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新世界が聞こえる  作者: ニシムラ圭
1章
1/5

誰ガ為に生きるのか



「サルモネ、

お前は生まれるべきではなかったんだよ」



どこまでも続く轍を避けながら進む世界は

いつか破裂してしまうだろう。



「そうね。

マザーに望まれない存在は御法度よ」


「彼に罰を」


「それ相応の地獄を」



生まれたことすら許されないのなら、

生きている意味があるのだろうか。



「目が覚めれば貴方の望むままの世界」



華麗な笑い声が暗闇に響く。

それは夜の子供たちだ。





 夜の街は暗く乾いた空気、肌に染みない冷たく軽い風が建物の間を縫って駆け抜ける。

 閑散とする街灯もないような路地に赤髪少女は一つのランプの明かりを頼りにユラユラと歩き続けた。ランプの灯りを頼りに歩くのは彼女一人だけではない、同じ年頃の少女が数人、その少女を品定めする男達が同じように路地を歩いていた。


「君は一晩如何(いか)ほどかな?」


 シルクハットを被った紳士。中年くらいに見える男は優しい笑みを浮かべ赤い髪の少女に声をかけた。

少女は自らの顔が見えるようにランプを掲げると、小さな声で『今夜は、二万』と呟いた。

丸い目は虚ろで、まるで生き人形だが琥珀色の瞳だけが凛と美しく光っていた。

紳士は少女の手に二万を握らせて肩を抱いた。

今日は運がいい、街へ出て1時間も経たずに声を掛けられたと少女はホッと息を吐く。

 少女のまだあどけなさの残る顔には感情は伺えず、結ばれた唇が開くことはなくただ街に据える闇を見つめている。


突然、ランプの火が不自然に揺れた。

グニャリと火が歪む。


「……? 」

「君、名前は? 」


シルクハットの男が聞くと少女はハッとして小さな声で答えた。


「アシュリーです」


 冷えている筈の夜の空気だが、さらに冷たい空気がヒヤリと頬を撫でる。身体の中芯に触れられるような冷たさが毛を逆立てた。

違和感が脳内を染めると周囲でザワザワと囁き合う声が聞こえだす。そしてたった一人、耳元で囁くようにも聞こえたその低い声に少女は足を止めた。


『迎えに来たよ』


その声だけハッキリと聞こえたのだ。低くて心地の良い優しい声。温かいミルクに溺れた時のようなまどろみが身体に沁み渡るようだ。


パチンッ。


何かが弾けた。視界がチカチカと眩しくなった。


「うッ」


 一瞬だけ、昼間に戻ったようだった。火花とも違う一瞬の明かりは到底人間に出来うるものではない。

すぐに街は夜に戻り、ランプの灯りだけが

ぼんやりと明るいだけだった。

 少女は気のせいにしてしまいたかったが、シルクハットの男は消え、自分と同じように街を彷徨いていた少女達も消えてしまっていた。

 驚いた少女がランプの明かりを乱暴に揺らし

辺りを見渡すが、ネズミ一匹いない。


「……どうして? 」


 ポツリ。少女は零すと長い赤髪が冷たい風に流された。鳥肌が立つ。それは寒さからくるものではなくて、全身の細胞が奮い立つような恐ろしさからくるものだった。


ピリリと痺れる指先。

またチカチカとする視界。


「今日は一晩いくら? 」


 ランプの火が再び揺れた。

少女はユラユラと不安そうに揺れる灯りを

声のする方へ掲げると、暗闇の中の声に答えた。


「今夜は、2万」


 低く、冷く響いた声の正体は見えない、気配すらしない。声は近くでするのに照らしても人影すら見えない。


「それで、君の命は買える? 」


「……いのち? 」


思わず後退(あとずさ)りした少女の手を暗闇から伸びた手が掴んだ。途端、視界は暗闇に馴染む。厚手のコートを着た男が少女の手を掴み顔を覗き込んでいたのだ。


「魔力は消耗品だよ、そんな風にぞんざいに扱うんじゃない」

「ひッ! 」


 暗闇によく溶ける真っ黒な髪の隙間から、ビー玉のような美しい青い瞳が少女を見つめた。

 既に少女は限界だった。頭がグラグラと揺れ、激しく息を切らして今にも倒れそう。

男は少女の身体を引き寄せ、背中に手を回し大事そうに抱えた。


