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真空のなかのドレス  作者: 織野 帆里
四季の外縁
9/45

9.幻想の殻を纏って


 瞠目すべきぼくの姉から連絡が入ったのは、終点駅で降りてすぐのことだった。


「あんた、今どこにいんの?」


 傍若無人なほどに陽気な声が、名乗りもせずいきなりぼくの居場所を聞き出そうとした。ぼくは顔をしかめて音量の大きすぎたスマートフォンを耳から離し、音量を操作してから耳元に戻す。


「……家だけど」


「つまらん嘘を吐くな」と、溜息をひとつ挟んで即座に返される。「どっか街中にいるでしょ。あ、駅かな?」


 回線に入り込む背景音から居場所を察知したらしい。

 感嘆すべき洞察力だが、ぼくにとっては不都合でしかない。姉からやってくる電話がぼくにとって吉報であったことなどほとんどないのだから。


 ぼくは正直に、ホームに掲示されている駅名を読み上げる。

 この県でいちばん栄えている駅だ。県内を走っている大半の電車がこの駅を通る。


「おっ。いいね」


 「何が良いんだよ」と毒づきそうになったが、街中に出て遊んでいるところだと思われたのだろう。おそらく姉にとってこの辺りは、週末に友達などと買い物をするのにちょうどいい遊び場なのだ。

 ぼくはぶっきらぼうに聞こえるようトーンを下げて、電話口に話しかける。


「それで何か、用なの」


 姉とだらだら長電話をする気にはならなかったので、早めに用件を聞き出そうと思った。


「ああ、そう。それね、夏ちゃんがさ」


 彼女の名前が出てきて、心臓が跳ねた。何でもない振りをして次の言葉を待つ。


「夏ちゃんが今、沢並に来てるのよ」


「なんで沢並に?」


「なんか、桜まつりの関係で用事だって。あれ、あんた知らないの?」


 記憶にないが、聞き逃したのだろうか。

 朝、適当に受け流す会話の中で、そういう情報伝達が行われていた可能性は十分に考えられた。

 覚えてない、と正直に答える。


 ただ、姉から電話が来て、彼女の名前を出した時点で用件の察しは付いた。


「いまから、沢並に来てちょうだい」


 明るい声で、しかし有無を言わせない口調で姉は言った。

 更におまけに、退路を断っていく。


「交通費は出すから」


 

 後頭部で括った髪を春風に泳がせて、彼女は曇りがちな空を見ていた。


 あるいはその視線の先は、五分咲きの桜だろうか。


 いつもの真っ白な私服ではなく制服を纏っている。不透明な雲で塗りつぶされた真っ白な空の背景に、制服の黒がぽつんとあった。まるで水墨画のなかの景色のようだった。


 ぼくは深呼吸をして、彼女の名前を呼ぼうとした、その名前がぼくの喉から出るより一瞬前に彼女は振り向いて、社交辞令的な微笑みを向けた。

 今さらこのくらいでぼくは驚かないぞ、と自分に言い聞かせる。

 なんで気づいたのか、なんて聞く気にもならなかった。


「優治さん。わざわざ、ありがとうございます」


「いやぁ……偶然、近くにいたから」


 ふわりと頭を下げる彼女を、どうしてか直視できなくて目を逸らした。


 本当は偶然なのか何なのか、分からない。ぼくがここに来たのは、元はと言えば、彼女の幻影に導かれたようなものなのだから。だとしても、ぼくが幼馴染と別れ、電車に乗り、いつもの駅では降りずに終点を目指すまでの間、確かにぼくは自分の意思で行動したはずだ。

 それなのに、自主的だったはずの旅路の終着点に、彼女が現れた。


「偶然、ですか」


彼女はぼくの言葉をそのままリフレインする。「この辺りによくいらっしゃるんですか?」


「うん、まあ」


 嘘じゃあない。彼女と出会ったときだって、まさにぼくは沢並にいた。そして、ぼくが沢並にいたために彼女との出会いは不思議な形になり、今もこうしてぼくは彼女と沢並を歩いている。


 まるで、全ては彼女に導かれていたのかとすら思ってしまう。

 自分の意思で進む先を決めたい、と決意を持ったはずなのに、彼女の青色の瞳がそれを打ち砕いていく。


 姉に託されたぼくの任務は、かいつまんで言えば案内役だった。


 部屋に入れる家具を買いたいらしい。

 翠緑荘の一風変わった住居形態について補足すると、翠緑荘では台所やお風呂などは住民で共用だが、ひとつひとつの寝室は普通の家庭よりは強く独立している。

 一部屋ごとに内外から施錠できるようになっているし、私物はみんな基本的に自分の部屋の中に置く。彼女が入った部屋は長いこと空き部屋で――たまに幼馴染が泊まりにくるときは不法占拠していたが――部屋を埋め尽くしていたガラクタを各住人が引き取った後はほとんど空っぽになった。


