猫の記憶
自分から見て、邪魔だな、と思う存在は、いつどんな時でも現れると思います。
そんな時、『どけよ』とか『消えろ』とか、口には出さなくても、心の中で言ってしまう。
誰でもあると思います。
だけど、それはあくまでも『自分から見て』邪魔なだけ。
その時は腹が立っていて気が付かないけど、後で冷静になったらわかります。
違う方向から見たら、それは誰かから誰かへの愛だと気づきます。
そうすれば、無駄な争いやいざこざも生まれません。
怒りに流されないで、違う方向から見て見よう!
そんな思いを猫にのせて、物語にしました。
その家には、1匹の猫がいた。メス。たぶん5才。名前はきなこ。茶トラなので、その色合いから、きなこと名付けられた。
飼い主は若い夫婦。若いと言っても、30代半ば。タケルは35才。ミカ38才。20代で結婚して、現在に至る。
きなこは元野良だ。その出会いはドラマチックだった。
5年前。タケル30才。ミカが33才。天気のいい日曜日。2人で買い物に行った、その帰りだった。川沿いの道を歩いていると、低空飛行しているカラスを見た。口ばしに何かをくわえていた。
「……あれ、子猫じゃない?」
気づいたのは、ミカだった。カラスは、子猫をくわえて飛んでいたのだ。遊んでいるという風ではなく、エサを確保した、という真剣さがあった。カラスは、まだ数匹いて、ある一定の上空をぐるぐると旋回していた。
最初に走ったのはミカだった。
カラスが定位置で飛んでいるということは、まだ子猫がいるという可能性が高い。
ミカはそう素早く判断し、カラスがいる方向へダッシュした。タケルも続く。
カラスが飛んでいる真下は、草むらだった。高さ30㎝くらいの雑草が生い茂っている。
ミカたちは見渡したが、猫らしき姿は見当たらなかった。
草で見えないのかもしれないと、ミカは草むらの中に分け入った。と、その時。
カラスが、ミカの前方3mほど先にきれいに下降し草むらに消えると、すぐに出てきて空へ舞い上がった。その口ばしには、子猫をくわえていた。ミカとタケルは、茫然と見送るしかなかった。上空には、まだ1匹のカラスが飛んでいた。まだ子猫がいる。ミカは確信した。カラスはミカたちの様子をうかがいながら、カーカーと鳴く。明らかに、『おい、てめえら、邪魔すんじゃねえぞ』と怒鳴りつけていた。ミカは、3m先を目指し必死に走った。
なんとかカラスが下降するより前に、辿り着くことができた。そこには、1匹の茶トラの子猫がいた。きょうだいは連れ去られ、最後に残ったたった1匹だった。子猫は、生きるためにミーミーと叫んでいた。ミカは抱きあげようと手を伸ばし、触れる寸前! カラスが急降下してきた。子猫に向かって、一直線に狙いを定めている。
「ミカ、危ない!」
カラスに気づいたタケルが叫んだ。しかしミカは、なんの迷いもなく真っすぐ子猫に手を伸ばした。目の前の命を救うため、ひるむ気持ちはどこかへ消え去っていた。
しかし、カラスの方が一瞬早かった。
カラスは子猫の首をくちばしで挟んだ。それを見たミカは、咄嗟に子猫の胴体をつかみ、くちばしからするりと抜いた。そして、胸の中に子猫を抱え込み、カラスを睨みつけた。カラスはそのまま上空へ上がると、悔しそうな鳴き声を上げ、旋回した。また襲ってやるという怒りを感じた。ミカは見上げて言った。
「ごめん! あんたもいろいろ大変だと思うけど、この子だけはあきらめて!!」
カラスはしばらくぐるぐると旋回した後、飛び去って行った。話がわかるカラスだった。
ミカは腕の中の子猫を見た。か弱い声でミーミー鳴いていた。
「もう大丈夫だからね」
と微笑んで言うミカの顔を、子猫はじっと見つめた。
子猫の首の辺りから血が出ていたので、急いで動物病院に連れて行った。幸い大した傷ではなかった。2人は子猫を連れて帰り、そのまま飼うことにした。
こうして、子猫は『きなこ』となって、ミカとタケルの家族になった。
子供がいなかったせいか、2人とも、きなこを溺愛した。きなこを中心に幸せな時間を過ごした。3ヶ月ほど過ぎた頃、きなこはぼんやりと思った。
『ミカたちは、なぜあんなにバタバタと忙しい毎日を過ごしているのだろう』と。
ミカたちは、朝起きて、どこかへ出かけ、夜帰ってきたら、疲れ果てた顔をしている。
『わたしの方が、ずいぶんいい生活をしている。ずっと家に居られて、寝て食べてクソして、そのクソの処理さえしてくれる。何もしてないのに、こんな快適に生きられているんだから、ミカたちより偉いなのかもしれない……』
