6.水底の退屈
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学期の始まりはたいてい、退屈だ。
授業の度にする自己紹介も流石に飽きてきたし、ネタも尽きてきた。それでいてクラスメイトの名前は全く覚えられない。チャイムと被せるように教室を出て行った担任を横目で眺めながら、ぼくは椅子を下げて伸びをした。
その木曜日も、ホームルームは退屈だった。
ひとりにつき五枚配られた、真っ白なままの原稿用紙を見てぼくは溜息をつきたくなる。
ホームルームで、何かしらの作文を書くようにと言われて配られたものだが、一文字も書く気にならなかった。
そもそもテーマは何だったか。
休み時間になって賑やかになりつつある教室の中、ぼくは自分の席に座ったまま、配られたプリントを見返した。
『宇宙に関する経験についての作文 二〇〇〇文字以上』
また、これなのか。と今度こそ溜息をつく。
数日前に寒川と会ったときのことを思い出す。
ぼくの住む逢水野市は、近ごろ宇宙進出に現を抜かしているようだ。国から科学技術推進都市(SPC)とやらに指定されたためか、宇宙留学を始めとして、やたら宇宙に関するぼくたち若者の興味関心を計りたがる。
正直なところ、逢水野市は大して広いわけでも人口が多いわけでもない、平凡極まりない都市だ。
県内での人口は三番目、いや四番目だったか。こんな街がなぜ、全国に十ほどしかない科学技術推進都市のひとつに選ばれているのか分からない。
ぼくはプリントを適当に折り、あいだに原稿用紙を挟み込んだ。
授業中に終わらなかった場合は持ち帰りの宿題になるという、嫌な仕様だ。いっそ休み時間の間にかき上げてしまおうかと思ったが、書くべき内容がまるで思い当たらなかった。
プリントの上に頬杖をついて、ぼんやりと時計の秒針を眺めていると、後ろから声を掛けられた。
「この作文、なかなか量が多いよな」
固い印象の眼鏡を掛けているが、がっしりとした顎から発せられる声からは意外と人懐こさを感じさせる。
「そうだね。俺、まだ真っ白だよ」
「大げさな」と軽く笑われた。まさか本当に一文字も書けていない駄目なやつがいるなんて、想像もしていないのだろう。
ぼくに話しかけてきたのは、同じ係になった春日井という生徒だ。
適当に、定数の奪い合いが起きなそうな役職に手を挙げた結果、彼と同じになった。彼は学級委員もやっているが、委員会と係の定数を足すと一クラスの人数を超えるため、彼のように掛け持つ生徒もいる。
それだけ学校のために労力を割こうという意思は、いったいどこから来るのだろう。
話しかけてくれたのを無駄にするのも勿体なく感じて、ぼくは適当に言葉を継いだ。
「作文、面倒だよね。大体、生徒みんなが宇宙に興味があるわけないのに」
「まあ。SPCだからな、逢水野は。辻ヶ丘高校は公立の高校だし、市の意向に逆らうとも行かないんだろうな」
物わかりの良さそうなコメントをされる。
科学技術推進都市を略してSPCという。サイエンス・プロモーション・シティということか。どうも直訳過ぎて文意に沿っていない気がするし、『技術』の部分が消えているように思う。しかし、こういった略称はわかりやすさと覚えやすさも大事なのだとみんな薄々分かっているためか、指摘されない。
「逢水野のどこがサイエンス・プロモーション・シティなんだろ」
「そりゃ、沢並のおかげだ」
春日井は当然のようにそう言った。「あの辺りに研究所だの、ナノテクの工場だの密集してるだろう。あそこだけ見れば、逢水野も立派に科学技術推進都市だ」
「つまり、沢並以外はお零れに預かった訳ね」ぼくは毒づく。
「まあそう言うなよ」
春日井が笑い混じりの相槌で、ぼくの暗い口調を中和する。