「おやすみ」


耳元で囁かれたのを最後に少女は目を瞑った。






 あなたは可愛い子供。

夜に捨てられた掃き溜めのような子。


 あら、この世界にも嫌われているのね。

可哀想、可哀想に。


 でも目を覚ましてごらんなさい。

どこにも居場所のなかったあなたに用意された

奈落はここにあるわ、ほらもう一度。



 次は上手に出来ればいいわね。

 幸運を祈るわ。サルモネ。




 真っ暗な空間で佇んでいる。暑いも寒いも暖かくも涼しくもない。


ただの暗闇。


 暗闇に取り残された赤髪の少女は身動きが取れずに目だけキョロキョロと動かした。暗闇に目が慣れず、自分が何処を向いているのかすらも分からない。


「……ここは」


 女になりきれない少し上擦ったような高い声が出た。まるでその声に返すかのように暗闇からニュッと白く細い手が飛び出してきた。



「……ッう! 」



 皺だらけのヒヤリとした手は少女の頬に触れ、愛おしそうにゆっくりと頬を撫でる。

 皺だらけなのにすべすべの手、少女は心地が良くて目をゆっくり細めた。


「……アシュリー」


少女の名前が呼ばれた。落ち着いた、老女のような声。


「お前の呪いを解いてあげるよ。このままでは死んでしまう」

「呪い? 」

「あぁ、呪いさ」


 アシュリーと呼ばれた少女が『貴方は魔女なの? 』と言おうとすると、白い手の人差し指がアシュリーの目の前で口をファスナーで閉めるようにピッと横に振られた。

モゴッと言葉が口内に詰まり、声が出ない。


「私もちょっとした呪いをかけさせて貰うよ。さ」


「…! 」


アシュリーの顔の前で白い手が何かを引き出すような動作をした後、ギュッと空気を掴んだ。


「目が覚めたら私の元へおいで。オズに西の山向こうの魔女にやられたと言うんだ」

「……む」

「出来るなら、一人で来てくれたらいいんだがね。死んでしまう前に早くおいで」



パチンッ……ー。


 指を鳴らした乾いた音が暗闇に響くと、ゆっくり暗闇が溶けだした。

黒に白が混ざるように明かりが差し込む。


 変な夢だ。

 少女はゆっくりと目を開くと絵画を貼り付けたような鮮やかな天井と目が合った。天使が飛び回る可憐な絵が美しい。

意識がはっきり戻ると身体が異様に重かった。

背中が柔いシーツに溶けてしまったようで、身動きが取れない。


「……」


 誘われるような甘い匂いがした。

薄く目を開く少女はまた微睡みに飲まれながら呑気にそんな事を思った。

 自分で生きることを止められないだけの少女は、何が起きようと『今さら』なのだ。この温かい毛布とシーツに挟まれて死ぬなら思い残すことは無いともう一度目を瞑る。


こんな穏やかさ、いつぶりだろう。



「二十三度、適温だね」


 突然声が降ってきた。低く優しい声。

聞き心地がよく、子守唄のようだ。

昔、遠い昔に聞いた優しい声によく似ている。


少女の意思に関わらず勝手に涙が頬を伝う。


逃せない幸福な気持ちで満たされ、少女はゆっくりと目を開いた。


「おはよう」


 視界いっぱいに少女の顔を除き込む男の顔があった。青い瞳が優しく少女を映し、少し長い黒髪が頬をくすぐった。男はゆっくり瞬きをすると少女の身体を優しく起こす。

男の手はヒヤリと冷たくて温かい空気に包まれていた少女には刺激的だ。


「よかった。熱は無いみたい」


 少女は男に手を引かれベッドから半身起こした。真っ黒な髪の男は星を抱き込んだような綺麗な目で少女を見つめた。


「そうだ、ボロボロの服じゃいけないね」


ボロボロ。白と黒で織り成されたワンピースは萎み、薄汚れてしまっていた。

少女は改めて自分の姿を醜いと思った。


「元に戻してあげる」




 物が散乱するリビングには趣がある、ようにも見える。テーブルに本や紙、至る所に置かれた不思議な植物。少女にとって見たことの無い変わった物が雑多に並んでいた。


「さ、ソファに座って」


 座れと言われたもののソファにも本が散らばっている。男がローテーブル挟んだ向かい側の本だらけのソファに腰掛けたのに倣って、なんとか隙間に座るとホコリが立って思わず咳き込む。