と、毛づくろいをしながら、きなこはぼんやりと考える。きなこは、ミカに助けられた時のことを覚えていない。でも時々、ミカにこう言われる。
「きなこ~。きなこは、きょうだいの分まで長生きして、幸せにならなきゃダメよ~」
それを聞くと、いつもちょっと腹が立つ。
『長生きをする? 当たり前でしょ。わたしがこの世界の中心なんだから』
きなこはそう思っていた。
少しして、きなこは手術することになった。避妊手術である。
手術の後。傷口を舐めないように、首にエリザベスカラーをつけられているせいもあって、きなこはじっとしていた。きなこは怒っていた。裏切られたような気持ちだった。
『勝手に知らない場所に連れて行かれて、何やら体をいじられるなんて、信じられない!』
ぶすっとしているきなこを(とはいっても、表情はいつもと同じなのだが)、ミカがそっと抱き上げて、ひざの上に乗せた。
「きなちゃん、ごめんね。子供、産めなくなっちゃったね」
そう言って、ミカはきなこの背中を撫でた。ミカはそのまま、長い時間、きなこを撫でた。ミカは自分のことを考えていた。結婚して5年も経つのに、子供ができない自分のことを。まだ33才だから、全然大丈夫だと必死に慰めているみじめな気持ちを……。そしてふと、思い浮かんでしまった言葉を発した。
「ねえ、きなちゃん。産みたくても産めない私と、強制的に産めなくさせられたきなちゃんと、どっちが不幸なんだろうね?」
そんな答えない質問をして、ミカはフッと空しく笑った。どっちも不幸だな、と思った。
そんなミカを、きなこは見上げた。
また日常が戻った。
きなこは、食べて、寝て、食べて、クソして、また食べて、寝る、を繰り返し、夫婦は、仕事し、食事し、就寝し、たまにケンカやセックスをした。
きなこは、ミカが言っていた言葉を思い返していた。どうやら、わたしは子供が産めなくなったらしい。別に悲しい気持ちはなかった。あの時、どうしてミカがあんなに悲しい顔をしていたのかもよくわからなかった。とにかくきなこは今の生活に満足していた。ミカとタケルの愛を一身に浴び、女王様でい続けている日々を満喫していた。
そして5年が経った。
ミカが赤ちゃんを産んだ。結婚して10年目に、待望の赤ちゃんを産むことができたのだった。
きなこは、ここんとこ、ミカが異常に太ったことには気づいていたが、特に気にしていなかった。しかしミカが家に帰って来ない日が数日あり、戻ってきた時に、得体のしれない生物を連れていた。この生物が来た途端、家の空気が変わった。ミカとタケルの態度も前とは違う。瞬時にきなこは感じ取っていた。生物が何者であるかを、見極めなければいけないと、きなこは思った。
きなこは、しばらく観察することにした。
謎の生物は、寝てばかりいた。自分で動くことができず、可動域は手足をばたつかせる程度。だけど、ミカたちが色々世話をして、あいつを生かしている。きなこは思った。
『待遇は、わたしとあまり変わらないが、あいつは自らの力で移動することができない。そんな生物など、そのうち消えてなくなるだろう』
きなこは、謎の生物が脅威ではないと結論づけ、放っておくことにした。
しかし、その判断が間違いだったと、後になって気づくことになる……。
動けぬとも、あいつはこの家の中心になりつつあった。ミカもタケルも、新しい生物のご機嫌取りに夢中になっている。以前は自分が浴びていた微笑みを、今はあいつに向けている。
きなこは思った。
『あの微笑みは、わたしのものだ』
どうやって微笑みを取り返せるのか? きなこは決めた。
『あいつをここから追い出すしかない』
きなこは、いろいろなことをしてみた。『シャー』と威嚇してみたり、あいつの耳元で大きな声で泣き散らしてみたり……。しかし、あいつは平気だった。まったく手ごたえがなかった。きなこの存在など、まるで元々ないような態度で、すやすやと眠っているか、起きている時は、キャッキャッと笑って楽しそうに手足をばたつかせていた。すると、ミカたちもつられて笑った。きなこは気づいた。
わたしはもう世界の中心ではないということを……。女王の座から失脚したことを……。
絶望したきなこは、決心した。
『あいつがいなかった、3人の生活に戻る!』
そうすれば、全て元通りだ。世界の真ん中にいることが許されるのは、わたしだけだ。きなこはあることを、実行すると決めた。
チャンスはすぐにやってきた。
赤ちゃんがじゅうたんで眠っていた。寝かしつけていたミカも、隣で完全に眠っていた。タケルは家にはいなかった。ミカは毎晩、赤ちゃんにお乳をあげるために、夜中に何度も起きなければならなかった。だから、横になると、すぐ寝てしまうのだ。
