ホーク
「黒豹がまた現れた。数週間は警戒しておくように」
「はい。かしこまりました」
「オズの動向も引き続き報告をしろ」
アリスフォード王国。王宮閣議の間、コモ王の言葉に男は頭を垂れた。
「オズ、新聞です」
オズもサルモネもこの生活に慣れ始めていた。オズの我儘にも慣れ、朝昼晩と食事も作ることにもすっかり慣れた。
「先に読んでいいよ」
「ありがとうございます」
すっかり片付いたリビングで書類に目を通すオズ。サルモネは目の前に腰かけて黙って新聞を読み始めた。
ぬるいコーヒーを啜り、気になる文字と目が合った。
「あの」
「なに」
「この、黒豹の観測地点て何ですか」
「通称が黒豹のカラス。厄災の運び屋って呼ばれてる災いの魔獣、ソイツが現れる場所では不幸が起こるんだ」
「……あぁ」
ガロも同じ事を言っていた。ふと思い出した、その変な通り名の事を。
「観測地点はどこって書いてある? 」
「……マーケットの、一区です」
「また厄介な場所に出たな」
「黒豹のカラスってなんでそんな変な名前なんですか? 」
「さぁ」
サルモネはひと通り目を通してから新聞をテーブルに置いた。
「マーケットに扉繋いでもいいですか」
「いいけど、そろそろ面倒な事が起きそうだから気をつけてね」
「分かりました」
魔法も必要な事は覚え、マーケットと家を繋ぐ程度はお手の物だ。
「コネクタ」
ノブを掴む手に力を込めてピリリと指先が痺れた。ガチャリ、と扉を開けば雑踏と絶え間ない人々の声。サルモネはその雑踏と声に混じって消えた。
扉が閉まる音が消えきらない内に再び扉が開いた。
「おはようございます」
「おはようドッグドッグ」
ハンチングを取り頭を下げたドッグドッグは「失礼します」とオズの目の前に腰掛けた。
「あれ、サルモネくんは」
「君と入れ違いでマーケットに行ったよ」
「言ってくださればカードお渡ししたのに」
「大丈夫、繋ぐ魔法くらいは出来るから」
「まさか、もう? そんな早く? 」
「言ったろ、才能があるって」
書類を整えてオズはひょいとペン数本を宙に浮かせた。数枚の書類にスラスラとひとりでにサインされる。
「はい。これ取りに来たんでしょ」
「えぇ。あと今日は用件がもう一つ」
ドッグドッグはすぐそこにあった新聞を手に取り、一面の大きな記事を指さした。
「ラットカンパニー、ようやく一人目の顔が割れました」
そう言うとオズは興味無さげな瞳を揺らしもせずにジッとドッグドッグを見つめた。
「僕、言ったよね興味ないって。僕じゃなくたって出来る任務でしょ」
「まぁ、お話だけでも」
「そんな気持ち悪い話、聞きたくもない」
ドッグドッグは構わずに続けた。
「顔が割れたのはラットカンパニーの幹部です」
一枚の写真を取り出したそこには黒髪の男が写っていた。短い黒髪に良く似合うスーツ。
切れ長の瞳が鋭くどこかを見つめていた。
「本名はガロ。ホークと呼ばれていた男です」
「ガロ? 」
「まさか、お知り合いで? 」
「いや……」
聞き覚えがある。とは言わずオズは難しい顔で腕を組んだ。
「よッ。サルモネ」
「ガロ! 」
マーケットの外れ、待ち合わせやすい場所で待っていたガロはサルモネ向かって軽く手を挙げた。
「今日は何を買いに来たんだ? 」
「この前、言ってた本屋に行きたいんだ」
「いいぜ」
猛禽類のような鋭い眼光。サルモネの目を盗んで度々光る。
『お前は本当に良い奴だな』
「どうかした? 」
「いや、お前って良い奴だよな。よく言われねぇ? 」
「どうしたんだよ、急に」
オズの息のかかったサルモネ。手を離れればそんなものはお飾りにもならない。殺してしまえば尚のこと。
男にしては小さな身体は細く、簡単にねじ伏せられる。
サルモネの後頭部を視界に捉えながらそう思考を巡らせていたガロは不意に振り返ったサルモネの瞳に心臓が跳ねた。
どうしてか、見透かされている気がするのだ。
「どうしたんだよ」
「道、こっちで合ってる? 」
「あぁ」
もちろん知るはずはない。サルモネの頭の中はそんないいモノで出来てはいなかった。
マーケット二区の穴場の古本屋に着くと、サルモネはワッと声を上げて店内に駆け込んだ。
「おい、サルモネ……ッたく」
視界を遮るように並ぶ棚を一つ一つ覗いてガロはサルモネを見つけた。
「サルモネ」
一冊の本を手に取って今にも開こうとしていたサルモネはハッと顔を上げた。
