1 銀の犬と蒼い龍
「みんな、よく頑張ってくれたな。今回も怪我無く終わったし、客の入りも上々だった。さあ、今夜は心置きなく飲んで騒いでくれ!」
金色の酒がなみなみと注がれた杯を高く掲げたトーヤの言葉で、一座の宴が賑やかに始まった。この街での公演も今日が最終日。明日のことなど考えずにたらふく食べ、酒を流し込み、酔いが回ると歌って踊って……。いつもの打ち上げの光景だ。
「ハク、おいで」
ご馳走を食べてすっかり満腹になったアイナは、足下で大人しく寝そべっている愛犬ハクに声をかけ、宴会の輪をそっと抜け出して外の空気を吸いに出た。子供だからお酒なんて飲めないし、酔っ払った大人の相手もそろそろ飽きてきたのだ。
「満月だねぇ、ハク。すごく明るいから夜でもお散歩できるね」
澄み渡った月の清らかな光が辺りを照らしていた。熱気の籠った宴会場から出てきた体に、涼しい風が心地よい。
町の外れにポツンと建っている宿から少し歩くと広い草原に出る。この町に来てから、ハクを散歩させるために毎日ここを歩いていた。だけど、それも今日で最後だ。
「走るよ、ハク」
アイナが声を掛けると、ハクは尻尾を振りながら喜んでついてきた。珍しい銀白色の毛を持つハクが飛び跳ねると、月明かりでキラキラと輝いてとても綺麗だ。
ひとしきり走り回ったあと、アイナは草の上にどさっと寝転がって空を見上げた。
「ああ、お腹いっぱいで走ったからちょっと苦しいや」
笑いながら呼吸を整える。ハクも走るのをやめてアイナの側に寄り添ってお座りをした。パタパタ動く尻尾のふわふわした毛がくすぐったい。
アイナは十五歳。鳶色の豊かな髪を子供らしく高い位置で束ね、大きなグリーンの瞳は春の若草を思わせた。手足は長く細く、薄い身体付きは未だ少年のようであった。
生まれた時から父・トーヤが座長を務める旅芸人一座と共に、諸国を旅して回っている。町から町へ移動して行く生活は気ままで楽しいが、同じ年頃の友達がいないことだけが少し寂しかった。
「でもね、」
アイナはハクのモフモフした銀白色の背を優しく撫でながら語りかける。
「お前がいてくれてホントに良かった。ハクに出会ってから、そんな寂しさも無くなったもの」
ハクはアイナに顔を向け青いつぶらな瞳でじっと見つめたかと思うと、急に頬をペロペロと舐めてきた。もう、やめてよ、といいながらアイナは笑顔でされるがままになっていた。
寂しいときはいつでもこうやって慰めてくれるハク。アイナにとってかけがえのない、大切な友達だ。
「そういえば、次の町へ行く途中でアルトゥーラ王国の近くを通るんだよ。お前の故郷。懐かしい?」
――ハクとの出会いは五年前。アルトゥーラ王国の祭りに呼ばれて、アイナたちは公演のために一週間滞在していた。
アルトゥーラ王国は大きくて豊かな国で、催される祭りもとても盛大だった。様々な国から集まった人で広場は溢れかえっていたし、その観光客目当ての出店や屋台がたくさん並んでいた。あちこちで肉や魚を焼く美味しそうな匂いがしていて、空き時間には気ままに食べ歩きをして楽しんだ。
その華やかな祭りの最終日、フィナーレの花火が上がると同時に王宮内でクーデターが起こったのだ。
遠くに見える王宮で火の手が上がり、街ではパニックを起こした人々が右へ左へ逃げまどっていた。いったい何が起こっているのか、誰にもわからない。どこへ逃げればいいのかも。
その点トーヤは危険を察知するのが早かった。一座の全員にすぐに荷物を纏めさせ、国境が封鎖される前にこの国を出ることにしたのだ。
アイナが慌てて荷造りをして馬車に乗り込もうとした時、白いものが道の端っこにうずくまっているのが目に入った。目を凝らしてよく見ると、前足にひどい怪我をして血を流している子犬だった。このままでは死んでしまう、と咄嗟に体が動いた。逃げようと急いで行き交う人々をすり抜けて、アイナは子犬のところへ駆け寄った。
「大丈夫? 今、助けてあげるからね」
ハアハアと舌を出して苦しそうな子犬をそっと抱き上げて馬車の荷台に乗り、薬箱を取り出して応急処置を施す。清潔な布にくるんで抱っこしてやると、子犬はようやく安心したように目を閉じた。
「無事国境を越えたよ。みんな、もう大丈夫よ」
御者台にいた母、エマが後ろの荷台を覗きこんで言った。
「ところでアイナ。その犬、なんとか落ち着いたみたいだね」
「うん。このまま元気になってくれたらいいな。ねえ母さん、この子、飼ってもいいかな」
「勝手に連れてきて今さら何言ってんの。その代わり、ちゃんと自分で世話するのよ」
「もちろん! ありがとう!」
アイナは犬の頭を撫でながら、語りかけた。
「お前の名前、何にしようかな……。白いから、シロにしようかな? それじゃ、ありきたりかなあ。そうだ、この前訪れた国は白をハクって言ってた。うん、ハクにしよう。よろしくね、ハク」
それから五年、アイナとハクはいつも一緒に過ごしてきた。ご飯の時も寝る時も側にいる、たったひとりの親友になったのだ。
「これからもずーっと一緒だよ」
そう言っていつものようにハクに抱きついて頬ずりをした、その時。
「――時は満ちた」
どこからか声が聞こえてきた。聞いたことのない、若い男性の声だ。
「誰?」
立ち上がって後ろを振り返り、辺りを見回したけれど誰もいない。風が草を撫でていく音がするだけだ。
(気のせい……?)
