6.二人のハル
ハル。
というのは、春日井が遥山ユイカを呼ぶときの愛称だ。ちなみにユイカの方も、苗字の一文字目を取ってだろうか、あるいは下の名前の「悠」からだろうか、春日井のことを「ハルちゃん」と呼ぶ。つまり二人は、お互いにハルと呼び合っていることになる。しかし、ぼくのような部外者が「ハル」と呼ぶと、それは春日井とユイカのどちらを指しているのか判然としない。
ゆえに「ハル」とは、この二人専用の愛称なのである。
それは、それとして。
「加洲トオルの本で読書感想文を書くのは、ハルのアイデアだ」
「い――いや」
険しい声音で詰められて、胃がぎゅっと縮こまる。
「待ってよ。たしかに遥山さんに教えられなかったら、あの作家の本は読まなかったと思うし、宇宙に関する経験ってテーマを、読書感想文の切り口で書くっていうアイデアも思い浮かばなかったけど……」
言いながら、頭がぐらりと揺れた。
ユイカのアイデアを盗んだ?
そんな責められ方をするなんて、思ってもいなかった。ただ、考えてみればたしかに、遥山さんのアイデアが、ぼくの作文の根幹になっているのは事実だ。読書感想文を書くという発想だけではなく、参考にした本の著者まで同じ。
「……でも、俺はっ」
全身の体温がどこかに抜けていくような感覚のなかで、ぼくは顔を上げた。
「あの本を読んで、俺自身が思ったことを書いた。それは『俺の経験』なんじゃないか」
「だけどハルは彼の本で感想文を書いたんだ。同じ読書感想文というカテゴリで、それも同じ作家の本をテーマにしたものが二つ並んでたら、必然的に競い合う構図になる」
「いやっ――俺と遥山さんはクラスが違うんだから、競合しては――」
「関係ないだろ。一組と二組で、同じようなテーマの作文がどちらも代表に選ばれるとでも思うか。きみは――きみが……ハルの、宇宙に行く機会を」
春日井はそこで言葉を切る。
眉間に深いしわを刻み、額を手で押さえて、あぁ――と言葉にできない声をもらした。
まだクラスに残っていたグループが、ぼくと春日井を遠巻きに見ていた。喧嘩かよ――と冷やかすような心配するような声が飛んでくるなか、ぼくは何も言えなかった。ただ、片隅がまだ固定されていない、宇宙留学のポスターの前で、どうにか倒れないように立っているしかできなかった。
そのとき。
「ハルちゃん?」
春日井の背後から、明るい声が飛んできた。
その声を聞いた瞬間、春日井が小さく息を飲んだ。ぼくは僅かに上半身を傾けて、背が高い春日井の向こうを見る。教室の引き戸の向こうに、遥山ユイカが立っていた。ブレザーのボタンを三つ全て留めた、制服を模範的に着こなした彼女と目が合う。
「あ――」
ぼくの存在に気がついたらしいユイカの笑顔が、少しだけフォーマルなものに作り替えられる。彼女はちょっと遠慮した様子で教室に入ってきて、ぼくと春日井の間に割って入り、彼女に背を向けたままの春日井の顔をのぞき込んだ。
「ハルちゃん……?」
「あ、あの――遥山さん」
「本宮くん、だったよね。えっと……どうか、したの?」
「いや――」
事情をうまく説明できる気がしなくて、ぼくは黙り込んだ。
ユイカに謝るべきなのか。
それとも、事情を弁解して、ぼくは悪くないと開き直るべきなのか。
あるいは――そのどちらでもなく、ただ沈黙するべきなのか。いずれの選択肢も選べないでいると、ひとつ息を吐いて春日井が鞄を持ち上げた。
「……ハル、本宮、悪い。僕は、来週の委員会の資料を作りに、自習室に行くから」
「えっ――あの、今日、ハルちゃんち行こうって」
「悪い。先に帰っていてくれ」
そう言って、彼は早足に教室を出て行ってしまった。
取り残されたぼくは、同じく取り残されたユイカと目を見合わせる。ユイカが不安げに首を捻ると、地毛のままの黒髪がまっすぐ垂れ下がった。ユイカは優しそうな印象の垂れ目を細めて、どうしたんだろうね、と場を取りなすように笑ってみせる。
ぼくは、遥山ユイカのことをあまり良く知らない。
クラスも違うし、共通項もない。下の名前である「ユイカ」を、どんな漢字で書くかを知らないくらいには、関係の希薄な相手だ。
だけど――それでも。
「あの。遥山さん」
ぼくは腹をくくって口火を切る。