「あ、ごめん」
「いや、いいんだけどよ。お前オズの弟子なんだろ? それなら腐るほど本があるんじゃねぇの」
「そうなのかな。聞いたことないから帰ったら聞いてみるよ」
「あぁ」
再びギラリと光る。
「じゃあ、同じ本があっても困るだろうし、また今度にしようかな」
サルモネは本を棚に戻すと「連れてきてくれたのにごめんね」と言った。
「さっきの何の本だったんだ? 」
「アリスフォードの魔法史実って本。オズの事書いてあるかなって思ってさ」
「ふぅん」
古本屋を出るとガロは背中を丸めてサルモネの顔を覗き込んだ。
「お前って、魔法の事なんも知らねぇよな。なんで魔法士になろうと思ったんだ」
「……オズが、そう言ってくれたから。まだ、そんな理由しかないんだけど」
「羨ましい事だな。大魔法士にスカウトされるなんて」
「でも、一番は……」
俯き、サルモネは掠れた声で呟いた。
「独りに、なりたくないんだ……俺」
なりたくないとは思わない。けど、なりたいと言える真っ直ぐな信念もない。
独りの辛さは誰かと一緒にいる時、本当に理解するのだ。
屋根がない場所で冷たい雨に打たれる寂しさも、家の明かりを羨ましく見上げる虚しさも。もう二度と味わいたくはない。浅ましいと思われても、ずるい奴だと言われてもしがみつきたい唯一だ。
「ごめん。魔法士の君にこんな事言ってごめん。恥ずかしいこと言ってるのは分かってる、だけど嘘ついて大魔法士になりたいなんて言っちゃいけないと思うから……」
「そんな事どうでもいい、お前の事なんてどうでもいいけどよ。」
『君は、大魔法士になんてなれないよ』
オズの呪いみたいな言葉がガロの首に絡みつく。自分の心がバラバラになるまで苦しめた言葉がいつまで経っても離れない。いつまでも鮮明に、新しく傷になる。
ガロの心拍数が段々と上がっていく。
そしてサルモネに感情のまま思わず掴みかかった。
「オズの名前を汚すような事だけはするンじゃねぇ! もうお前はお前だけの命じゃねぇぞ、死んだらお前を選んだオズは世界中の笑いモンだ! 」
ガロは隠していた鋭い瞳で睨みつけた。歯を食いしばりながら、サルモネを揺さぶる。
「分かったか! 」
「ッ! 」
「せいぜい、生き延びやがれクソボケ野郎」
カクンッと首を折ったサルモネの服の襟を離し、地面に崩れるのをガロは見下ろした。
「ホークという幹部は三年ほど前から剣術から魔法術に戦闘方法が変わっているんです」
「……」
「ガロという男は表はアリスフォード籍の魔法士で、まだ19歳の青年です。しかしホークという名はカンパニー設立された十年前から上がっているんです。素性は割れていませんが、ガロはここ数年で頭角を現して名前を継いだ可能性があります」
「……うーん」
「ガロは何人もの貴族を暗殺しています。ラットカンパニーはもうこれ以上見過ごせないところに来ているんです。だから……! 」
「思い出した」
オズは目を見開いて、サルモネから聞いた名前だと思い出した。
「サルモネ! 」
「え? サルモネくんが何です」
「サルモネが、言ってたんだ。ガロって名前を……マーケットでいつも会ってる男だ」
オズは慌てて立ち上がりコートを引っ掴んで勢いのままマーケットに繰り出そうとしたのをドッグドッグは止めた。
「落ち着いて! いくらオズさんでも考え無しに突っ込んでいい相手じゃありません! 」
「馬鹿みたいに考えてその間にサルモネが死んだらどうしてくれる?! どこぞのクソ野郎に売り飛ばされてくれたらどうするんだ! 」
ドッグドッグを振り払いオズは勢いよく扉を開いた。しかし、マーケットに繋げたはずの扉は長閑な緑の景色だった。
「落ち着いて話しましょう、と言いましたよね」
オズに突き飛ばされたドッグドッグは尻もちをついたまま、手を扉にかざしていた。
「ドッグ……! 」
「ラットカンパニーは裏で数々の権力者と繋がっています。彼の死期を縮めたくないのなら、ここは僕に従って下さい」
唇を噛み、オズは踵を返した。
「もう分かっているとは思いますが、ラットカンパニーにサルモネくんは捕らえられている可能性が高いです」
「……」
「ホークの顔が割れた今、サルモネくん略取を急いだと思いますからね。ですから、正々堂々と行きましょう一区に」
ピラリと揺れた二枚の紙には〝一区通行許可証〟と綴られていた。
「君、こうなる事分かっていたんじゃないよね」