すると突然、足元に伏せていたハクの身体が白く光りはじめた。
「ハク……!」
月よりも眩しいその光に、アイナは瞼を開けていられなかった。目を守るように手をかざし、もう片方の手でハクに手を伸ばす。
「ハク、大丈夫なの? ハク!」
眩しい光が消えたのを感じてそっと目を開けると、ハクはいなくなっていた。そのかわり、目の前には美しい銀色の髪を腰まで伸ばした男が立っている。しかも、何ひとつ身体にまとっていない。男はアイナの顔を見るとパッと顔を輝かせた。
「アイナ!」
嬉しそうにアイナの名前を呼ぶ。
「きゃー! 誰?!」
アイナは慌てて背中を向けて叫んだ。一座の面々と毎日一緒にいて上半身の裸は見慣れているが、さすがに下半身に免疫は無い。だが男はお構いなしにずんずんと近づいてくると、アイナの両肩を掴んでくるりと自分のほうに向け、思いっきり抱きしめてきた。
「アイナ! やっと私からハグできる!」
男は背が高いので、アイナの身体は腕の中にすっぽり収まってしまった。身動きが取れず、ジタバタしながらアイナはさらに叫んだ。
「やだー! 離して変態! なんで、裸で、抱きついてくるのよ!」
男はアイナの叫びを全く意に介さず、ニコニコして髪に頬ずりをしている。
「だってアイナ、いつもこうしてハグしてくれているじゃないか」
だめだ、話が通じない。もしかしてこのまま攫われる? いや最悪殺されるかも? 焦ったアイナは必死にハクを呼び続けた。
「ハク! どこなの? いつもみたいに助けてよ、ハク!」
今までずっと、ハクはアイナを守ってきた。不審者が近づいてくれば唸り声を上げて威嚇し、追い払ってくれる。父さんも母さんも、ハクがいれば安心だと騎士扱いしていたのだ。こんな時、ハクなら男に噛み付いてやっつけてくれるはずなのに。
「アイナ! 私がハクだよ」
「えっ?」
「私は五年前、君に拾ってもらったハクだ。ほら、あの時の傷もここに」
そう言って男は左腕の白く盛り上がった傷痕を見せた。ハクが怪我していたのは左の前足だ。アイナはその傷を見、それから男の顔を見上げた。銀色の髪、くりっとしたブルーアイ……確かにハクの面影はあるけれど。
「魔術で犬の姿になっていたんだ。あの時、怪我をしたまま放っておかれたら死んでいたかもしれない。こうして生きているのもアイナが助けてくれたおかげだ。本当にありがとう」
男はもう一度アイナを抱きしめた。
「アイナ、こんなに小さかったんだな。犬の目で見るとすごく大きく感じていたのに」
「ちょ、ちょっと待って!」
目を閉じてしみじみと語り続ける男の胸をアイナは両腕でぐっと押し戻し、キッと睨みつけた。
「あなたがハクだって主張するのはわかったわ。それならいろいろ聞きたいことあるんだけど、とにかく服を着てもらえない? その姿では話なんてできないよ」
すると男はちょっと困ったように眉を下げた。
「それもそうだな。この格好ではなんの説得力もない」
「――その魔術とやらで、服を作り出すことはできないの?」
「すまない、それはできないんだ。物の形を変えることだったらできるんだけど」
「じゃあ、ちょっと待っていて。衣装の中から何か見繕って持ってくる」
混乱した頭のまま、アイナは宿に向かって走り出した。走りながら、今起こったことを整理してみる。
(魔術って言ってた。そんなの、お話の中だけのことだと思うんだけど、ほんとなのかなあ。でもハクはいなくなっちゃったし、あの人はハクに似ているし……とにかく、父さんに相談してみよう)
宿に戻ってみると、宴会はまだ大いに盛り上がっていた。父さんはかなり酔っぱらっているし、酔いつぶれて寝てしまった人もいる。母さんはそんな人たちの介抱で忙しそうだ。