 人が住んでいるにしては至る所にホコリが溜まり、掃除の形跡が少しだってない。人のいた形跡だけ残してそのまま使われなくなった空き家のような空っぽのリビングとでも言える。

しかし、この片付けない物だらけの部屋ですら似合う男は、まるで魔法使いのようだ。

 町はずれの古い家に住む優しい魔法使い。

静かに慎ましく暮らす美しい絵本の世界の魔法使い。少女が思い馳せた魔法使いの姿が浮かぶ。


「名前は? 」


肩に触れるほどに伸びた艶やかな黒髪を耳に掛け、微笑んだ。目に掛かる長い前髪の隙間から見える目はとても美しい。


「……名前、ですか」


 少女は『名前』を思い出せない。名前はある筈なのに、言えなかった。腹の底に引っかかって出てこないようなそんな感覚が邪魔をする。

滅多に名前なんて使わないから、忘れてしまったのだろうか。


「名前を盗られたのか。

西の山向こうの野良魔女にやられたね」


ハッとした顔した少女は思わず声を張り上げた。


「どうして分かるんですか?! 」


 夢の記憶と同じ、男がピタリと言い当てたことに驚いて重たい身体で思わず立ち上がってしまった。案の定グラりと足元が歪む。


「うわッ! 」


高く一つに纏められた赤髪を揺らし、ソファに倒れ込むと男はクスクス笑った。少女は男の顔をジッと見ると夢の中の魔女の言葉を思い出した。



『オズに言うんだよ』



オズとはこの男の名前なのだろうか。

少女は目を凝らすが、彼の名前が覗ける訳でもない。


「僕の顔に何か付いてる? 」


穏やかそうに笑う男は深海、深海よりももっと深い青色の耳飾りを揺らして微笑んだ。


「西の山向こうの魔女を君は知っているの?」

「知っている、と言うか……夢で見たというか……。呪い、呪いを掛けたって」

「呪い? 」


 黒髪の間から丸くなった青い瞳が見えた。

少し考え込む素振りをした後薄い花びらのような唇が言葉を落とす。


「魔女の呪いはないよ。寧ろ複雑な術が解かれている」

「え? 」

「名前を盗られただけさ。呪いはあるみたいだけど、魔女のものじゃない」

「じゃあ、夢は…? 」


 あっちへこっちへ思考が移る。少女自身では理解の出来ない領域である。訳が分からなくて何も考えたくはなくなってしまう。


「夢の中の魔女は他に何か言っていた? 」

「呪いを、解いてあげるって。私の呪いって、何なんですか? 」

「それは魔女の誘い文句。君の呪いは君自身の魔力の低下から引き起こされたのさ」

「魔力……? 私、魔法なんて使えません」


 少女に魔法など使える筈がない。魔法が使えていたのならもっとマシな生活をしていたはずなのだ。少女は琥珀色の温かな瞳を隠すようにわざとらしく瞬きをすると、向かい側に座る男は身を乗り出して少女の頬に触れた。


