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真空のなかのドレス  作者: 織野 帆里
カリストの孤独
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8.兄弟と姉妹

 春日井(とおる)、というのが彼の本名らしい。


 加洲トオルというのは、本名をもじって付けたペンネームであるようだ。


「なんか『カストール』って、海外の名前っぽくて良いなぁと思って、そのまま付けたんだよね。そしたら結花(ゆいか)ちゃんが調べてくれて、なにかの伝説に、本当にそういう名前が出てくるんだよ……なんだっけ、あれ、北欧神話?」

「ギリシャ神話です」

「あぁ! そう、それそれ」


 ぱちん、と手を叩いて、加洲トオルは楽しげに笑う。


 現在ぼくは、クラスメイトである春日井の家を訪ねたはずが、どういうわけか、高校生で作家デビューを果たした、ぼくとは違う世界の人間であるはずの作家・加洲トオルの家のダイニングに通され、勧められたチェアに所在なく腰を落としている。


「それより、トオルさん」


 ぼくの隣に座ったユイカが、彼に話しかける。


千鶴(ちづる)がどうとか言ってましたけど……今日、お姉ちゃん来るんですか?」

「いやあ……ただ……昨日もらったメールをまだ返してないから」

「えぇ~?」


 呆れたようにユイカが笑って「それはちゃんと返しましょうよ」と窘めるようなトーンで言った。この「チヅル」というのは、ユイカの姉のことで、かつ、作家・加洲トオルの担当編集者であるらしい。


「――あの」


 談笑している二人に、ぼくは思い切って切り出した。


「もしかして、春日井――弟のほうの春日井と、遥山さんが知り合ったのって」

「あ、そうそう。お姉ちゃんが、トオルさんの担当になったから、それでだよ」

「へえ……」


 不思議な縁の生まれ方だな、とぼくは思った。


 見たところ、加洲トオルの年代は二十代後半くらいに思えた。高校生でデビューしてもうすぐ十周年、というユイカの発言とも一致する。ぼくと同い年で、高校一年生である春日井悠と比べると、兄弟で年齢は十歳以上離れていそうだ。そして、遥山ユイカの姉であるという遥山チヅルも、編集者という職業を見るに、たぶん二十代半ば以降だろう。


 春日井悠と、春日井玲――あるいは加洲トオル。

 遥山ユイカと、遥山チヅル。


 作家と担当編集として出会った加洲トオルと遥山チヅルに、いずれも年の離れた弟妹がいて、それが偶然にも同い年だった――というのが、春日井とユイカの出会った経緯ということらしい。


「まあ、せっかく珍しいお客さんが来てくれたんだし」


 加洲トオルがぼくを見て言う。


「お茶でも淹れようか」

「あっ、じゃあ淹れてきますね。前に沢並で買ったお茶っ葉、使っていいですか?」

「え――いや、私が淹れるよ」

「なんで?」


 くす、とユイカが笑った。


「いつも私かハルちゃんが淹れてるじゃないですかぁ」

「そ――それは、そうなんだが……」

「自分の著作を読んでくれた人の前で、一回り下の高校生に世話をされてるなんて知られるのが嫌、ですか?」

「……もう全部言っちゃったじゃないか。その通りだよ」


 憮然とした様子で加洲トオルが唇をとがらせる。


 彼がユイカにあしらわれる様子を、どこか不思議な気持ちでぼくは眺めていた。ここに来る道中で彼女に聞かされた、高校生でデビューした新進気鋭の作家「加洲トオル」と、このいい人っぽいけど妙に頼りない男性が、同じ人間だと思えなかったのだ。


「呆れないでくれ。本宮くん」


 ぼくに向けて、彼は悲しげに眉をひそめた。


「悠も結花ちゃんも、チヅちゃんも、どういうわけかね……私がキッチンに入るのを嫌がるんだよ」

「当たり前じゃないですかっ。ヤカンの中身がぜんぶ沸騰しちゃうまで火を止め忘れたの、忘れてませんからね。火事になるところだったんですよ!? 先生は部屋に戻って、お姉ちゃんへのメールでも返しておいてください」

「……はい」

「あ、じゃあ……手伝うよ」


 そう言ってぼくは立ち上がった。


 ユイカの後を追いかけて、リビングとは低いカウンターで仕切られた向こう側のキッチンに向かう。加洲トオルは悲しげに肩をすくめて、壁に二枚の扉が並んでいるうち、右のほうを開けて中に入っていった。あの中が仕事部屋ということだろうか。