(酔ってる父さんに説明するの大変だわ。母さんにも迷惑をかけられないし。あの人、悪い人には見えなかったから……私一人でも大丈夫かな)
アイナは誰にも相談せず、とりあえず衣装箱から男の背丈に合いそうなものを引っ張り出して再び外に出た。
さっきよりも白く大きな月が、空のてっぺんで妖しい光を放っている。ハクと歩き慣れた草原の道を戻って行くと、男は腕を組んでじっと空を見上げていた。
「あの、えーと……ハク?」
恐る恐る呼びかけると、男は振り向いて微笑んだ。こうしてまじまじと見ると彼はとても美しかった。スッと通った鼻筋、澄んだ青い瞳、月明かりで白く光る銀色の髪のせいか冴え冴えと冷たい印象を受けるのだが、笑顔は子供のような可愛らしさがあった。こんなに美しい男の人を見たことがない。アイナは、不覚にも胸が高鳴ってしまった。
(見た目がいいからって惑わされちゃダメ。まだこの人がハクだと決まったわけじゃない)
そう思いながらアイナは持ってきた服とサンダルを手渡した。
「これ、たぶんサイズは合うと思うよ」
「ありがとう、アイナ」
男は早速受け取った服を着始めた。アイナが持って来たのは村人役の衣装で、何の飾りも無いシンプルなシャツとパンツである。
「……ねえ、あなたのことなんて呼べばいいの。ハクでいいの?」
「もちろん。アイナにはこれまで通りハクと呼ばれたい」
服を着終えた男は自分の身体を見回してしみじみと言った。
「五年振りだな、服を着るのは。なんだか窮屈な気がする」
「小さかった? 大丈夫と思ったんだけど」
「いや、サイズはちょうどいい。ただ、今までずっと裸だったからね。変な感じなんだ」
「あ、なるほど……」
そういえば犬って何も着ていない。アイナは可笑しくなってクスクスと笑った。
「やっと笑った」
男はかがんでアイナの顔を覗き込み、笑顔を見せた。
「尻尾を振ったり頬を舐めたりできないと、アイナを笑わせるのもなかなか難しいものだな」
こんな風に男の人に見つめられるのも初めてで、アイナは恥ずかしくなって目をそらした。
「……あなたは本当にハクなの?」
「そうだよ。その証拠に、アイナが剣舞リーダーのカイに憧れてたのも、カイに恋人ができて泣いてたのも知ってる」
「なっ……なんで知ってるのっ⁈ それ、ハクにしか話してないのにっ」
「だから、私がハクなんだって」
そう言って笑う男をアイナはじっと見つめた。誰にも話していない初恋を知ってるなんて、やっぱりこの人はハク?
「ねえ、それじゃあハクは……犬になる前は何をしていたの?」
「うん、それは……」
答えようとしたその時、男は何かに気付いた様子で月明かりの空を見上げた。
「……アイナ、ちょっと待って。迎えが来たみたいだ」
指差すほうを見ると、遠くから一筋の白い光がこちらへ向かっている。
「あれ、何……? 流れ星?」
その光はどんどんこちらへ近づいて来る。やがて光の中から蒼い龍が姿を現した。
「えっ? 龍なんて、伝説の生き物だと……」
ふいに一陣の風が巻き起こり、視界が奪われた。
「きゃあっ」
アイナは腕で顔を覆って風を防いだ。束ねた髪が揺れ、スカートの裾がはためく。だがそれは一瞬のことで、すぐに静けさが戻ってきた。恐る恐る目を開けたアイナの前には、蒼く長い髪に金色の瞳を持つ美しい男が立っていた。足元まである暗い色の貫頭衣に身を包み、腰に銀色のサッシュベルトを締めた男は、いつかどこかで見た神官のように思えた。
(今度は龍が人間に変身するなんて……。もう、何が起きても驚かない気がする……)
アイナは呆然として二人の男たちを見つめていた。