「まさか」
「まぁ、一応感謝はする」
「以前からラットカンパニーには諜報員を送り込んでいました。しかし毎回中間報告期になると連絡が途絶えるのです。が、最近になって一人生存確認が出来ました」
「それで」
「彼に協力してもらいます」
冷えた空気。冷たいコンクリートの上で転がっていたサルモネは自分のクシャミで目を覚ました。
「……えッ? 」
ガバッと身体を起こすと、自分が鉄格子に阻まれた空間に閉じ込められていたことに気がついた。
「なんだこれ! え? ガロ、ガロは?! 」
鉄格子を掴み、視線をあちこちと動かすが呻く声や泣き叫ぶ声だけしか聞こえない。
サルモネ以外にも牢屋に囚われている人はいるようだった。
「くそッ! ガロ! ガロ無事?! 」
「静かにした方がいい。看守が来たら面倒だぞ」
「誰? 」
暗い空間、サルモネでは無い声がした。低く落ち着いた声の主は格子に寄りかかるサルモネの元まで足音も立てずに近づいた。
ライターの火がつき、ジジッとタバコに火をつけたスーツの男。
「お前はガロに嵌められたクチか? 」
「えッ? 」
「ガロ、カンパニーの幹部だよ。通称は、確かホークだったか……」
「カンパニーって? いや、ガロが嵌めたってどういうことですか? 」
「ラットカンパニー。人身売買斡旋から裏取引、貴族の暗殺までする真っ黒な組織だよ」
タバコの男はブロンドの髪をかいてサルモネを隣に招いた。
「ガ、ガロがそこの幹部だって? 」
「あぁそうだ。なかでもアイツはかなりイカれてるな」
「……嘘だ! ガロはそんな事しない! 」
「お前、アイツと知り合ってどのくらいだ。バカな魔法士でもアイツが手を出しちゃいけない領域に踏み込んでいることは分かるぜ? 」
知り合って間もない。
だけど、はじめて友人となったガロを自分を嵌めた、騙したと思いたくはなかった。
「お前、オズんとこの弟子だろ」
「……え? どうして知ってるんですか」
「はッ。お前を知らねぇこの国の魔法士がいるかよ。オズウェルの弟子っていう肩書きの強さを知っておいた方がいい」
「でも、ガロは知らなかったですよ」
「馬鹿か。知らねぇフリしてたに決まってるだろ。いかにカンパニーがお前を虎視眈々と狙っていたか……」
灰がポトリと落ちる。金髪の男は腰を下ろしてサルモネを見上げた。瞳に刻まれた十字が煌々と光る。
「まぁ、思い出してみろ、ここにぶち込まれる前のこと。それでもガロを信じるのか」
記憶が途切れたのはガロの見下ろす冷たい目だ。理性を総動員すれば満場一致でガロはサルモネを裏切った、いやもともとカンパニーに引きずり込むのを目的としていたと結論が出る。
だけど、全部が全部ガロが悪だとは思えないのだ。
「フゥ……」
煙を吐いた男は立ち上がった。
「お前、名前は? 」
「俺のこと知ってるんじゃ」
「出回ってんのは赤髪と琥珀色の目って事だけだ。そんな珍妙な色のヤツそうそういねぇからな」
「……珍妙って。サルモネです、名前はサルモネ」
金髪の男は一瞬だけ目を見開くとすぐに元の凛々しい表情に戻った。
「俺はクラウン。カンパニーに潜入していたアリスフォードの諜報員だ」
「……諜報員? 」
「ラットカンパニーの内部を探ってたんだ。幹部まで上り詰めたがドジってここにぶち込まれたけどな」
「しかし、いつ来てもここは気持ち悪い所だな」
街ゆく人々ですら品定めする視線。鎖で繋がれた人間が立ち並び、虚ろな瞳と時たま目が合う。それが堪らなく嫌だ。
「静かに。余計なことは言わないで下さい」
まるで普通かのように人間が売買されていく。ドッグドッグも嫌な顔を隠しきれていない、自分の首に巻き付く首輪が苦しくなったのかグッと引っ張った。
「……僕も、あまりいい気分ではないですね」
救えるものなら救ってやりたい。ドッグドッグは商品として並ぶ人間たちと目が合わせられなかった。
一人救ってやったところで、全ては救えない。中途半端な行動はなんの救いにもならないことは知っていた。
神の使いと崇められた神獣も見るも無残に肉塊になっていた。神も仏もあったものじゃない。
「罰当たりな」
「彼らにとって、神は自分自身。当たる罰なんて無いさ」
相変わらず腐った空気で充満している。
怠惰の上に立った権力こそ、この世で一番憎い。
出来上がった物のあぐらをかいただけのお前たちがどれだけ偉い?
