4.別れ道への憧憬
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桜まつりに関する、とあるお使いの帰り、ぼくは汐ノ音高校の最寄り駅までやってきた。
今回はべつに例の妄想に浸りに来たわけではない。姉に呼び出されたのだ。
この姉が中々気まぐれな人物で、ともすれば非常識寸前、そのくせ大概のことは持ち前の天才肌で何とかしてしまう。彼女が中学三年生の秋にいきなり、高校は全寮制がいいと言いだし、締め切り直前に願書をもらい、父親を説得して都会へ飛び出した。かつてぼくはそんな姉が自慢だった。
頼もしい彼女について行けばどこまででも行ける、そう思っていたのだ。
だからこそ、ぼくは姉が通っているこの高校を志望したのだろう。
……こんな、どこまでも他人に頼り切った考えさえ、受験に落とされてみなければ分からなかった。
ぼくは今後、この甘えた根性のツケを払わなければならない。ツケを払うとは、即ち、自分の行く未来を自分で描き直すということだ。
姉の模倣ではない、ぼくのいる未来。その作業がぼくを否応なしに待ち受けている。
何しろ、何者にもなれなかったとしても、大人にはなってしまうのだ。それが気分を暗くする。
改札を出て、駅前の広場に出た。
この沢並駅の周辺は、近辺では一番の都会だ。湾岸の穏やかな風に吹かれつつ、洗練された知的な空気がぴりっと張り詰めている街。その空気感には理由があって、研究所であるとか、テクノロジー産業の工場とかが密集しているのがこの沢並なのだ。
海沿いの、オレンジ色に輝いているビルの方角を目指して歩を進めると、ビルの隙間から夕日が現れた。
駅前の桜並木は満開だった。
ぼくは辻ヶ丘高校で指定されている地味なブレザーを羽織っていて、だけどもしあの制服を着てこの桜並木を歩けたならどんなに良かったのにと考えてしまう。
待ち合わせの場所で、姉は待っていた。
背筋を凜と伸ばし、高い位置で結んだ髪をまっすぐに下ろしたシルエット。数ヶ月前までは憧れと信頼の象徴だった姉も、いまはどういう目で見たらいいのか分からない。真っ白に近い桜の色に、よく映えるボルドーの洒落た制服を見て、ぼくは気分が悪くなる。だけどそれを悟られたくなくて、無表情を装って彼女に近づいた。
彼女まであと数歩、というところで、ぼくは同じ色の制服を着たもうひとりの姿に気づく。
誰ですか? と聞くまでもなく、ぼくは彼を知っていた。
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優治にいちど会ってみたかったんだって。姉はそう言った。
「初めまして。寒川渡、といいます……もう聞いては、いるかな」
「郁乃から聞いています」
表情が硬くなっているのを感じながら、ぼくはそう言った。
幼馴染の彼氏であり、ぼくの持たざるものを悉く持っている彼を、社交的な笑顔のひとつ浮かべず見つめた。
不機嫌な表情に不躾な視線。
大人げない。しかし、ぼくはまだ大人じゃない。
ファミリーレストランの安っぽい珈琲カップを傾ける。
ぼくは珈琲は苦手じゃないけれど、ブラックはどうも口の中がざらつくので飲めなかった。光沢のある机に転がっている、空になったポーションの容器をぼくは指で突く。
コの字型のボックスシートに、ぼくと寒川渡は向かい合って座っていた。
寒川は晩ご飯にしては甘ったるそうなパンケーキを食べていた。「甘いものと良く合うんだよね」といって珈琲をブラックで飲んでいる。ぼくと寒川の間に広がる、ぴりぴりと張り詰めた雰囲気を、少なくともぼくは感じていた。コの字の縦線に座るぼくの姉は、雰囲気を感じ取っているのかいないのか、炭酸ジュースとポテトフライを交互に口に運んでいる。
ふとした切欠から、会話は例の宇宙留学の話になった。第二次選抜までクリアした人材となると、名門の汐ノ音高校といえどそう多くないらしい。
「ま、うちの学年じゃ有名人だよね」と言って、姉が寒川を持ち上げる。
「やめてよ、瑞穂ちゃん」
寒川は居心地の悪そうな笑顔を作った。
「どっちみちダメだったんだから。かえって不名誉。あぁぁ、行きたかったな……『天京』」
寒川が嘆いて天を仰ぐ。
『天京』とは、日本の悲願であった宇宙ステーションだ。
数年前に完成し、近年本格的に民間人の見学を受け付け始めた。宇宙留学はこれに乗じた、『天京』のプロモーションを兼ねたプロジェクトだ。
「ダメだったって言っても、箸にも棒にもかからないより良いでしょう」
と、姉が笑う。
因みに、彼女は選抜に応募する気は全くなかったらしい。
貴重な三年間をオッサンの評価を受けることになんて使ってられない、そのうちお金貯めて自力で行ってやる、と冗談だか本気だか知らないけど言っていた。
自力で宇宙に行く、というのはあながち冗談にもならない時代になっている。
宇宙旅行は年々安くなっているらしい。
