3 弦月の祈り
レイがアレスに乗って飛び去った後アイナは一人で草原の道を戻り、そっと宿に入った。宴会はとうに終わっていて、酔い潰れたトーヤ達はもう眠ってしまったらしい。奥の部屋からかすかなイビキが聞こえてくる。
食堂では宿の女将さんとエマがテーブルの後片付けをしていた。
「あらアイナ。長い散歩だったね」
「うん、ごめんね母さん、今から手伝うね」
一緒に皿や杯を運び、洗って拭いて棚に仕舞って。一心不乱に働くことで、アイナはハクのことを思い出さないようにしていた。
ようやく片付けが終わり、女将さんが前掛けを解いてふうと息をつく。
「ありがとう、エマさんにアイナちゃん。今日は皿の数が多かったから助かったわ。それにしても、明日からみんながいなくなると思うと寂しいわねえ」
「ホントねえ。せっかく宿のみなさんと仲良くなれたのにね。でもまたいつか必ず、こちらへ伺いますよ。その時はよろしくお願いしますね」
「ええ、待ってますよ。アイナちゃんも次に会う時にはいい娘さんになってるでしょうね。おばさんのこと、覚えててね」
「はい、もちろんです。また会える日を楽しみにしています」
女将さんはにっこり笑ってアイナの頭を撫でてくれた。それから、テーブルの上にワインの瓶を置く。
「これ、まだ半分ほど残ってるの。エマさん、寝る前に一緒にどう?」
「あら嬉しい。じゃあいただこうかしら。アイナ、ハクと一緒に先に寝ておいで」
「……ええ、母さん。じゃあ女将さん、お先に」
「おやすみアイナちゃん、いい夢をね」
楽しそうに晩酌を始めた二人に手を振って、アイナは部屋に戻った。
部屋に入ると、小さな窓から月明かりが差し込んでいた。その明るさに照らされたベッドは朝整えたままに平らで冷たく、ハクの不在を否応なく感じさせられた。
「もう本当にいないんだな……」
ポツリと呟くとアイナは掛け布団を捲って中に潜り込んだ。いつもならハクもアイナの隣に入ってきて、ゴソゴソしながらベストな位置を探る。やがてお互いの背中に伝わる温もりが、二人を夢の世界に誘っていくのだ。だけど、それが今はもう無い。
改めて一人寝の寂しさを感じ、アイナはエマに聞こえないように声を殺して泣きながら眠りについた。
翌日、トーヤ一座は次の町に向けて旅立つために荷物を纏め始めた。いつものことだからアイナもテキパキと荷造りを手伝う。昨日の皿洗いと同じだ。こうして身体を動かしていれば、ハクがいない寂しさを紛らわすことができるのだ。
だがいよいよ出発という時にエマが気がついた。
「アイナ! ハクはどうしたの? またどこかに行ってるの? 早く連れておいで。もう出発の時間だよ」
「ああ、母さん……実は、ハクはもういないのよ」
「いない⁉︎ いないってどういうことよ」
「えーとね、昨日可愛い雌犬に出会って……それで、二匹でどこか行っちゃった」
我ながら随分と苦しい言い訳である。
「本当かい? あのハクがアイナと離れてどこかに行っちゃうなんて信じられないよ。お嫁さんなら連れてくればいいのに。野良犬になっちゃったらご飯も自分でなんとかしなきゃならないだろうし……」
エマにとってもハクは大切な家族だったから心配しているのだ。今にも探しに行きそうな勢いである。
「そんなに心配しなくても平気だよ、母さん」
アイナの兄のセヴィが話に割り込んできた。
「アイツ、フラフラと出掛けていっては屋台や酒場の客に愛想振りまいてさ、ちゃっかり食い物貰ってたんだぜ。アイツならどこ行っても食いっぱぐれることないよ」
セヴィの思わぬ助け船にアイナは乗ることにした。
「そうそう! そうよ、母さん。ハクなら大丈夫。心配しないで」
「そうかい? ……なら、いいけど。本当にハクを置いて出発してもいいのかい?」
「うん、大丈夫。ハクはもう、私のところには戻ってこないから」
「だってお前、あんなに可愛がっていたハクが居なくなったってのに……随分あっさりしてるねえ……」