きなこはゆっくりと2人に近づいた。赤ちゃんの横まで来る。気持ちよさそうにすぴすぴと眠っている。きなこはその顔を真上から見下げて言った。
『一生眠ってな』
きなこはくるりと体の向きを変え、赤ちゃんに背を向けると、その顔面に尻を落とした。窒息させるつもりなのである。踏ん張って座るきなこ。その頭の中には、今までの3人の生活がリフレインされていた。ミカとタケルの愛を一身に受けていた幸せな日々。あの生活に戻れることを思い描いていた……。
と、その時。
一本の腕が伸びてきた。そしてそれは、きなこの体目がけて落ちてきた。ミカの腕だった。
起きていたわけではない。寝返りを打った時に、伸ばした腕が偶然、きなこの上に降りかかってきたのだ。きなこは反射的に、はね退いた。
赤ちゃんの顔面から、きなこの尻はなくなったが、代わりにミカの腕が赤ちゃんの口の上にうまいこと乗った。きなこは安堵した。きなこの尻でもミカの腕でも、結果が同じなら満足であった。
が、しかし……。
「すぴーすぴー」
例の気持ちよさそうな寝息が聞こえた。
奇蹟的に、ミカの腕は赤ちゃんの口も鼻も塞ぐことはなく、隙間を開けて乗っていた。
赤ちゃんは、その微かな隙間からすぴすぴと規則正しい呼吸を続けていた。
きなこは愕然とした。そしてまた腹が立った。どうにかしてあいつの息を止められないか?きなこは、前足を使って、ミカの腕を赤ちゃんの顔に密着させようとした。が、なかなかうまくいかない。赤ちゃんは気持ち良さげに眠っている。きなこは焦り、ミカの腕に爪を立てた。
「イタッ……」
ミカが起きてしまった。
「きなちゃん。何してんの?」
と、ミカは爪を立てられた腕を見た。と、そのすぐ下に赤ちゃんの顔があるのを見て、状況をすぐに察し、青ざめた。ミカは急いで、赤ちゃんが呼吸していることを確認すると、心の底から安堵した。そしてはっとしてきなこを見た。きなこは、硬直して座っていた。きなこは自分がしたことがバレたのだと思って、動けなかった。怒られると思った。最悪の場合、捨てられると思った。そんなきなこに、ミカは言った。
「きなちゃん……私を起こしてくれたのね? 赤ちゃんを助けるために、私を起こしてくれたのね?」
ミカはきなこに近づき、きなこを抱き上げると、包み込むように抱きしめた。
「ありがとう。本当にありがとね」
きなこの心はあったかくなった。やっぱりわたしが世界の中心なのだと、安心した。
安心したら、急に眠くなってきた。きなこは、ミカの胸で目を閉じた。まどろみの中で、きなこはさっき、ミカに抱きしめられた時のことを思い出していた。前にも同じぬくもりを感じたことがあったような気がした。
それはあの草むらで、カラスから守ってくれた時のミカのぬくもりだった。
「もう大丈夫だからね」
と言って、微笑んでくれた時に感じた、あのぬくもりだった。だけど、きなこはそれを覚えていなかった。きなこの心の中から恐怖は消え、ミカのぬくもりだけが記憶されていた。
今後、赤ちゃんは人間の時間で成長し、きなこは猫の時間で急速に老いてゆく。
きなこには、そんなことを知る由もない。今はただ眠かった。
これからもっと眠る時間が増えるのだが、そんなこともどうでもいいのだ。
きなこは眠った。ミカの腕の中で、すぴすぴと寝息を立てて。
ミカは眠ったきなこを、赤ちゃんの隣に置いた。並んで眠る赤ちゃんときなこ。すると、きなこのしっぽが動いて、赤ちゃんの顔をペシペシと叩いた。すると、赤ちゃんがそのしっぽをつかんだ。驚くミカ。赤ちゃんときなこはそのまま眠っていた。その光景に、ミカはおもわず微笑んだ。
おわり
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
この物語の猫の行動は完全なるフィクションです。猫はあんな行動は取りません。
まずそのことをお伝えしたいと思います。
でも、冒頭の野良猫がカラスに襲われた話は、事実です。
3匹いたきょうだいの内2匹はカラスに殺され、1匹だけ保護されました。
私は、その猫と一緒に暮らしています。今年で14才になります。
「きょうだいの分まで、長生きしーや」と声をかけると、きょとん顔で見つめられます。
今考えると、カラスだって、自分の子供のために食べ物が必要だっただけ。だから、悪者はいないんだ、と思います。
いろんな視点で見ること。それが悪者を作らない。戦争が起きないようにするシンプルな方法なんだと思います。
毎月4日と18日頃に、短編小説を投稿してますので、また読んでいただけると嬉しいです!!
ありがとうございました!