それでも、高校生の身分からすれば雲の上の話だが、最近ではゼロの数が七から六に減って、一気に現実味を帯びてきたと話題だ。『天京』への旅行にしても、数日滞在する程度なら、サラリーマンの平均年収で買える金額に近づいてきた。
「まあ、新手の奨学金みたいなものだよね。宇宙留学はさ」と、寒川が笑った。
「優秀な学生に、数百万の融資をしてくれるってことだから」
「そう考えるとけち臭い話だよなぁ。そのくらいの融資をもぎ取るために、えっさほいさと二年間」
「まあね。ただ、選抜を超えたことによる希少性はあるよ」
希少性ねぇ、とそのまま繰り返す姉に、寒川が「つまり、ブランド力」と言い換えた。
「宇宙留学そのものは、そこまで貴重な経験をさせてくれる訳じゃないよ。今時のエリートやお金持ちなら大体似たような経験をお金で買ってる。だけど、選抜を何度もくぐり抜けて留学生になれたというのはそれだけで実績だよね。今後、宇宙留学は、宇宙産業のトップエリートの登竜門になるんじゃないかなあ」
「げぇ。つまんない未来だな」
姉が舌を出して、そのまま舌にポテトフライを乗せた。
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駅まで寒川に送ってもらった。「未成年を遅くまで引き留めちゃったしね」と彼は言うが、自分だって未成年だろうし、遅いとは言っても七時半だし、姉は初対面のぼくと彼を置いて一人で寮に帰ってしまった。
ぼくは主張したい色々な気持ちを胸に抱えたまま、寒川の後ろをついて行く。
三年生にもなれば制服もかなりくたびれてきそうなものだが、彼のブレザーは小さい皺や汚れのひとつもない。そこを指摘したら、「ああ、僕、転入生だからね」とこともなげに言った。
「去年の秋に、二年生の途中から転入したんだ」
「あぁ……そうでしたか」ぼくはあまり考えずに喋った。「ぼくも、もしどうしても汐高に行きたかった
ら、途中から転入するってこともできるのか」
「相応の理由がないと難しいんじゃない?」
「まぁ、そうですよね」
ぼくらは信号で立ち止まる。駅前の大通りは片側四車線もあって、ひっきりなしに通り過ぎる車のシルエットはまるで明滅しているように見えた。。
「優治くんは、汐ノ音高校に転入したいの?」
「いいえ」
ぼくは言った。あまりにも当然のように否定の言葉が出てきたのでおどろくが、それが嘘偽りない感情だったのだとはじめて分かる。
「今となっては、どうして汐ノ音高校に入りたかったのか、分かりません」
ただ、無形の憧れだけが残った。憧れの高校は結局、ぼくの姉があれだけの労力を使ってもぎ取ったものだから、良く見えていただけなのかもしれない。
ぼくは振り返る。
オレンジの街灯が続く先にある高校を思い描いた。そこにはもうない、だけどあったかもしれない未来を考えた。そこで、汐ノ音高校の学生として生活している自分を想像した。
具体的な想像はほとんどできないけれど、そこできっとぼくは姉の後を追い、周囲が勧めるままに勉強をして、だれかの模倣をした優等生になったのだと思う。
ーーもしかしたら宇宙留学にも立候補したかもしれない。
ぼくは受験に失敗したことで、初めてそんな自分を客観的に見ることが出来たのだ。
それはそれで良かったのだと思う。
だけど、手に入らなかった未来はどうしてもきらきらと輝いて見えて、ぼくはそちらの世界で生きているぼくになってみたかった。そのことがどうしようもなく不可能になったことを、改めて思い知り、不意に泣きそうになった。
そういえば、悲しい、とは今まで一度も思わなかった。
ぼくの所有物でありながら、どこか遠くにあった感情を、ぼくは手元に引き寄せようと試みる。切り離された未来のぼくと話をしよう。
ぼくは本当は何をしたかったのか。
何を感じているのか。
僕はさ、と寒川が話し始めた。
「一度会いたかったんだ。君に」
こんな優秀な人が、どうしてぼくに会いたいなんてことがあるのだろう、と考えた。
「君に、聞きたいことがあるんだよね」
寒川は、行き交う車のライトを背にして、どこか無機質な笑顔をぼくに向けた。顔はたしかに笑っているけど、目の細め方、口角の上げ方、それらに計算じみた不自然さを感じたのだ。
何ですか、とぼくは子音だけで聞き返す。
「優治くんに、特別な人が居たとしてさ」
「居ませんが」
言いながら、ぼくの脳裏を真っ白なシルエットがよぎった。ぼくはその真っ白さを、夜空に映える街灯でかき消す。
「たとえばだよ。それに、べつに恋愛に限らず、友愛でも、家族愛でも何でも良い」
「はぁ」
「その人のお願いなら、なんでも聞いてあげるとしようよ」
「その前提がそもそも微妙ですけど」
大体、特別な人がいるという最初の前提からしてただの仮定なのだから、仮定に仮定を重ねたところで複雑になるばかりだ。
駅の灯りを背負って、寒川の顔は見えなかった。
「もしもさ、その人から――死にたいから、協力してくれと言われたらどう思う?」
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