「魔力を垂れ流しているも同然だ。君、もうすぐで死ぬよ。」

「……え? 」

「早くにも1週間後。魔力が底を尽きて死ぬ、君みたいなのは特に」


 魔法使いは自身で魔力を持つもの、魔力を別のものから得るものに大別されている。

どちらにも少女には心あたりがない。

 無茶苦茶なことを言う男の言葉にあんぐりと口を開け変な顔をするしか少女には出来ない。

ホコリで煙たいのを忘れてしまう位には驚いた。


「君はどこから来たの? 」

「…ッケホ。」




「オズウェルという名前……私、聞いたことがあります」

「そう。それは光栄だな」


オズの耳には宇宙を閉じ込めたような、

青く黒い美しい耳飾りがついていた。それは最高位の魔法使いの証だが、少女はそれを知らなかった。


「父が言っていました、オズウェルは強い魔法士だと」

「それは褒め言葉として受け取ってもいいのかな」

「貴方が、そのオズウェルなんですか」

「そう、魔法士のオズウェルは僕しかいない」


 オズは長いまつ毛を伏せて小さく笑った。

少女は心の中に父がオズは最低最悪の魔法士だと言っていたことをしまい込んだ。

父は「魔法使いの中で魔法士は特に危ないがその中でもオズは悪魔のような男だ」と言っていた。


「君のいた国では魔法使いは嫌われ者だろう」

「……そう言えば、ここは……?魔法は私のいた国ではご法度でしたが、オズさんはどうして」



 オズウェルのような名を馳せた魔法使いが、魔法使いの受け入れを拒否している自分の国にいるはずが無い。少女は記憶を引き出して、新聞を読む父親の姿を思い浮かべた。


『オズウェルは隣国の外れ、この国の境に住んでいる、そこには絶対に近寄ってはならないよ』


 魔法使いを毛嫌いする父親は少女にこれでもかと言い聞かせた。


「ここはアリスフォード」

「アリスフォード?! 」

「はは、だって僕の家はここだから」


 眠った少女を抱えて国境を跨いだ。魔法で空を仰ぎ、ひとっ飛びだとオズは笑った。笑い事ではない、人間の足で帰るとなると考えたくはない程の距離がある。

 しかし、少女はもう帰りたいとも思えない。家族への愛情は魔法がひとつ解けた時に薄れているのだ。



「さぁ、話は戻るけど君の呪いの話だ」



 呪いは複雑だ。一つではない。

少女自身を掘り下げられないようにいくつもの呪いが邪魔をしている。


「呪いのせいで、君はあと一週間もすれば死ぬね」

「……え? 」

「魔力を膨大に消費し続ける呪いが掛かっている」

「死ぬ? 」


 淡々と続けるオズのせいで妙に慌てることを忘れてしまう。


「西向こうの魔女が解いてやるって言ったのはその呪いの事」

「……ど、どういうことですか」

「どうもこうも、解くのに一週間以上はかかる呪いに掛かったってことさ」



 グェと変に喉がなった。



「死ぬんですか、私 」


掠れたような、無理に高く出しているような声が力なく部屋に響いた。


「そうだね」


ケロッとするオズウェルに事の重大さを思い知った少女は頭を抱えて蹲った。やはり、強がってはいたが死にたくはない。


「私死んじゃう……」


 少女がブツブツと呪文のように何かを呟き始めるとまた家鳴りが始まった。ミシミシと音を立てて揺れ、ホコリが舞う。


「死なせないよ、この僕が呪いを解いてあげるんだから」

「……死にたくない、私死にたくない」

「死なない、死なせたりしないよ絶対」


 オズウェルの目は真っ直ぐだ。美しい青い瞳、決して少女とは視線が交わらないが力強く彼女を見つめた。


「本当? 」

「本当さ」

「オズ、お願い。私死にたくないの」

「もちろんだとも」


 オズは何よりもこの小さな命を消させたくはなかった。単純な優しさでは無く、複雑に入り交じった彼のエゴ。


 少女は眠りについた。魔力が底をついてしまうギリギリで体力が持たないのだ。彼の存在を世界は呪い、殺そうとしている。


「可哀想そうに」


 ソファの物を退けて、少女を寝かせるとダイニングテーブル付近にあった毛布を指先ひとつで手繰り寄せた。フワリと浮遊してきた毛布を少女に掛けてやる。すぅすぅと規則正しい寝息を聞きながらオズは少女の赤い髪を撫でた。