「えぇと、なにか、手伝うことあるかな」


 邪魔かなとも思いつつ、ぼくがユイカに問いかけると、彼女は「じゃあ」と言って、コンロ奥の棚に置かれているヤカンを指さした。


「お湯沸かしてくれるかな。カップとポットも温めるから、いっぱいね」

「分かった」


 ユイカは笑顔で頷き返して、それからシンクの手前で膝を突いた。彼女が収納を開けて、なにかを――おそらくは加洲トオルとの会話で出ていた茶葉を探しているのを横目に、ぼくはガスコンロのつまみを捻った。


 チチッと音を立てて、コンロに火がともる。


 水をたっぷり注いだヤカンを火に掛けながら、ぼくは「あのさ」と、少しだけ絞った声量でユイカに尋ねてみた。


「ここに来れば春日井が怒った理由が分かる――っていうのは、つまり、春日井のお兄さんの書いた本を、俺が作文で使っちゃったから、って意味だったの?」

「うん……私は、そうかなーって思った」


 顔を上げないまま、ユイカが応じる。


「ハルちゃんとトオルさんは……仲が悪いわけじゃないんだけど」

「ふうん……」


 ぼくは曖昧に相槌を打つ。


 要するに、春日井は兄に対して何かしら思うところがある、ということなのか。本当に何のわだかまりもないなら「仲が悪いわけじゃない」とは言わないだろう。たしかに、高校生で作家としてデビューした兄が近くにいれば劣等感くらいはありそうだ。ぼくだって、名門の汐ノ音高校に通う姉には、正直あまり頻繁には会いたくないので、そういう感情はわりと想像できる方だと思う。


 ――だけど。


 ぼくは、まだ屈んで作業をしているユイカのつむじを、ちらりと見下ろした。


 あのとき春日井が怒ったのは、やっぱり、ぼくがユイカのアイデアを奪ってしまったことについて、だった気がする。そのアイデアが加洲トオルに関係していることは、どちらかと言えば些末なように思えるのだ。


 つまり、春日井とユイカの関係性。


 それこそが問題の焦点なのでは、というのがぼくの直感だった。


「あの――遥山さんと春日井ってさ」


 少し遠回しに尋ねてみる。


「けっこう付き合い長いんだよね。中学同じだし」

「うん、そう……会ったのは小学六年生のときだったかなぁ。学校の帰りに、お姉ちゃんの職場に行ったら、ちょうどトオル先生がハルちゃん連れてきてて。そしたらご近所さんって分かったから仲良くなって、それから、ずっと()()

「そうなんだ……」


 湯気を上げ始めるヤカンを見つめながら、ぼくは相槌を打つ。


 小学六年生からずっと友達。ということは、まあユイカがぼくに嘘をついていない前提ありきだけど、二人は付き合ってはいないらしい。ぼくが密かに思っていた「春日井とユイカは恋人同士で、だから春日井はユイカのことでいつになく怒ったんじゃないか」という仮説は、間違っていたことになる。


「男女で、それだけ長いこと仲が良いの、珍しいね」


 ぼくがさり気ないコメントを装って言うと、ユイカは「本宮くんと冬坂さんだってそうじゃん」と不思議そうに首を捻る。この「冬坂さん」というのは、ぼくの幼馴染の一人である冬坂郁乃のことだ。なぜユイカが、別クラスである郁乃のことを知っているのか尋ねると、桜まつりに来たときに、春日井を通じて知り合っていたらしい。


「いや、郁乃は……」


 見慣れた茶色いショートヘアを思い出しながら、ぼくは唇をとがらせる。


「だって、子どもの頃から知ってるし」

「だからぁ、私とハルちゃんも同じだよ。幼馴染なの」

「まあ……うん、そっか」


 ともかく「自分とハルちゃんは友達」とユイカが主張するなら、それ以上踏み込む気にはなれなかった。ただ、郁乃とか、郁乃と同じく幼馴染である智明のことで、ぼくは今日の春日井ほど怒れるだろうか。いや……そりゃあ、何かあれば怒るとは思うけど。というか、怒らないとダメだとは思うけど、それにしても……。


 どちらに転んでも後味の悪い思考実験をしてしまった、そんなぼくを諫めるように、ヤカンの蓋がカタカタと動いて湯気を吐きはじめた。

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