 寝るだけの部屋にしても、ベッドと机、本棚くらいはせめて必要だろう。


 そして、彼女自身の持ち込んだ私物はほとんどない。


 彼女が翠緑荘に持ってきた荷物の運び入れを、父親に言われて手伝ったが、彼女の手荷物は驚くほど少なかった。例の白いトランクの他には、両手で抱えられる程度しかないサイズの段ボールがたった二箱だけ。


 いや、厳密にはたしかもう一つあった。


 不思議な形をしていたので部屋に担ぎ上げるのが少し面倒だった、黒い布で包まれた何か。

 あれは何だったのだろうと思い、ショッピングセンターにある大手インテリアショップに向かう道中、彼女に訊いてみた。


 彼女の答えはシンプルだった。


「天体望遠鏡です」


「え、そうなの」


 少々面食らった。あんな少ない荷物のなかに入れるほど大事なものなのだろうか。それか、すごく値段の張るものであるとかだろうか。


「十万円強だと思います。ですけど、値段が高いからというよりは……」

 彼女は、珍しいことに数秒考え込んだ。

「……私は大概の人に比べて、自分のものと呼べる持ち物が少ないと思います。だけど天体望遠鏡はいつでも私のものであってくれました。あれは、私のものなんです。だから……」


 彼女はそこで歩く速度を緩め、ぼくの顔を見た。苦笑いを浮かべている。


「すみません、よく分からないですよね」


 ぼくは、なんと答えて良いのか分からなかった。

 持ち物の極めて少ない生活のなかで、どういう気持ちで彼女がその望遠鏡にこだわったのか。ぼくはパソコンも携帯電話も持っているし、自分のお小遣いで本やCDを買う。そして想像力の乏しい、そんなぼくに彼女の内心が思い描けるはずもなかった。


 彼女はぼくから視線を外して、ふっと表情を消した。

 笑顔から真顔に変わったはずだけど、彼女の纏う雰囲気はいつになく優しく、ぼくは苦い珈琲にミルクを入れる瞬間を連想した。その優しさは、きっとぼくではなく大切な望遠鏡に向いているのだと分かる。それだけは、鈍いぼくにも分かる。


「きっと優治さんの部屋には、ベッドや机や本があって、それはぜんぶ貴方のものなんでしょう。だけど、私の持ち物と言えるものは、本当にあれだけなんです。尤も……私が身軽さを大事にしているのは事実なので、それでもあの嵩張る宝物を捨てないのは、理に適っていないのかもしれませんけどね」


 ☆

 

 彼女は手際よく家具を注文し、配達を手配した。


 相当待たされるのだろうと想像していたぼくの予想は裏切られた。

 彼女は自分に割り当てられた部屋の寸法から、必要な家具の種類と候補まですでに絞り込んでいたらしく、スマートフォンの画面を見ながら次々に売り場をめぐり、ほとんど無駄なく全ての注文を済ませた。


 ぼくはそれについて行くのが精一杯で、何一つ役に立つことはなかったように思う。


 もともと沢並を案内する以外の役割を負っていなかったので別に気にする必要はないのだが、どこか申し訳ないと感じてしまった。


 ショッピングセンターの中にあった珈琲チェーンで休憩した。

 彼女が休憩したいと言い出したわけではなく、買い物で全く役に立てなかったぼくのせめてもの提案だった。姉が交通費として彼女に渡していたお金がどんぶり勘定だったので、珈琲を飲むくらいの余裕は十分にあった。


 一応、女の子を連れて歩いている以上は気を遣うべきかと考えたのだけれど、彼女にそんな一般論を適用していいのかはよく分からない。


 彼女は、ちょっと洒落た店に特有の、背が高く座面の狭い椅子に綺麗に足を揃えて座っていた。

 ぼくは横の席に腰掛けて、彼女の様子を横目でうかがい見る。せっかく珈琲チェーンに入ったのに、彼女はココアを飲んでいた。


「甘いものが好きなんです」


「ああ……悪かったね、勝手に店決めて」


 そういえば彼女の好みも訊かずに店に入ってしまった。そのことを反省する。

 彼女ははい、ともいいえとも言わずにカップをソーサーに戻した。


「別に、エスコートして頂いている訳ではないんですから」


「うん」と曖昧に頷いてみたものの、エスコートとはどういう意味だったか思い出そうとする。


「いいんですよ。変な気を遣われると困ります」


「そう」


 ぼくらの間にぬるま湯のような空気が流れた。店内に流れるお洒落な音楽に阻まれて、言葉を発することができなくなった。エスコートって何だっけ、と聞けるタイミングを既に逃していた。