「君の本当の名前を早く教えて」


オズが会いたいのはそう、赤髪の少女のアシュリーではない。




 また、少女は夢を見る。


「お入り」


 小さな箱庭の中にポツンと佇む小屋。小鳥の囀りが聞こえてきそうな温かく美しい庭に佇む少女はその声で小屋の扉を開けた。


「さぁ、座って。紅茶が冷めてしまう」

「…ここは」


夢だと分かる。

変に穏やかな空気に凪いだ心がそう言っている。

シャンと背すじを伸ばし座る老婆の正面に腰を据えるとふわりと紅茶の爽やかな香りが鼻を掠めた。


夢なのに、変だ。

少女がゆらゆらと揺れる紅茶の表面を覗いていると、頭の中もグラグラ揺れる。



「オズに言いくるめられては駄目じゃないの」

「……え? 」

「私の所へ来るつもり無かっただろう。確かにオズは腕のいい魔法士だが大事な事をすぐ隠す。あっという間にお前はあやつり人形さ」


言っている意味が分からない。

だけど、妙に納得が出来る。


老婆の話は嘘ではないと少女は思った。


「一度、私の所へいらっしゃい。本当の貴方にしてあげる」

「本当の、私? 」


 カタカタと少女のティーカップが揺れる。

小刻みにカタカタ揺れて、紅茶が波打つようにぐにゃぐにゃと歪む。

ふいに少女がカップを覗き込むと、そこには同じ赤髪の青年がいた。


「わッ!! 」


同じ顔をして驚く青年。


「それが、本当の姿さ」

「今、顔が……」

「それが本当のお前だよ。アシュリーだなんて馬鹿な名前使うんじゃない」

「男だったんですが……」

「アシュリーという名は返すよ。お前にとって大切な名だろう。さぁ、ここまで話したんだ、目が覚めたら飛んでおいで」



グニャリと老婆の顔が歪んだ。



「待っているからね」


 暗闇が足元を崩していく。

老婆も、テーブルも椅子も全て暗闇に溶けて消える。その暗闇に少女が沈みこんでいくとフッと目が覚めた。

夢の余韻に浸る暇なく身体を起こし「……夜が明ける前にいかなくちゃ」そう呟くとソファから飛び降りた。

オズはおらず、月明かりが入るだけの薄暗い部屋。玄関までそっと歩き、ゆっくりとドアを開く。生ぬるい風が部屋に入り込み、淡い色の夜が草木に溶けていた。


このまま、風に乗ってどこかに行けないだろうか。


少女はふとそう思った。


「……飛んでいけそうな気がする」

「どこへ行くの」


 少女は驚いて振り向くと月明かりにぼんやり照らされたオズが玄関に立ち冷たく少女を見つめていた。


「オズさん」


 静かな怒りがひしひしと伝わり、少女は思わず後ずさりした。怖い、と全身に走った感情でゆっくりと外へと足を出していく。


「こ、来ないで」

「どこへ行く? 僕が、君を助けると言ったよね」

「……でも」


 行かなければならない、そんな使命感が身体を突き動かすのだ。

少女はゴクリと生唾を飲み、震える手をギュッと握った。

目の前にいる恐ろしい存在から逃げようと少女は思い切って背中を向けて駆けだした。


「動くな 」


オズの低い声に突然突風が吹いた。草木が思い切りひしゃげるくらいに強い風に少女は足元を掬われ転んでしまった。

しまった! と思った時にはもう遅い。オズはもうそこまで迫ってきていた。





 オズが感情の見えない表情で少女を見下ろす。冷や汗も震えも止まらない。

琥珀色の瞳が怯えている。震える身体が段々と熱くなり、泣き出しそうになる。

その時だ、少女が唸り声を上げた。恐怖からではない、身体が燃えるように熱くなった。


「……うッ」


少女の骨がミシミシと動き始めた。少女の身体より遥かに大きくなろうとしている。もはや人間ではとどまれない程に。


「う、うぅ! 」

「……しまった」


 声にならない声でもがき苦しむ少女からオズは助けようとはせず数メートル距離を取った。

少女は徐々に身体を大きくし、四肢は全て地を駆けるために、太くしなやかに。身体の表面には鳥のような大きな羽毛が生え、鋭い嘴が暗闇に光った。

 鷲の顔、翼と前足、獅子の胴体と後ろ足。まさに魔獣そのものであった。オズは間一髪、前足の爪を避けて二メートルはある巨大な魔獣を見上げた。


「グォ……」

「想定外だ」


背中に生えた翼を狭そうにひとたび羽ばたかせれば家が揺れる。


「……グォォ!! 」


唸りを上げ、少女だった魔獣は空へ飛び立とうと翼を羽ばたかせた。


「行かせない。雷鳴の剣(ラヨエスパーダ)


オズは唱えたと同時に槍投げの要領で光を放った。四肢を暴れさせる魔獣の身体の至る所に稲妻のように鋭い光が突き刺さる。まるで剣のように身体を突き抜け、魔獣は爪先を地面に何度も食い込ませながらのたうち回った。


「グォォォ!!!! 」

「暴れないで。落ち着くんだ」


 地面も、草木も揺れる。地響きが止まない。

魔獣は苦しむようにもがくと、大きな翼を何度も羽ばたかせた。

(いかづち)の剣は徐々に光を失い身体から消え、痛々しい傷だけが残った。自由になった少女であった魔獣は木々がしなるほどの力で翼を羽ばたかせ四肢を暴れさせながら宙に浮いた。


