孤独死
ずっとひとりで生きてきた。
だが好きこのんでひとりでいたわけじゃない。
若い頃には交際していた女性もいたし、しようとさえ思えば、結婚できるチャンスだって何度かあった。
ただ能動的に動かなかっただけだ。
結局なんとなく結婚する機会を逃した私は、家庭を持たずに漫然と日々を送る。
そうこうしている間に両親が他界し、兄弟のいない私は一人になった。
◇
仕事があるうちはまだ良かった。
長い会社勤めにおいて、人間関係は山あり谷ありではあったものの総じて悪くはなかったし、金曜の夜には一緒に飲みにいく同僚だっていた。
花金ってやつだ。
周りには私と同じような独身者も多かったから、日常において変な疎外感も覚えず、独り身をターゲットにしたサービスが充実した昨今、生活に不自由を感じることもあまりなかった。
むしろ妻帯者に比べて自由な我が身に、優越感すら感じていたくらいだ。
そうしてやがて会社を定年退職した私は、ああこれでようやく職という楔からも解き放たれ、完全に悠悠自適な年金生活を楽しめるようになったのだ、なんて考えたほどである。
◇
退職後、一年ほどは思った通り解放的な日々を過ごせた。
いままで行ってみたくても、暇がなくて断念していた名湯秘湯や、風光明媚な景勝地なんかに足を運んだ。
訪れた先では、よく和気藹々とはしゃぐ家族連れ観光客とすれ違った。
そんなとき自分には旅の道連れがいないことを僅かに寂しく思ったりもしたけれども、それに勝る充実感も感じていた。
割とコミュニケーション能力は高いほうだと自認している私は、旅先で出会った同じくひとり旅の年配者に声を掛け、一緒に食事を摂ったりもした。
とはいっても定年退職した身ではある。
湯水のようにお金を使えるわけではないし、体力的にも旅行三昧というのはキツイものがある。
少しずつ旅に出かける頻度は減っていった。
◇
その後の一年ほどは、旅行には滅多にいかなくなったものの、近所で催されている老人囲碁サークルに顔を出すようになって、それなりに楽しかった覚えがある。
囲碁を打ちながら、老人たちは様々な話題に花を咲かせる。
だがそんな話題は決まっていつも、孫自慢だったり、娘婿への愚痴だったりの、詰まるところ、家庭の話に落ち着くのだ。
独り身の私は、そういう会話が始まったとき、愛想笑いを浮かべて聞き流すのが常だった。
最初のうちは本心から笑って頷けていた話も、繰り返し繰り返し聞かされるうちに、耳を傾けることが苦痛でしかなくなった。
そうして私の足は、サークルから自然と遠のいた。
◇
次の一年は、自宅に篭って過ごした。
外出するのも面倒になって、ただぼうっとテレビやラジオの音を聞き流しながら、日がな一日中、座って過ごした。
この頃私は、季節の変わり目に引いた風邪を拗らせ、長引かせていた。
ゴホゴホとした咳が止まらない。
肺がしくしくと痛む。
だが病院にいくのも体力がいる。
じっとしていれば、そのうち体調も元に戻るだろうと、そう考えた私は、辛いときは床に丸まって我慢した。
◇
慢性的に気分が落ち込む。
体の節々も痛むから、動くことは更に減った。
そんな亀のような生活を続けていた私の体は、日に日に弱っていった。
筋力が衰え、横になることが多くなった。
起き上がるのも億劫だ。
この頃の私は、万年床になって湿った布団に身を横たえ、じいっと天井を見つめている時間が長くなっていた。
咳がなかなか止まない。
体調は戻るどころか、日増しに悪くなる一方だ。
ある日、手で口を覆って咳をしたら、服の袖口に血がついた。
なんだか吐いた血が、自分とは無関係な遠い出来事のように思える。
救急車を呼んだほうがいいのかもしれない。
だがそうして生きながらえたとして、何になる。
考えがまとまらない……。
結局私は、虚ろな目をして、虚空を見つめるだけだった。
◇
いつまで呆けていただろう。
敷きっぱなしの布団に相変わらずまた横になりながら、ある時ふと、自らの人生を振り返った。
どこかで大きな失敗をしたわけではない。
犯罪歴もないし、定年退職するまで普通に働いて社会に貢献してきた。
ただ真っ当に暮らしてきただけだ。
なのに……。
動かすのも億劫になってしまった両腕を、なんとかして持ち上げた。
仰向けに寝転びながら、眼前に両の手のひらを広げる。
……そこには何もなかった。
感情の蓋が開く。
胸の奥に押し込めて、目をそらし続けてきた想いが溢れ出した。
寂しい。
途方もなく寂しい。
寂しくて、寂しくて、堪らない。
知らぬ間に涙が零れ落ちていた。
自分でもどうしてこんなに泣いているのか、わからない。
ただ無性に哀しかった。
本当にそれだけだというのに、頬を伝う雫はさめざめと流れ、いつまで経っても止む気配がない。
溢れ続ける涙を拭うため、吐血による血で赤黒く変色してしまった袖を、持ち上げようとした。
けれども腕が重くて持ち上がらない。
おかしい。
動かないのは腕だけではなく、身体中だった。
肺が痛む。
しくしくと痛む。
けれどもそんな痛みが気にもならないくらい、私を苛んでくるものがあった。
寂寥感とでも言おうか。
体の痛みよりも何よりも、ずっと心が寒い。
なにもない天井を見つめる。
やがて私は、瞼を開けていることすら億劫になっていく。
涙でにじむ視界が、靄でもかかったように薄ぼんやりと曇り始めた。
ようやく自覚した。
これは取るに足らなかった私の生の、終わりの刻だ。
脳裏に記憶の走馬灯が浮かぶ。
赤子の自分が父母の無償の愛に包まれ、大勢の祝福と笑顔に見守られながらこの世に生まれ落ちて、数十年。
振り返れば泡沫のような人生だった。
いまその無価値だった生が、はじまりの刻とは異なり誰にも看取られずに終わろうとしている。
意外なことに、死ぬことはさほど恐ろしくなかった。
なぜなら恐怖を上回る寂しさが、胸の内を暗い色に染め上げていたからだ。
老いた私は、陸に打ち上げられた魚のように、唇をぱくぱくさせた。
一人は嫌だ。
こんな静かで寒々しい終わり方は嫌だ。
だがもう、すべてが遅い。
音も温度も消えた孤独な世界に、真っ暗な幕が降りていく。
「…………、……誰……か……」
ひりついた喉から漏れ出した嗄れた言葉だけが、死にゆく私の耳にこびりついた垢のように、消えずに残った――
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