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初めての接客(1)

 奥村家から帰ってきたシュウとクリスは服を着替えて店内の点検をし、開店準備を済ませる。

 といっても、今日が初めてのクリスにとっては何をどうすればいいのかわからないので、シュウが一つひとつ教えながら進めていった。


「なんだか、すごく胸がドキドキするわ。緊張してる……」


 初めて店に立つということもあって、クリスは今までにないくらい緊張していた。

 社交界へのデビューや魔法学園での自己紹介など、好奇の目に晒される機会は何度でもあるのだが、連邦公爵家という後ろ盾があるので自信を持って立ち向かうことができた。

 だが、今のクリスはシュウ以外に頼れる者がおらず、しかも日本での社会生活に慣れていない状況である。可純が書いたマニュアルや基本挨拶を覚えてきたからといって、すぐに実践できるものでもない。


 緊張した顔をしたクリスを見て、シュウはゆっくりと柔らかい声で話しかける。


「開店と同時に客が入ってくることはないし、気楽にしていればいいよ。

 もしそんな客がいても、暖簾を掛けるのはオレだから最初の接客はオレがすることになるから」


 シュウの店がある裏なんばという地域は道具屋筋にある調理器具や食器などを扱う店が空いた倉庫を貸したりすることで急速に発展してきたエリアである。また、南側には日本橋の電器店街があり、西はデパートと南海電鉄に挟まれている。シュウの店が水曜日を定休にしているのは、これらデパートや電器店街が水曜定休の店が多かったからだ。

 だが、電器店街やデパートも店舗なので一七時に閉店するわけではないので、客としてシュウの店に訪れるのは一九時を過ぎてからになる。だから、一七時に開店したところで目当ての常連客はやって来ない。

 この時間帯にやってくる客のほとんどが一見さんであり、観光客や流行りの街に遊びに来た人たちだ。

 ただし、例外はある。


「とにかく、最初は接客といっても料理を出して、皿を下げるくらいでいいから。気にしなくていいよ」


 そんな話をしている間に開店時刻は迫ってきており、シュウはカウンター下にある有線放送の受信機に電源を入れる。

 すると、会話を邪魔しない楽器のみの演奏に、控えめな音量でピアノの音が流れ、追いかけるようにソプラノ・サックスの音色が聞こてくる。軽快で流れるようなサックスの音が続くとジャズドラム、ベースの音が参加して小さくリズムを刻む。


 緊張感を解すため、クリスはその軽快でなんだかワクワクするような音楽に耳を傾け、目を瞑って深呼吸をする。

 まだ開店時間には少し早いが、シュウは店内に掛けてあった暖簾を手に取ると引き戸を開いた。


「ガララッ……」


 クリスがこの店にやってきて二日経ち、今日は五月一日である。

 外国人観光客の数もそれなりに見られる場所だが、ゴールデンウィークということもあるし連休を楽しむ会社員や学生たちも多い。この日が金曜日なので親子連れが少ないのがシュウにとっては嬉しいところだった。

 そして、店の近くの通りを歩く人達はいるが、店の前に行列ができているなどということはなく、シュウにとっては至って平和な日常だ。


 紺色に染まった無地の布に竹の棒を挿した暖簾を軒下のフックに掛けると、シュウは何事もなかったかのように店の中に戻る。

 不安そうに店内で待っていたクリスはシュウが独りで戻ってきたので、安心したのかほっと息を吐いた。


「な? 開店直後なんてどこの店もこんなもんさ。斜め前のディエトロは別格だけどな……」

「ディエトロって?」

「裏田さんの店。千怜さんや菜乃花がいるところだよ。この辺りでは結構な有名店だからね」


 昨夜、二軒目に立ち寄ったイタリア料理店だ。名字から一文字取って「裏」を意味する「トラットリア・ディエトロ」という名にしたという。


「そうなんだ。じゃ、本当にしばらくはお客さんが来ないと思っていていいのね?」

「ああ、大丈夫だろう。ところで、メニューなんだが……」


 シュウが今日のメニューを見せる。

 居酒屋メニューとは異なり、その日の仕入れによって中身が変わるシステムなので、和紙にアラビア数字で番号を書き、続けて料理名が書かれている。


「話すことはできても、読むことができるのは数字だけだろ?