「しまった、油断した」


 オズは強風に耐えながら飛び立った魔獣を見上げ、眉を寄せた。


 生ぬるい風を切るように空をかける。

瞬く夜の星たちに目もくれないで大きな羽を羽ばたかせ、四肢は空を駆ける。


大きな生き物が山を超えるのは一瞬だ。


 あっという間に西の山を越え、夢に出た美しい箱庭が暗闇の中にぼんやり見えた。

そのまま一直線に駆け下りると、紅茶の柔らかい匂いとたくさんの花の香りがした。懐かしいような、暖かい空気が身体を包み少女だった化け物も穏やかな空気の中に溶けてゆく。

庭を荒らさないようそっと四肢を地面に下りると、夢で見た老婆が杖をついて凛と背筋を伸ばし立っていた。


「よく来たねぇ。さぁ、本当の姿にお戻り」

「…グルル」


 傷だらけの唸る魔獣に老婆は手を伸ばし、そっと大きな嘴を撫でた。巨大な化け物の姿に驚くことは無く、寧ろ愛おしそうに撫でる。


「この身体じゃ家に入れないだろう。さぁ……」


 老婆は杖とトンと地面に打ち付けた。

すると化け物の身体からたちまち羽毛が剥がれ落ち、嘴は柔らかな赤い唇になる。ふわりと風を含んだ短い赤髪の青年が姿を現したのだ。あの赤髪の少女ではない。

傷だらけの青年は安心したように目を細めた。


「さぁお入り。紅茶が冷める前に」

「……」


視界が違う。

夢で見た老婆が低く見える。青年は暗闇の中、自分の姿を確かめられないが自分の身体がすっかり変わったのがわかっていた。




「さ、お座り。夢では紅茶が飲めなかったろう」

「……あの」


声が低い。喉も震えるように声を絞り出している。


「私……いや、俺? 」

「どちらでも構わないさ。記憶を探ってごらん、もう思い出せるだろう」



夢と同じ席に着いて青年はギュッと目を瞑った。キィン、とか細い耳鳴りがして話し声や街の雑踏が蘇る。




 自分は独りだった。

身よりもなく、死にそうな自分。


 男の自分は都合の良い働き口もなく、いつもひもじい思いをしていた。ある時、子供のいない夫婦に目をつけた。その夫婦は女の子が欲しいと言っていた、青年はそれを聞いて使い方なんて知らなかった筈の魔法で少女に姿を変えた。夫婦の記憶も書き換えた。

 短い間だったが魔力の持つ限り夫婦と家族として過ごしていたのだ。


「俺は……あの夫婦を騙してたのか」


 しかし、夫婦の魔法が解け家を追い出されてしまった。その時から男の姿に戻ることが出来なくなり、身売りをしながら少女として半年間生きてきたのだ。

まだ、曖昧だがぼんやりと思い出すことが出来た。


「俺の、名前は……サルモネ」

「そう、サルモネ。強く美しい名だ」


 老婆は頷くと紅茶を啜った。


「俺、どうして思い出せなかったんだろう」

「魔力を使い過ぎてお叱りを受けたのさ」

「お叱り? 」

「夜の女王様さ。あんたが膨大な魔力を垂れ流していたからね」


少女に姿を変える魔法と、人の記憶を書き換え続ける魔法。青年はそんな魔法の使い方なんて知らなかった。

ましてや、自分に魔法が使えるほどの魔力があったなんて。


「さぁ紅茶をお飲み。呪いが解けるようにまじないをしておいた。これで止められた魔力の生産が出来るだろう」

「飲むだけ? そんな簡単に解けるんですか?   