「買いたいものは揃った?」ぼくは無難な話題を振る。


「はい。あれだけで十分です」


「何というか……無欲だね、夏さんは」


 彼女が買った家具は必要最小限のもので、それに加えて一切の装飾を欠いたものばかりだった。

 普通の学習机なら、参考書を並べるための本棚や引き出しなどが標準装備されているものだが、彼女が選んだのは長方形の板に脚がついただけのシンプルな机だった。ベッドも、ただマットレスを置くだけの機能しかないものだし、本棚にいたっては買いすらしなかった。


「身の回りをシンプルに保ちたい、というのは私の性分かもしれません」


 彼女はふぅ、とカップの中に息を吹き込んだ。ココアの表面に微かな波が立つ。


「それに、こういったことを優治さんに言うのは申し訳ないのですが、私たちはずっとあそこにいる訳ではないでしょう?」


 私たち、という主語が翠緑荘の住人を指していることは分かった。


 そうだね、とぼくは同意する。

 まるで家族のような人々だと思っている。しかしながら、いつか自分だけの居場所、あるいは本当の家族を見つけて去っていく日が来るのだろう。


 それが、本物の家族とは決定的に違うところだ。


「それを考えると、あまり色々と買い込む訳にはいきません」


「色々考えてるんだなあ。智明なんか、楽器やらCDやら置きまくってるのにさ……」


 ぼくはそこまで言って、ふと自分の部屋のことを思い出した。

 人のことは言えない。

 本を多く読む方なので、部屋の本棚には今まで読んだ本が積み上がっている。


 そういえばぼくも、今となっては無意味な想像とはいえ、汐ノ音高校に進学できていたらきっとあの部屋を出ることになっていたのだ。あの大量の本は空き室に動かしたか、古本屋にでも売ったのか。空っぽになった自分の部屋を想像して、内臓が締め付けられるような息苦しさを覚えた。

 それは、もはや辿りつけない未来の話。


 生まれてから今までのありとあらゆる選択肢と、その結末を大樹の枝分かれに例えるとすれば。


 存在しているのかも分からない隣の枝を、虚空の向こうに思い描きながらぼくらは未来に進む。枝先で朽ちるまで一心に進み続け、そのさなかにも幾つもの可能性を捨てていく。


 ぼくらは、こぼれ落ちた未来のそれぞれに、後悔に似た憧憬を抱きながら、永遠に閉ざされた道の向こうを夢見る。


 かつて描いていた未来は、遠く輝かしい。


 それでも、夢が果たされなかったことによってひとつだけ得られたことがあるとすれば、それは……彼女と出会ったことだ。

 

 彼女は、ぼくの沈黙をどう感じ取っているのか、無言でココアを飲んでいる。

 どろっとした静けさに甘えて、ぼくはもう少し思考を巡らせてみた。


 ぼくは、憧れの高校に進学するという夢が叶わないと知ったとき、最初は「受からなくて良かったのだ」と考えようとした。イソップ童話のキツネが、どうしても獲れなかったブドウを不味いものと決めつけたように、はなから自分の憧れは間違っていたのだと思い込もうとした。下手に合格などしなくて良かったのだ、と自分に言い聞かせた。


 そうして、自分の憧れを心の奥底に押し込めようとした。


 だけど結局、それは不可能だった。だからこそぼくはあの駅のホームに、呪われたかのように足繁く通い、想像の中で夢を叶えていた。


 頭の中では不可能が可能になり、時間の大樹を遡ることができた。


 思考の奥底へと、幾重の境界をくぐり抜け、深海に揺蕩って夢を見ていたとき、ぼくの外殻に真っ白な彼女が触れた。

 それは白い閃光を放ち、海底まで貫いたかと思うと海を根こそぎ消し去った。

 そうして、藍色の宇宙がぼくの眼前に広がった。


 今になって思うと、ぼくの妄想はあのとき彼女に壊されたのだ。

 曖昧で繊細な妄想の殻を、強烈な存在感で打ち砕いた。


 いずれは崩れる幻想だったのなら、それを壊してくれたのが彼女で良かったと思う。


 礼のひとつでも言いたいけれど、こんな気持ち悪いことを考えていると知られるのは怖かったから、何も考えず珈琲を飲んでいる振りをする。

 

 ☆

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