 注文は番号で言ってもらえるようにしなきゃな」

「なんて言えばいいの?」


 簡単に数字で言ってもらうよう伝えるように言われても、接客が初めてのクリスには言葉遣いに悩んでしまう。

 シュウとしては、ここで丁寧な日本語で「恐れ入りますが」などを最初につけることを教えてもいいのだが、店は高級店ではない。無理のない言葉で話して貰えればそれでいいのだ。


「そうだな……料理の前に書いてある番号で言っていただけますか――でどうだ?」


 クリスは俯くと、シュウが言ったそのままの言葉をぶつぶつと呟く。

 丸暗記しようとしているのがひと目で判ってしまう。


「いや、そのまま覚えるんじゃなくてさ。似た感じの言葉にすればいいんだ。

 じゃないと不自然にしか話せなくなるだろう?」

「う……うん、そうなんだけど……」


 育ちというのは怖いものだ。

 旧王国の王家であり、現連邦侯爵家となると平民や他の貴族に対しても完璧に近い対応が求められる。それを幼い頃から叩き込まれてきたクリスはそこまで求められていない状況にあっても、つい完璧に近い自分であろうとしてしまう。

 だから緊張した顔をしてしまうし、自分の中で必要のないプレッシャーを膨らましてしまった。


「じゃぁ、最初のお客さんは二人で接客しよう。だったら安心だろ?」


 すぐに客が来るわけでもないので心に余裕ができたクリスは視線を宙に泳がせると、すぐに返事をした。


「そうね。だったら安心だわ」

「じゃ、そういうことでオレは追加の仕込みしてるから。お客さんが来たら大きな声で「いらっしゃいませ」と言ってくれればいい。あとはなんとかする」


 実はその「いらっしゃいませ」を言うのに緊張しているのだが、シュウもそこまでは気が付かない。

 声が裏返らないかとか、噛んだりしないかとか、店の外にまで聞こえるほどの大きな声で言ってしまわないかとか、そういう失敗とも言えない失敗をクリスは心配しているのだ。


「う、うん……」


 クリスは自分が最初に声がけしないといけないと思うと、また緊張で表情を強張らせて俯いた。







 開店から三〇分経っても客が来ることはない。店がある路地やその周辺では人が少しずつ増えてくるが、家路を急ぐ人がほとんどだ。周辺に中小企業が多いので、この時間帯になると業務を終える会社も多い。

 仕事帰りにちょっと一杯という客も出てくる時間帯に突入したと言えるのだが、多くは地下街などにある立ち飲み屋に流れてしまう。


 ただ、この間ずっと立ったまま緊張を維持するのは難しく、クリスも表情に疲れが見えるようになってきた。


 しかし、そんなときに限って客が入ってくるものだ。


「ガララッ……」


 引き戸が開く音がすると、気を抜いていたクリスは跳ね上がるように背筋を伸ばし、慌てて声を出した。


「い、いらっしゃいませ!」


 少し噛んでしまったことでクリスの顔には焦りの色が浮き出てくるが、そこにシュウが入ってくる。


「いらっしゃい。ああ、長原さん――毎度です」

「生ひとつ。あと、今日のお勧めは?」


 長原と呼ばれた男は常連のようで、ひとり店の中に進むとクリスに気がついた。


「おおっ、すごい別嬪さんやないか。どないしたんや、こんな店で……」

「こんな店で悪かったですね」


 長原は目をまあるくして、大きな声で驚きを表現した。

 驚いて暫く固まったように動かなくなった長原の言葉に、シュウはわざと不愉快そうな顔をして文句を言った。


初稿:2020年4月8日


いつもお読みいただきありがとうございます。

前回投稿時から新たにブックマークいただきました。

応援、ブックマーク共にとても励みになります。

本当にありがとうございます。


<変更>

筆者都合により、4月12日の投稿ができなくなりました。

申し訳ございません。


次回更新は 2020年4月15日 12:00 を予定しています。

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