「お別れは昨日十分したからもういいの! さ、出発しようよ。きっとハクは幸せに生きていくよ」
アイナは努めて明るく言って、エマに出発を促した。エマはまだ納得がいかない様子だったが、時間が来たこともあって渋々了承した。
「わかったよ。アイナがそう言うんならね。よし、じゃあみんな、出発するよ。次の町までは一週間の旅だからね」
そしてようやく一座の馬車は連なって出発した。宿の旦那さんや女将さんが見送ってくれ、アイナはいつまでも手を振りながらハクを思い出していた。
(さよなら、ハク。ハクと別れたこの場所を、忘れないからね……)
一週間の馬車旅を終えてトーヤ一座が訪れたのは、アルトゥーラ王国と国境を接したモラーノ共和国のペスカという町だった。
ペスカの人々は以前はアルトゥーラと盛んに交易をしていたそうだが、クーデター以来国境警備が厳しいので表立っては往来がない。だが住民達はこっそり国境を抜けて商売をしているらしい。
「今のアルトゥーラは物資が無いからね。何を持って行っても売れるんだよ」
行商人の男が、宿の中庭でエマと話し込んでいた。今回の滞在中に必要な食料や衣装用の布などを売りに来たのである。アイナは二人の話が気になって、手伝うふりをしながらじっと聞き耳をたてていた。
「でな、先週のことさ。クーデターの時に行方不明になっていた王子様が、アルトゥーラに突然戻ってきたんだと」
「へえ、そうなのかい? 五年前、王様が殺されたクーデターのことだね。あの時は私らもちょうどアルトゥーラにいて、逃げ出すのにそりゃあ苦労したんだよ」
「今、アルトゥーラはその話でもちきりでね。銀色の髪をした美しい王子様が青い龍に乗って現れて、乾いた畑に雨を降らしなさったんと。それを見たアルトゥーラの民は、生き神様だと涙を流して喜んだんだってよ」
「おじさんそれ、ホント⁉︎ 」
アイナは思わず大声を出して行商人の男に詰め寄った。
「どうしたんだいアイナ、急に大声で」
エマが呆れた顔でアイナを見ているが、気にしていられない。
「あ、いや、だってほら、行方不明の王子様が生きてたなんてすごいことだなあって思って……」
「そうなんだよ、お嬢ちゃん。軍は死んだと発表していたんだがね、亡骸はなかったと噂されていてねえ。民衆はもしかして、と希望を捨てていなかったらしいよ」
「それで、それからどうなったの?」
「雨を降らせてもらった土地の領主様は、『やはりこの方が我らの王だ』と言って、王都から来ていた軍の奴らを追い出したんだと。地元の兵士達は皆、偉そうな軍の上層部を嫌ってたからなあ」
「じゃあ、すぐに政権を取り戻せるかな⁉︎」
「おやまあ、アイナ、そんなによその国の政治に関心があったっけねえ……?」
エマが不思議そうに首を捻っていた。
「いいじゃないか奥さん、関心を持つのはいいことさあ。それに、すごい美男子らしいからな。若い女の子は興味津々だろ」
「ち、違います! そんなんじゃないから!」
アイナは真っ赤になって反論した。男はワッハッハと大声で笑ったが、ふと笑顔をやめ真面目な顔になった。
「いや、ここだけの話、アルトゥーラはまた政権がひっくり返るね。みんな言ってるさ。この五年、悪くなるばかりでいいことは何にもなかったって。みーんな王様に寝返って、すぐに王都に入城なさるだろうよ」
「そうかい。そうだねえ、またアルトゥーラにお芝居を見せに行きたいものねえ。元の平和で豊かな国に戻ってくれると私たちもありがたいよ」
その夜、アイナは窓を開けアルトゥーラの方角を見つめながら考えていた。
(ハクはもう、自分のやるべきことを始めてる。私も寂しがってばかりじゃダメだなあ。次に会う時までに、成長した私でいなきゃ。いつかまた、絶対にハクに会いたいし、変わった私を見てもらいたい)
「お月様、どうかハクが無事に王都に入れますように……」
窓辺にひざまづき、弦月に向かって手を組んだアイナはそのまま長い時間祈りを捧げていた。