 オズは解くのに1週間は掛かるって」

「私はお前が来る随分前から呪いを解くために準備していたのさ」


 シワだらけの顔がくしゃりと笑う。何の変哲もない紅茶にそんな力があるんだろうか、半信半疑だが紅茶を啜った。


「飲み干して」


 グイッとカップを傾けて一気に飲み干した。

砂糖も入っていない紅茶はサルモネには苦く飲み干した後、少しだけ顔を顰めた。

身体が熱くなったりとか、軽くなったりだとか何も変化はない。


「? 」

「呪いは解けた」

「本当にですか? 」

「あぁ、魔力が戻るはずさ」


 


「サルモネ、お前は特別で残酷な存在だ」


老婆の声がふと重くなる。


「それ故にいつか苦しい思いをするだろう、死にたいと嘆く日が来るだろう。その時は私の所へおいで」

「おばあさん」

「カルナー、そうお呼び。

時間が許す限り、お前はオズのそばにいてやりなさい」

「オズさん……? 」

「あの子はまだ子供だ。だから、どうかオズを見守ってやって欲しいんだ。それに、オズもサルモネを守ってくれるだろう」


どうして、とは聞けなかった。それしか道が無いのだから、選べやしない。

それに、サルモネ自身何故か腑に落ちていたのだ。

 