良く知らない相手だけど、だからこそ、ユイカの発案を勝手に借りてしまったことについて、一言ちゃんと言っておかないといけないだろう――と、ぼくは思った。春日井に怒られたから、ではなく。ユイカに申し訳ないから、でもなく。何というか、拗れかけている物事を、きちんと整理しておきたい気持ちがあった。
「……話したいことがあって」
「えっ……何かな」
彼女は、少し警戒した表情になって上履きの先端を揃える。
そう――そのくらいぼくらは、お互いに知らない相手だ。春日井という共通の知人がいるだけだし、その春日井だって、高校に入ってから知り合った相手でしかない。そんな、知人と呼ぶにも少し憚られるような相手のアイデアを、ぼくは許可もなく借りて、しかも何の因果か、その結果がずいぶんと評価されてしまったのだ。
「この間の……宇宙についての作文で、俺――」
ぼくは事実を、可能な限りありのままに話した。最初はきょとんとした表情を浮かべていたユイカだが、話が事態の核心に及ぶにつれ、少しずつ険しい表情になっていった。見るからに人の良さそうな顔立ちが、だんだんと歪んでいく。学校指定の鞄を握りしめている、ブレザーの裾からのぞく拳に、ぎゅっと力がこもるのが見える。
「だから俺……遥山さんのアイデアで、作文を書いたんだ。ごめん」
「……そうだったんだ」
ぼくの話が終わると、ユイカは唇をほとんど動かさずにそう呟いた。
肩に掛かった黒髪をかき上げて、困ったように唇を尖らせる。アイデアを盗まれたことについて怒っているとか、悲しんでいるというよりは、何かに得心がいった――とでも言うような態度だった。
「だからハルちゃん、あんなに怒ったんだ」
「えっと、だからって言うのは――俺が遥山さんのアイデアを盗んだから?」
「あっ――ええと、それは多分違って……私のため、とかじゃなくて……えっと、なんて説明したら良いのかなぁ」
ユイカが指先をくるくると回す。
しばらく彼女は言葉を探している様子だったけど、ちょうど秒針がくるりと一周したくらいのタイミングで「うん」と顔を上げて、ぼくの方を見上げた。
「本宮くん、今日……暇かな」
「今日?」
ぼくは驚きながらも「暇だけど」と答える。部活に入っていないぼくは、何の用事もないので、係の仕事が終わったら、翠緑荘にまっすぐ帰るつもりだった。ぼくの返事を聞いたユイカは「そっか」と微笑んで、それからこう提案してきた。
「今から私ね、ハルちゃんの家に行くんだ。本宮くんも来ない? なんでハルちゃんが怒ったのか、一緒に来たら、分かると思う」
「春日井の家に……?」
唐突な提案に、ぼくはぎょっと目を見開く。
「え……それ、俺が着いていっていいやつなの」
色々と聞きたいことはあるけど、一番最初に気になったのはそれだった。春日井とユイカの関係はよく知らないけど、異性の家にひとりで遊びに行くっていうのは――つまり、そういうことなんじゃないのか。
だけど。
「え、ぜんぜん、良いよ?」
ユイカは笑顔のまま、首を小さく傾けてみせた。
「ハルちゃんには、私が誘ったって言うから」
「いや――でも」
ぼくは返答に迷った。
ユイカが、どうやらぼくと春日井の間に生じた不和を解決しようと試みてくれているのは分かる。第一印象のとおり、どうやら彼女がとても良い人であることも分かる。だけど、明らかにぼくに対して怒っていた彼の家を訪ねるには、あまりにも勇気が足りていない。ぼくが答えに詰まっていると、ユイカは声のトーンを落として「それに」と呟いた。
「作文のこと。私だって、宇宙留学……興味なかったって言ったら嘘になるかなぁ?」
「うっ――それは」
痛いところを突かれて、ぼくはみぞおちに何か食らったような声を出した。空いていた窓からタイミング良く風が舞い込み、まだ完全に固定できていなかった宇宙留学のポスターがひらひらと踊る。ひるがえったポスターの、銀河をあしらったデザインの向こう側で、ユイカは「なんてね」と微笑んでみせた。
ほんの少しだけ悪戯っぽい表情に、思わずどきりとする。
「べつに謝らなくても良いけどさ、本宮くんの弱み、ちょっとだけ握ったって思っても良いよね。お願い、聞いてもらえない?」
「……分かった。行くよ」
色々と観念して、ぼくは頷いた。