2 契約の儀式
蒼い髪の男は頬を紅潮させ感極まった表情で近づいて来ると、男の足下にすっと跪き、静かな、しかしはっきりとした声で話し始めた。
「アルトゥーラ王国始祖、ガイアス王の末裔よ。我、蒼龍アレストロンは古の契約に基づき汝の下僕とならん」
その言葉を受け男はゆっくりと蒼い髪の男の頭上に手をかざす。今は話しかけるのは憚られるような気がして、アイナは二人の様子を息を殺して見守った。
「蒼龍アレストロンよ、我、ロスラーン・レイ・アシュランを主と定め我のためにその力を使うことを許す。古の契約に基づき我が魔力をそなたに与えん」
男の名はレイ、そして蒼い髪の男はアレストロンというらしい。かざした手のひらから溢れ出した白い光が、跪いたアレストロンの全身を包み込んでいった。
(えっ、手から光が……さっきハクが変身した時と同じ、眩しい光だわ)
これが神殿などで行われていたのだとしたら、実に厳かで神秘的な光景だっただろう。二人を包む光は月よりも明るく草原を照らしている。誰かに見られたら騒ぎになるのでは、とアイナは一瞬心配になったが、こんな町外れにわざわざ来る人はいないと思い直した。
しばらくして光がゆっくりと消えていくと、レイはくるりとアイナのほうを振り向いて屈託のない笑顔になった。
「アイナ、お待たせ。終わったよ。えーっと、話の続きだけど」
さっきまでの真剣な顔つきはどこへやら。まるで世間話を始めるような気楽な様子で話しかけてくる。
「ちょ、ちょっと待って! 急に話を戻されても頭がついていかないよ。手から光が出たり、王の末裔とか言ったり、それに犬や龍から人間に変身しちゃうなんて、訳わかんない。
いったい、どっちがあなたたちの本当の姿なの?」
「ごめん、混乱させたね。じゃあ、アイナ」
レイはドサッと胡座をかいて地面に座り、ここ座って、と自分の隣をポンポンと叩いた。
「話が長くなるからアレスも座れ」
アレスと呼ばれたのが嬉しいのか、アレストロンは口元を緩めてコクンと頷き、アイナとレイに向かい合うように座る。
レイはアイナの顔を見てニコッと笑い、それから話し始めた。
「犬の姿になる前、私はアルトゥーラ王国の王子だった」
「ええっ王子? ハクは、あの、アルトゥーラの王子様なの?」
「ああ。クーデターが起こったあの年、長く病を患っていた父のために、国民が大きな祭りを催してくれた。常に民のことを考えて政治を行っていた父を、国民は慕ってくれていたんだ」
五年前、子犬のハクを拾ったあの祭りのことだ。
「父も民の気持ちを嬉しく思い、最終日の花火は自分の目で見たいと言ってバルコニーに出た。その時、庭園に潜んでいた敵に矢を撃たれたんだ」
淡々と話しているレイ。だけどその一見穏やかな顔の内側には燃えるような怒りを秘めている。アイナにはそう思えた。
「その矢を合図に、部屋に敵がなだれ込んできた。私は父を守ろうと剣を取ったが、所詮十三歳の子供。あっさり剣を叩き落とされ、腕を斬りつけられた。
そしてそのままとどめを刺されそうになった瞬間――」
レイは言葉を切り、ぎりりと唇を噛みしめた。
「父が、最後の魔力を振り絞って私を城外に飛ばしたのだ。追手に見つからぬよう、犬の姿に変えて」
「じゃあ、あの時は……」
「光の玉となって窓から弾き飛ばされ、そのまま私の身体は空に向かって飛んで行き、街の中にドサリと落ちた。
落ちた衝撃と傷の痛みで意識が朦朧とする中、必死に街を彷徨っていたが、力尽き動けなくなってしまった。
そんな私を助けてくれたのがアイナ、君だ」
そう言って優しく微笑むレイ。アイナの脳裏には、あの夜うずくまっていたハクの姿がよみがえっていた。血で汚れ、震えて、全身を固くこわばらせていた姿を。
「アイナが看病してくれたおかげで、傷は程なく癒えた。しかし私にはまだ魔力が無く、父のかけた術を解くことができなかった。だから今まで犬の姿で過ごしていたんだ。
魔力が発現するのは十八歳を迎えて最初の満月の夜。その日が来るのをこの五年間、ずっと待ち続けていた」
レイは手の平を上に向けてからぐっと拳を握る。力が満ちた喜びを噛みしめるように。
「私も、この日を待っておりました。レイ殿下の魔力がついに発現なされたのを遠いアルトゥーラで感じ、満月の導くままにここへ飛んできたのです」
アレスが静かに話し始めた。落ち着いた優しい笑みを浮かべながら。
「アイナ様、私は蒼龍アレストロンと申します。古代よりアルトゥーラの王に仕え、国の地脈・水脈を護ってきました。魔力が無いと動くことができない私は、水を護る代わりに魔力を分けてもらう契約を王と結んでいたのです。
しかし、クーデターにより前王が亡くなってからというもの、私はすっかり力が弱まってしまいました。そのためアルトゥーラはひどい干ばつや地震に見舞われ続け、貧しい国になってしまったのです」
「ええっ、あのアルトゥーラが? あんなに活気のある国だったのに」
あの時のアルトゥーラは市場に食べ物は溢れ、人々はよく働き、各国からの往来もたくさんあった。なんて豊かな国だろうと、アイナたちはアルトゥーラの民を羨んだものだ。
