13.丸とバツ
「まあ。そういうものだよな」
少しの沈黙を挟んだ後に、春日井がそう言って頷いた。
「自分ではない、コントロールすることなんて許されるわけがない他人に……それでも、自分と同等以上の重みを持ってしまう。幸せになってほしい、とか、笑っていてほしいとか。幸せになるのも、笑顔になるのも、人から押しつけられるものじゃないのにな」
その通りだな――とぼくは思った。
正直に言えば、ぼくは夏さんに死んで欲しくなんかない。これは当然だと思う。というより「死んで欲しい誰か」なんて、普通はいないだろう。友達だって家族だってそうだし、ぼくと何のゆかりもない他人だって、生きているに越したことはない。
だけど。
その「普通」を夏さんに押しつけることは、たぶん許されなくて。好きな人の願いが叶うのは、きっと嬉しいことなのに、その願いによって彼女は死んでしまう。例えるなら真空のなかのような、ぼくの手が届かない場所に行ってしまう。好きだから、それを引き留めたくて、だけど、好きだから引き留められない。
明らかな矛盾、二律背反。
だけど、それが「自分ではない誰か」に「自分と同等以上の重み」を押しつけてしまうことの代償なのかもしれない。だから、どれだけ考えたところで、この絡まりを解くことはできない。ぼくの願いと夏さんの願いは両立し得なくて、だけど、夏さんの願いが叶うこともまた、ぼく自身の願いだからだ。
多分、春日井とユイカも、同じ。
春日井がすっと立ち上がって「紅茶を淹れ直すけど、どうだ」と尋ねてくれたので、ぼくは有り難くもらっておくことにした。ダージリンの芳香と、うっすら白い湯気が広がっていく部屋で、ぼくはふたたび数学の宿題と向き合う。式変形をして答えを出してから、解答集と見比べると、ひとつ間違いがあった。どうして間違えたのかな――と数式を見返して、途中でエックスの次数を写し間違えていたことに気がつく。そこを赤ペンで修正して、計算をし直すと、今度は正しい解を導くことができた。
数学なら、正解が分かる。
間違ったときには、必ず理由がある。
正解と不正解がくっきり別れるから数学が好き、という人は多いし、ぼくも割とその傾向がある。数学がシンプルな教科だと言われる理由は、数学が「これは正しい」とか「これは正しくない」という定義を最初に決めていて、その定義を使って、別の「これも正しい」を導くものだからだ。
「生きていることは、正しい」
「死ぬことは、正しくない」
たぶん常識的な定義たち。
だけど、それを夏さんに当てはめることはできない。たとえ世界中の、夏さんを除くすべての人間がこれに同意しても、夏さんは彼らではなくて、違う定義を持っているから。いわば、夏さんというひとりの個人と、数学というひとつの学問がイコールなのだ。
丸つけを終えて、ぼくはノートを閉じる。
春日井が淹れてくれた紅茶を飲みながら、なんとなく教科書を眺めているうちに、午後六時になっていた。遠くの方で物音がしたかと思うと、また例のギィギィという音が聞こえはじめて、ユイカたちが帰ってきたのが分かった。
扉が開けられる。
「ただいまぁ」
あっけらかんとした笑顔で、ユイカが笑う。
それに春日井が「おかえり」と言う。家主でもないのに「おかえり」と言うのが躊躇われたぼくは「お疲れさまです」と頭を下げておいた。あまり広くない玄関で、ユイカと加洲トオルが順番に靴を脱いで、ダイニングに上がってくる。
「そういえば――」
テーブルを片付けながら、春日井がユイカに問いかける。
「買えたのか? メロン」
「うん、ばっちり! でも最後の一個だった」
「へえ。かなり早い時間に行っただろうに」
「やっぱ、旬の始めって、みんな買うから……すぐなくなっちゃうよね」
ユイカが肩をすくめてみせる。
そんな彼女を見つめる春日井の表情を、ぼくは嫌でも観察してしまった。彼がユイカに特別な視線を向けているかというと、別にそうでもない。ぼくや、兄である加洲トオルに向けるのと同じ、平坦な雰囲気だ。むしろ、さっきぼくと二人で話していた時のほうが、表情が豊かだったような気さえするけど――
