたように食べ始めた。


 彼は、おそるおそるクッキーを口に含んだ。

 サク、サク。彼の咀嚼する音が、食堂に響く。いずみは息をひそめたまま彼の口元を見つめ続けた。


 次の瞬間、ぽい、ともう一枚クッキーを口の中に放り込んだ。何回か噛み、ごくりと飲み込む。

 そして、ぽかんというのが一番近い顔をした。


「……変わった味だな」


「お口に合いません?」


 いずみは思わず祈るように手を組んでいた。するとアーレスはきょとんとした後、ふわりと相好を崩した。

 思いがけない笑顔にいずみの心臓は激しく動く。


(やばいわ。笑うアーレス様、マジイケメン!)


「いや、うまい。……甘いのにしつこく無くて。もう一ついいか?」


 更にもうひとつを口に運び、飲み込む前に次のもう一枚に手を伸ばす。


「本当ですか? お世辞じゃなくて?」


「ああ。そこまで甘くないし、酒のつまみにもなりそうだ。……君はもう夕食は食べたのか?」


「はい、いただきました」


「そうか」


 残念そうに顔を伏せたので、もしやと期待を込めて聞いてみる。


「あのっ。もしお酒を飲まれるなら、お付き合いしてもいいですか?」


 もしかしたら、この世界で女のほうからお酒に誘うのははしたないのかもしれない。

 そうは思ったが、知るものか。常識が違うのはお互い分かっていることだ。


「……夕飯と一緒にチーズかなにかを用意してもらっていいかな。とっておきのワインを出そう」


「はい!」


 提案を受け入れてもらって、いずみはホッとした。


(お湯、冷めちゃうな。でも、今はアーレス様とゆっくり話したい)


 いずみは浮かれた足取りで厨房に向かい、ジョナスと一緒にチーズとちょっとしたおつまみを作り始める。

 その様子を、リドルが生温かいまなざしで見ていたことには気付かなかった。



「このクッキーは君の国では普通に出回っているものなのか?」


 アーレスはあらかた夕食を食べ終え、ワインを優雅な所作で傾ける。

 歴戦の勇者と言うけれど、さすがお貴族様だけあって、いちいち動作がお上品だ。


「そうですね。日本……私の国ではそうでもありませんが、外国では定番のものですよ」


「君の世界にも国がいっぱいあるんだな?」


 アーレスはジンジャークッキーがお気に召したようだ。これはもしかして、ジンジャーエールなんかも喜ばれるかもしれない。生のショウガが大量に手に入ったら、ジンジャーシロップの仕込みをしようといずみはひそかに思う。


「君の国では戦争はあるかい?」


 少し酔っているのか、アーレスは目をとろんとしながらグラスを傾けた。

 吸い込まれそうな濃い青の瞳に目が奪われそうになりながら、答えた。


「私の国は昔大きな戦争で負け、もう二度と戦争をしないことを誓いました」


「誓ったところで攻めてこられたらどうしようもないだろう」


「武力を行使する前にできることもあります。国同士が問題を共有し、話し合いをするのです」


「それは……すごいな。そんなことが可能なのか」


「もちろん、すべてがそうじゃありません。世界には、今でも戦争をしている国はあります。でも……武力だけでは恨みを生むだけで何も育ちません」


「……そうか。そうだな。いや、さすがは聖女だ」


 アーレスが感慨深げに言うのが、いずみには不思議な気分だった。

 思えば夫婦になってから、こうしてゆっくり話すのは初めてなのだ。


 給仕をしてくれていたスカーレットが皿を下げていき、残されたのはチーズやナッツのみ。

 いずみが作ったジンジャークッキーは、先ほどから間髪入れずにアーレスが手を伸ばし続けていたので、すでに空になってしまっている。


(こんなに気に入ってくれたなら、また作ろう)


 一本目のワインが開いた。すかさずリドルが次のワインの栓をあける。

 酔いが回っているのか今宵のアーレスは饒舌だ。


「俺は、恥ずかしながら戦地にばかりいてな。……この平和な王都で、何をしたらいいのか分からんのだ」


 零されたのは深いため息だ。アーレスが弱音を吐くとは思わず、いずみは黙って続きを待った。


「王城勤めの騎士団員はみんな体がなっていない。鍛えなおそうと意気込んではみたが、怪我人を出すようでは団長として失格だ。俺は……」


「……アーレス様」


 それは意外な悩みだった。

 オスカー王も言っていたが、アーレスはストイックで努力家だ。それは数日一緒に暮らしただけのいずみにもわかる。

 だが、誰も彼もがアーレスのようにはできない。

 才能がある人間には、才能のない人間のことが分からない。同様に自分が努力できる人間は、できない人間の気持ちなど分からないのだろう。


「アーレス様。まだ始まったばかりです」


 いずみの声に彼は顔を上げた。雄々しくて逞しいと思っていたのに、酔って見上げてくる瞳は子犬のように頼りなげだ。


「私も、自分がこの世界でできること、探しています。今日初めてひとつ、見つけたんですよ? ジンジャークッキーをつくること。これでアーレス様が喜んでくれること。私がここに来て、初めて自分でできたと思えたことです」


 分からないのなら、ひとつひとつ、試して見つけていくしかないのだ。

 そうして見つけたやりたいことが形になっていくのは、存外心地いいものだった。


(喜んでもらいたい。誰よりもアーレス様に。できれば、彼の体にいいもので)


「ショウガは胃の不調にも効くんです。最近アーレス様、お疲れのようだったし……」


「……俺の体調を考えてくれてたのか?」


 アーレスが驚いたように目を見張る。


「はい。だって、私、アーレス様の妻ですから」


 思わず強気になって言ってしまったが、厄介払いを引き受けてもらっただけの妻だ。偉そうに言うのはおかしな話かもしれない。

 いずみが恥ずかしさで、顔を赤くすると、向かいのアーレスもなぜか顔を赤らめてそっぽを向いている。


「そうか。それは、……その」


 しどろもどろに、彼は言う。消え入りそうな声で。


「助かる」


(……なんだか心がむず痒い)


 胸の内に宿る、抑え込んだはずの恋心に、静かに情熱の火がともる。

 何よりいずみが嬉しかったのは、前より少し、アーレスに近づけたと感じられたことだった。



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