「エマーソン将軍率いる軍がクーデターを起こしてからというもの、人々は暴力で抑えつけられ、税金も上がりました。さらに、繰り返す自然災害により備蓄していた食物も底をつき始め、一部の権力者以外は三食をまともにとることもできません」
「ひどい……。いつだって弱い人が犠牲になるのね」
アイナたちが旅してきた中で、豊かで幸せな国は多くない。ほとんどが上から虐げられ厳しい暮らしを強いられている。そんな人たちのひと時の楽しみになればと、トーヤ一座は各地を回っているのだ。
「国民の不満は頂点に達しています。このままだと各地で暴動が起こるでしょう。それを抑えるはずの軍隊も上層部以外は生活もままならず、前王の時代のほうが良かったという声が上がっています」
「そうか。民衆と下級兵士は味方につけられそうだな」
「はい。国民の間では、いつか王子が戻ってきて助けてくれるという噂も出てきております。亡骸が見つかっていないため、そこに希望を見出しているのです」
「よし、すぐにでもアルトゥーラへ戻ろう」
険しい顔つきでそう言ったあと、レイは表情を和らげアイナに微笑んだ。
「アイナ」
美しい青い瞳で見つめられ、アイナは思わず背筋を伸ばす。そうせずにはいられなかった。
「今まで本当にありがとう。アイナとの五年は楽しいことばかりだった。あちこちを旅して、いろんな人と触れ合って、市井の人々の生活を知ることもできた。
寂しがり屋のアイナと、もう一緒にいてあげられないのが辛いけど……」
(ハクは、行ってしまうんだ。アルトゥーラを豊かな国に戻すために)
これまでの暮らしを思い出してアイナは涙ぐんだ。毎日一緒に遊んで、夜は同じベッドで寄り添って眠って、いろんな話をしてきた大切な友達。
もちろん、これからもずっとずっと一緒にいたかったけど。
「大丈夫だよ、ハク。私だってもう十歳の子供じゃないもの。ハクの行く道を応援するよ」
レイはアイナの手を両手でギュッと包み込んだ。犬のハクとは違う、大きな手。
「ありがとう、アイナ」
そのまま、レイはしばらくアイナの顔を見つめていた。アイナはその視線から目を逸らすことができなかった。
(さっきまで犬だったハクなのに……こっちが本当の姿なんだ。あまりに素敵過ぎて見つめられるとドキドキしてしまう。心臓の音がハクに聞こえちゃいそう)
「……では殿下、参りましょうか」
アレスが促すとレイはアイナの手をそっと離して立ち上がった。
「そうだ、アイナ。この服、このまま貰っていっていいかな」
「もちろん! でも、そんな村人の衣装で大丈夫?」
「大丈夫。見ていて」
レイが呪文を唱えると、着ていた衣装があっという間に違う服に変化した。
粗末なシャツは金の刺繍が施された黒の上着に、だぶだぶのパンツはすっきりとしたシルエットの白いパンツに変わった。サンダルも素敵なブーツになり、王族と言っても全くおかしくない。
もちろん、彼の持つもともとの気品や美しさがあってこそだろうけれど。
「わあ。あの衣装がこんなに変わるなんて。すごい……」
「それから、これをアイナに」
そう言うと足元に咲いていた薄い黄色の花を二輪手折って髪飾りに変化させ、アイナの鳶色の髪にそっと挿した。
「こうすればいつまでも枯れないからね。私のことを覚えていて欲しい」
芝居以外で髪飾りをつけたことのなかったアイナは、初めての、しかもハクからの贈り物に心を躍らせた。手で触れてみると、硬くなって花びらの形もそのまま保たれている。
「ありがとう……絶対に忘れないよ。ハク、どうか元気で……アルトゥーラを元の豊かな国に戻してね」
「ありがとう、アイナ」
その間にアレスは再び蒼い龍の姿に変化した。レイがその背中に跨ると、アレスがふわりと地面から浮き上がった。そしてアイナの目の高さまで浮かぶとそこで一旦動きを止めた。
(……本当にもう、お別れなんだ)
必死で涙をこらえているアイナに、レイはウインクしながらこんなことを言う。
「最後に謝っておくね、アイナ。お風呂もずっと一緒に入っちゃってたこと」
「えっ?」
(……そうだ、私ずっとハクと一緒にお風呂に入って、体を洗ってあげてた……つまり、私も全部見られてるってこと……だよね⁈)
アイナは急に恥ずかしくなり、顔を真っ赤にして叫んだ。
「ハ、ハクの馬鹿っ! なんでそんなこと今思い出させるのよっ!」
レイは笑いながら、手を伸ばしてアイナの頭を撫でる。その悪戯っ子のような笑顔にハクの面影を感じ、アイナも嬉しくなって笑った。
「やっぱり泣き顔より笑っているほうがいい。アイナ、またいつか会える日を楽しみにしているよ」
そしてアレスは高度を上げ、遠い空に向かって飛び立った。月明かりに照らされた美しい蒼い龍と銀色の髪の王子様。夢のように美しい二人はあっという間に遠ざかり、大きな月に映った影はどんどん小さくなって、やがて見えなくなった。
二人の姿が消えてもなお、アイナはじっと立ち尽くして遠くの空を見つめていた。