「本宮くん、ちょっと、手を貸してくれるかい」
「あっ、はい!」
加洲トオルに声を掛けられて、ぼくは盗み見を中断する。彼に渡された買い物袋を受け取って、ダイニングのテーブルに置くと、メロンの網目模様が見えていた。他にも生鮮食品や調味料なんかが、ナイロンの袋に丁寧に詰められていた。
「今日はピカタだってさ」
上着を脱ぎながら、加洲トオルが言う。
「あと、食後にメロン。本宮くん、嫌いじゃなかった?」
「あ……はい、大丈夫です」
「アレルギーとかなかったかい」
「それも、大丈夫です」
「そりゃあ良かった」
口をにっと横に引いて、彼はぼくに笑ってみせた。
加洲トオルは裏表のない性格に見えるけど、彼は、今この部屋にある三角関係を知っているのだろうか。仮に知っていたら、もう少し大人として気を遣う気もするので、たぶん気がついていないのかな――と思うけど。
「悠、結花ちゃん」
カーディガンを洋服掛けに戻して、加洲トオルが言う。
「悪いんだけど、じゃあ、ご飯よろしく」
「はいはい」
雑なトーンで春日井が応じて、加洲トオルは「ごめんねぇ」と手を合わせながら、壁に並んだ扉のひとつに入っていく。椅子を引いて座ったらしいドスンという音が、壁越しに聞こえた。彼は料理に参加しないということのようだ。キッチンにおいて加洲トオルは完全に戦力外らしいので、これが春日井家の日常なのだろう。
「じゃあ、作ろっか」
ユイカがセミロングの髪をうなじでまとめながら、春日井に笑いかける。それから彼女はぼくの方を向いて「えっと、本宮くんは」と小さく首を傾げた。
「お客さんだし、座ってて良いよ」
「え。えっと……」
そう言われても、ただ彼らの料理を見守っているのは、あまりに手持ち無沙汰だ。なにか仕事を振ってもらった方が気まずくなくて済むんだけどな、などと考え「邪魔じゃなかったら手伝うよ」と切り出してみた。
「邪魔だなんて、そんなっ」
ユイカが慌てたように首を振って、ちょっとぼくは申し訳なくなる。
「有り難いよ。本宮くんが手伝ってくれたら、いつもより早めの晩ご飯にできるかも。えっと、そうだなぁ、それじゃあ――」
「ハル、頭」
「あっ、ごめんねぇ」
春日井が棚に手を伸ばそうとして、その前に立っていたユイカがひょいと頭をそらして避ける。上半身を斜めにしたままの姿勢で、ユイカが「えっと」と呟いてあごに人差し指を当てて見せた。
「じゃあ本宮くんは、ハルちゃんと一緒にお肉の準備しておいてくれるかな。私、ちょっとゴミ捨ててくるよ」
そう言ってユイカは手早くゴミ袋の口を縛り、行ってきます、と声を掛けて、薄暗くなり始めた屋外に出て行った。コツコツという足音が遠ざかっていき、やけに静かになったキッチンで、春日井が「本宮」とこちらを見ないまま言った。
「そこにササミのパックがあるだろ。それ開けて、薄力粉をまぶしておいてくれ……ああ、先に塩コショウ振ってからな」
「あ、うん。分かった。えっと……塩コショウはこれか。薄力粉はどこ?」
「シンクの下を探してくれ」
「了解」
ぼくは頷いて、引き戸になっているシンク下の収納を開ける。翠緑荘のキッチンとは作りが違うせいで、うかつに動くと何かにぶつかりそうだった。一方で、収納から取り出した薄力粉のパッケージは、いつも翠緑荘に置いてあるものと同じだったので、ぼくは妙な親近感を覚える。
カチャカチャと音を立てて、春日井が卵を溶いている。
ぼくは彼の、ちょっと下唇を突き出した横顔を見上げて、いつも春日井はこうやってユイカと夕食の支度をしているんだろうな――と想像した。ユイカは「本宮くんはお客さんだから」と言うけど、本当は彼女だってこの家の住人ではないはずで。だけど、買い物からゴミ捨てまでやってのけるくらい、春日井家になじんでいる。
「あのさ、春日井」
バットに薄力粉を広げながら、ぼくは隣に立っている春日井に問いかけた。春日井はこちらを見ないまま、気の乗らない口調で「何」と聞き返す。ぼくは少し背伸びをして、ぼくよりもやや背が高い春日井に「あのさ」と小声で問いかけた。
「俺、邪魔?」
「……追い出すぞ、お前」
ほとんど子音のみで春日井が言って、ぼくを睨む。