「別にそれ自体は悪いもんじゃないだろ。宇宙に気軽に行けるようになるなら、面白い未来のために作文のひとつくらい書くよ。まあ、いらん宿題が増えたといえばその通りだけど、そもそも宿題ってわりと理不尽だしな」
「……春日井は、宇宙に行きたいわけ」
ただ一対一で喋るにしても、春日井のように頭の回転が速い人間と上手く会話するのはそれなりの能力が求められる。次から次へと出てくる春日井の言葉に面白い返事を返せる気がしなくて、ぼくは別の話題を出した。
「宇宙留学か? どうだろうな。まあ、逢水野の『天京』を宣伝する意図は感じるけどさ、そりゃ、行けるなら行ってみたいさ」
春日井の言葉には、劣等感による一点の曇りもなかった。
それが眩しく感じられた。実際に宇宙留学に行くような優秀な人間と自分を比べて卑下することなく、何の引け目も感じさせず、宇宙に行ってみたいと言えることが羨ましい。
「そうか。春日井みたいな奴が、行くべきなんだろうな」
つまらないぼくの口から出たのは、珍しくありのままの感情だった。
春日井はぼくの顔を見て、しばらく間を取った。
「本宮が僕のどこを見て、そう思ったのか分からないな。まあ、ありがとうと言っておく」
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「それより本宮、今週末の花見は行くのか?」
花見とは、言わずもがな「つじがおか桜まつり」のことだ。気がつけばあと数日か、とぼくは人ごとのように考える。
「行くよ。というよりも……うち、運営に携わってるから」
「へぇ。本宮のとこもか」
同様の返事を多く受け取ってきたのだろう、春日井が慣れた返事をする。
「ずいぶん街を挙げたイベントなんだな。いままで十七人に聞いて、九人がその返事だ」
いちいち数えているのか、こいつは。ぼくは「商店街に店を持っているトコなら、だいたいそうだよ」と教えてやる。
「なるほど。本宮のところも、家業は商店なのか?」」
「いや……うちは、神社」
説明が面倒なので、家のことや父親のことは自己紹介では話さなかった。
公務員とか商店よりは珍しい家業であるだけに、変に注目されるのが嫌だったからでもある。しかしこの男なら大げさに驚いたりしなそうだと感じたので、正直に話してみた。
「ああ、坂の突き当たりの、アレか」
予想通り、彼は声のトーンを変えなかった。
「ほら、このクラスの親睦を兼ねてさ。皆で遊びに行こうと思ったのだけど。どいつもこいつも、忙しい奴が多いみたいだ」
春日井がちらりと後ろを振り返る。
彼の向こう側に、幼馴染のふたりが見えた。
男子のグループにひとり混じっている幼馴染の姿に、先日の寒川の言葉を思い出し、どきりとする。彼女は相変わらず、ひとさじの不純物も感じない笑顔を浮かべていたが。
年度の始めは出席番号順に連なって席を並べるので、出席番号の近い生徒同士で親しくなりがちだ。
幼馴染みのひとり、宇井智明のほうは出席番号が早めのグループで親しくしている。もうひとりの冬坂郁乃が、社交的な性格を活かして智明のグループに出張した、というところのようだ。
郁乃や、それからこの春日井のように、グループを渡り歩く人間はこのクラスではあまり多くない。
大抵の生徒は、ぼくのように、地理的に近い生徒と何となく仲良くしながら、春日井のような異邦人がやってくるのを待っている。
そんな、人間関係の底をゆらゆら漂っている、水槽の藻みたいな自分を自嘲しながら、ぼくは去って行く春日井を見送った。
もしかしたら春日井の彼女なのかもしれないが、春日井といつも一緒にいる地味な女の子がいて、彼はその子と合流し、教室を出て行く。春日井は百パーセントの善意でクラスメイトを誘っているのだろうけど、彼のせいで『知り合いのような誰か』さんが今年は大量に花見に来るのだろうな。そう思うと、暗澹たる気持ちになった。
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