「ドッグドッグ」
オズに視界を塞がれたドッグドッグは犬歯を剥き出しにして小さく唸り声を上げていた。
冷静になると身体の中から焦りが溢れ出て、脂汗が全身に滲んだ。
「奴らが見てる」
「……」
ドクンと心臓が大袈裟に跳ねた。化け物を見るような見下すような、怖がるような視線が際限なく注がれていく。
「く、クラウンに連絡します。とりあえず、カンパニーの場所は報告されているのでコンタクトを取って合流しましょう」
小型無線で潜入中のクラウンに繋いだ。
しかし、どれだけ待っても無線に応答する声は表れない。ザーザーと浅いノイズが流れるだけの無線機を止める。
ノイズ音は無線機が応答不可能である、応答機能の故障を意味する。
「繋がりません」
「クラウンだろ。まさか、しくじったわけじゃあるまいし」
「……無線機が応答不能状態のノイズが、流れてます」
「じゃあ、サルモネはどうなるの? 」
「なんとかしないと。クラウンの組織脱出も失敗は出来ないですし……」
オズは妙に焦るドッグドッグの首根っこを掴んだ。
「ねぇ、なにを慌ててるの。僕もそりゃ焦ってるけど、君ずっとおかしいよ」
「黒豹が一区に出たんです。もし、こんな所で何かあったらタダじゃすみません。貴方も、僕も。もちろんサルモネくんも」
世界中から貴族や権力者たちが集まるこの区域で問題を起こせば、マーケット管轄のアリスフォードの国王も粛清を受けることになる。世界を巻き込む戦争になりかねない。
その混乱に乗じてオズの首を狙う化け物級の魔法使いたちもこぞって集まってくるだろう。
「それだけは絶対に避けないと」
「僕ら、どうなるんですか」
「まぁ売り飛ばされるか、捌かれてバラバラに売られるかだな」
能天気とは言わないが、シラッと言えてしまうクラウンに返す言葉が見つからなかった。人間としての価値すら剥ぎ取られた最期なんて笑いひとつだって出ない。
「……こんな時、まともな魔法が使えたら」
「はは。ここ、魔法士は魔法が使えないぜ。魔力が体外に出ないようになってる」
「完全に詰んでるじゃないですか……あぁ、オズにガロと会うこと言っておくんだった」
クラウンは唇の端をわざとらしく吊り上げてタバコの火を壁で捻り消した。
「タバコが切れちまった、そろそろこんなシケた所出ちまおうぜ」
まるで、自分に選択肢があるかのように話した。ここがどこであるか忘れたわけじゃあるまい。
魔法だって使えないはずだ。
「えッ? 」
「来ねぇのか 」
「い、行きます行きます! 」
クラウンは薄汚れたスーツのポケットから鍵を取り出した。
「えッここの鍵ですか?! 」
「いや、よく見てろ」
鍵をサルモネに見せつけてから、格子の一本に鍵をピタリと当てた。ググ、と押し込むと鉄格子にグニャリと鍵が沈みこんだ。
「なッ! 」
鍵を鍵穴に差し込んで回すように捻るとガチャン、と解錠した音が鈍く鳴った。その瞬間、鉄格子がボロボロと崩れ落ちた。
「……凄い」
「魔法士だからって魔法道具持ってないと踏んでくれて助かった。ほら、行くぞ」
阻むものが無くなり、いとも簡単に外へ踏み出した。
外へ出て分かったのはサルモネとクラウンの他に数え切れない人数が囚われている事だった。
逃げ出した二人を見て嘆く声と助けを求める声が共鳴するかの如く溢れ出す。
「サルモネ、行くぞ」
「……」
切実な声に耳を傾けないことなんて出来なかった。サルモネは立ち止まり「この人たち助けられませんか」と言った。
「悪いがそんな余裕はない」
「それは、わかってますけど……売り飛ばされたりするんですよね! 」
「こんな大人数助けられると思うか? もしも助けられたとしてこの人数が無傷で欠けることなく生きて帰る保証はどこにもない」
「でも……」
「無駄に希望を抱いて死んでいく奴らの責任は取れるのか? お前はお前の力でコイツら全員を守り抜く力があるのか? 」
ひとつひとつが正論で言葉もない。助ける力はサルモネ自身にはない、そしてその先もクラウンの力に依存しなければ自分自身の脱出すら望みはない。
「お人好しも結構だが、出来ねぇことは言うな」
「……まさかと思って来てみれば二人揃って逃げ出してくれるとは」
低く、重い声が脳裏に張り付いた。
その声にハッとして俯きかけた顔を上げると、スーツを身に纏ったガロが立っていた。
「ガロ! 」