「さぁ、夜が明ける。そろそろ迎えが来たんじゃないか」


 カルナーは立ち上がって、サルモネの手を取った。窓から薄明かりが入り込み、太陽が顔を出そうとしている。


何故か、サルモネにはオズの呼ぶ声が聞こえた。



「オズさん…? 」

「外へ出てごらん」


 サルモネはカルナーと共に小屋を出た。

箱庭を抜け、どこまでも続く草原の爽やかな風を受けながら眩しい光に目を細めた。


ぼんやりと人影が映る。



「オズさん? 」

「サルモネ!!!」


 背の高い黒髪の男がサルモネの名を呼び掛けてきた。邪魔になる長いコートも気にせずサルモネの元まで駆けてくる。


「あぁ、サルモネ…! 」


胸が張り裂けそうな切ない表情を浮かべ、オズはサルモネを抱きしめた。


「よかった……。やっぱりカルナーの所にいたのか」

「す、すみません」


 オズの頬は少し汚れている。

安堵した表情と相まってオズへ申し訳ないという気持ちが溢れる。


「呪い、解けてる。よかった、ありがとうカルナー」

「まだ若者には負けてなくてよ」

「だけど、勝手に連れ出さないでくれ。心臓が止まるかと思ったよ」


 オズはサルモネの変わった姿にも驚かず、あたかも元々この姿だったのかと錯覚するほどの反応である。


「サルモネはサルモネさ、だからお前が余計な事をする前に呪いは解いてやったんだよ」

「……そう」

「もう手遅れだから、悪いことは考えるんじゃないよ」

「分かってる。じゃあ、僕らは行くよ」


 オズは苦い顔をして、カルナーに微笑んだ。そしてサルモネの肩を抱き箱庭を離れ草原に入ってゆく。広い草原の中に佇む箱庭は離れてみると本当に不思議な佇まいをしていた。


「あ、ありがとうございました! カルナーさん! 」


そう叫んだ途端オズはトンッと地を蹴り宙に舞った。


「また来ます!!!! 」


一気に飛び上がり太陽が近くなる。

風が新しく爽やかで、サルモネはカルナーの庭を見下ろしながら大きく息を吸った。


空を飛ぶのは何度目だろう。

こんなに穏やかな空は何度目だろう。




「オズさん、驚かないんですか?」


 サルモネがまつ毛の長い美しい横顔を眺めながら聞くと、オズの目がぬるりとサルモネを捉えた。


「どうして? 」

「性別が変わって別人ですよ、俺」


 そう言うとオズは顔に似合わず豪快に口を開け、声を上げて笑った。


「アハハ! 知ってたさ、君は赤髪の良く似合う青年だってこと。サルモネ、その名前も」


 オズはサルモネの肩をギュッと寄せると、長いまつ毛を伏せた。


「僕はずっと待っていたんだから」


 顔にかかる前髪で表情は伺えないが、オズは泣いていた気がした。何故か、そう思ったのだ。

 サルモネは何も言えず、ただ黙って寄り添っていた。はじめて美しいと思えた朝日を浴びながら、掴みかけている居場所から離れまいとコートをギュッと握りながら。


「空を人間の二本足で歩くのはあまりに無謀だったかぁ」

「え? 」


 オズはサルモネの身体を離さないよう器用にコートを脱ぐと、サルモネに押し付けた。


「ちょっと持ってて」

「えッあ……」


 コートを脱いだオズの背には気がつけばカラスのような真っ黒な羽が生えていた。黒く靱やかな翼は一度羽ばたかせるだけでグンッと前に進んむ。


「うわぁッ!! 」

「すぐ慣れるさ」


風を切り、どんどん前に進む。

景色も流れるように変わってゆく。


「凄い……」

「サルモネだってこの空を飛んで行ったろう? 」

「……はい、だけどあまり憶えていなくて」


 夜と風が違う。爽やかで包まれるような風だ。

木々が並んでいる森から、見知らぬ街。それを抜けると見覚えのある大きな家が見えた。サルモネが家を見つけた頃にはオズは下降をし、あっという間に地面に立っていた。


「さ、着いたよ」


 昨晩、サルモネがのたうち回ったらしい場所に草木が萎びている。それを見つめ、サルモネは「ごめんなさい」と呟くとオズが不思議そうな顔をして視線の先を追いかけた。


「あぁ、気にすることない」

「でも……」


 肩を落とすサルモネの背をポンと叩き、一歩前に出て、森の入口、折れた木々に手のひらを差し出した。


「サルース」

 

 ふぅっと息を吹くと、さぁっと優しい風が吹いた。


「……凄い」


 木々が忽ち起き上がり、元の姿に戻った。

いとも簡単に治してしまう魔法に感心する他ないサルモネは目を輝かせて自然と踵が浮いた。


「僕、君を引き取ろうと思うんだ」

「……え? 」

「行くあてが無いのなら、魔法士として僕の弟子になって欲しい」


 その言葉にサルモネは口を開けてポカンととぼけてみせた。


「魔法士に、なれますか。俺は」

「君には才能がある。才能を活かすだけの力も」

 

 誰にも必要とされていなかった。思い出せる限りの記憶の中に、自分は必要とされていなかった。

サルモネは心臓が押し潰されそうになるくらいに嬉し泣きそうな感情を押し殺していた。


「弟子に、して下さい」

「うん」

「よろしくお願いします」


 頭を下げたサルモネは眉間に力を込めてから顔を上げたが、オズの顔を見て少し驚いた。

同じ顔をして、笑っているのだ。今にも泣き出しそうな笑顔にサルモネは笑ってしまった。

朝日がすっかり顔を出し、二人照らされながらしがらみは足元に張り付いたままなのを無視した。



「おーい! オズウェルさぁん! 」


 心地の良い沈黙を破ったのは王宮からの使いのドッグドッグだ。少年のような風貌をしていながら四足で駆けてくる。

勢いそのままに二本足だけで駆けつけるハンチングを被った少年はサルモネを視界に捉えると愛想良く「おはようございます」と言った。


「オズウェルさんもおはようございます。お早いですね、お出掛けですか? 」

「いいや」

「それならよかった。それはそうと……こちらの方は? 」


 ドッグドッグはサルモネをジッと見つめ、スンスンと匂いを嗅いだ。


「サルモネ。僕の弟子」

「へぇ……お弟子さんで…………

え?! 弟子?! 」


キィンと耳がなるくらいには大声だ。オズは耳を塞ぎ、もう一度サルモネが弟子であると告げるとドッグドッグは目をまん丸にしてサルモネにピタリとくっついた。


「オズさんが……弟子を。コモ様に至急お伝えしなければ、これは大ニュースだ」

「ドッグドッグ、サルモネが困ってる」

「すみません。少し、不思議な匂いがしたもので」


 名を馳せたオズの弟子は今までに一人もいなかった。オズの繊細で強力な魔法を継承する者がいないと嘆かれていた。

アリスフォードの王も長く続く魔法士一門の途絶えは悩みの種であった。

 ドッグドッグは胸を撫で下ろし、ようやくサルモネから離れた。


「すみません。名前も名乗らず。

僕はドッグドッグ、アリスフォードの王宮の使いです。どうぞよろしく」

「サルモネです。よろしくお願いします」


 差し出された手をサルモネは握り、満面の笑みのドッグドッグに合わせて笑った。

同じくらいの歳に見えるドッグドッグに惹かれているようだった。


「ところで、今日はなんの用?」

「あぁ! そうです!

また出たんです! 墓荒らしが」






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― 新着の感想 ―
[良い点] 物語のオリジナリティが高いですね、色々と。 [一言] 創作活動、頑張ってください。 物語を綴る同志として応援してます(*'▽')
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