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真空のなかのドレス  作者: 織野 帆里
カリストの孤独
30/45

1.初夏

 ☆


 白いシフォンが揺れるのを見ている。


 五月の風を受け流し、膨らみ、また揺れる。


 その動きは、変わりゆく季節の輪郭を辿るようだ。


 ふわりと舞う、純白。


 夏さんがいつも身に纏っているその色は、色相を持たない特別な色らしい。


 それをぼくに教えてくれたのも、彼女だったっけ。


「……私は、カフェモカを。ああ、ホットでお願いします」


 カウンターに立った彼女が、よそ行きの澄んだ声で言う。

 それから、ぼくのほうに振り返った。


「優治さんは?」

「え? ああ、ぼくはえっと、アイス珈琲のSを」


 彼女の後ろ姿に見とれていたぼくは、慌てて自分の注文を告げる。各々支払いを済ませ、番号の印字されたレシートを手渡されて、オープンテラスのベンチに向かった。


 今日の夏さんは、真っ白なシフォンのロングカーディガンを纏って、それを風に泳がせている。その下に、カーディガンよりは僅かにグレーに近いワンピース。相変わらず、無彩色の出で立ちだ。


 だが、いつもはポニーテールにしている髪を、珍しく下ろしている。色素の薄い髪が、ゆるやかな弧を描いて肩に落ちている。それに、べっ甲色のフレームが目立つ眼鏡。


 彼女がこの格好で現れたときの、ぼくの動揺が彼女に見抜かれていないことを願う。とはいえ多分、どれだけ表情を取り繕ったところで、ぼくの感情は八割方彼女に筒抜けだろう。


 彼女の洞察力には、目を見張るものがあるからだ。


 まあ――彼女に言わせれば、ぼくと彼女が似ているから分かるだけ、らしいけど。


 そう。


 ぼくと彼女には共通点がある。


 対面に座る彼女に、ぼくはこっそり視線を投げかけた。


 彼女の今日の注文は、エスプレッソにチョコレートソースと泡立てたミルクを加えたカフェモカ。以前、夏さんは、苦いものが苦手と言っていたように思う。だからだろうか、好きな飲み物は甘いココアだ。何かの折りに喫茶店に入ることがあっても、カフェ、とか名前につく飲み物は頼まないのが常だった。


 そんな彼女が今日に限って、珈琲とココアの折衷案と呼ぶべきカフェモカを飲んでいるのは、ひょっとしたら喫茶店に誘ったぼくに気を遣ってくれたのかもしれない。まあ、想像の域を出ないのだが。


 彼女は両手で包むようにマグカップを握っている。


 まだ熱いらしいカフェモカをふぅと吹いて、それからゆっくり口をつける。少しマグカップを傾けて、熱い――と小声で呟いて苦笑いした。ほんの少し目を見開いた表情は、なかなか珍しい。


「思ったより、すぐそこにいました。カフェモカ」


 夏さんがそう言って苦笑しながら、舌の先を出してみせる。


 泡立てたミルクが上を塞いでいるから、液面の場所を見誤ったのだろう。


「火傷してない?」

「いえ、大丈夫です」


 紙ナプキンで口元を抑えて、彼女は小さく首を振る。


「慣れないことをすると、こうなるんですね」

「たしかに、カフェモカを注文すると思わなかった。好きじゃないと思ってたから」

「ええ……苦いものは得意ではありません。けれど、色々なことを知りたいでしょう?」


 そう言って彼女は、晴れ渡った青空に相応しい、眩い笑顔を見せた。だけど――ぼくは、そんな笑顔の裏に、爽やかな初夏には似つかわしくない、省略された言葉があることを知っている。


 ――生きているうちに、色々なことを知りたいでしょう?


 多分、そういう意味なのだ。


 本当に嘘みたいだし、嘘であってくれたらどれほど救われるか、と思う。

 

 大人びた雰囲気を纏っているけど、彼女は十四歳。


 彼女は残された「子供でいられる」四年間を、自分の寿命と定めてしまった。


 そこが同じなのだ。


 大人になる前に死にたいと考えていた、このぼくと。


 ウッドベンチに腰掛けたぼくたちに、昼下がりの陽光がぶつかってくる。ほんの少し、暑いなと思った。


 もうすぐ、夏。

 彼女の名前を冠した季節が始まろうとしていた。

 

 ☆


 五月の連休を使って、ぼくは彼女――夏さんを誘い、逢水野(おうみの)市の郊外に出かけた。


 この「彼女」は女性を指す一般的な三人称だ。だけどもうひとつの意味、ガールフレンドを指す言葉として解釈しても、一割くらいは正しい……のかもしれない。


 ぼくは空になったグラスをコースターに戻して、上を見た。


 オープンテラスに影を落とすかたちで、桜の枝が伸びている。その枝に並ぶ葉はどれも厚く、濃い深緑に染まっている。


 彼らが若葉だった頃の、さらに前。


 桜の季節。


 水に落とした一滴のインクが広がるように、ぼくは当時のことを思い出す。


 淡い色彩が大気に満ちた、季節と季節の狭間にある僅かな日々。冬の澄んだ青空を、煙を溶かしたような白が薄く覆っていて、雪にも似た白い花弁が春の訪れを告げた。


 たったひと月ほど前なのに、彼方の昔とも思える、あの頃。


 ぼくは、命を自ら投げ出した。


 無造作に放り出された命は、彼女によって拾われた。


 それと同時に、ぼくを呪っていた恐ろしい夢が、どこかに消えた。


 春先のぼくは、将来のビジョンが無いことが何よりも恐ろしく、指針もないままに生きていたらいつか、どうしようもない最果てに辿り着いてしまうのではないか、という不安を常に抱えていた。その日が来る前に、死んだ方がまだ良いとすら思っていた。


 漠然としたその恐怖は、ある日を境に加速的な成長を始め、あっという間にぼくを飲み込んだ。そして、ぼくの意識を書き換えて、ためらいなく死の淵へ飛び込ませた。


 早春の山で眠りに落ちて、そのまま危うく死にかけた。妄執に殺されかけた、というのがある面では正しいのかもしれない――それだと、なんだか責任転嫁している感じもあるけど。そして彼女の手によって助けられ、友人や知人や、その他大勢の人間に無事を喜ばれ、危険な行動を叱られた。


 思っていたよりずっと多くの人間に心配されていたこと。救ってくれた彼女に恩を返したい感情。複数の要因があり、結果としてぼくは、生きていた方が何かしら良いのではないか、という意識を持った。


 もっとも、不安の根幹であった将来の先行き不透明さは未だ変わらない。


 変わったのは唯一心持ちだけで、ある意味、生きていれば良いことがあると漠然と感じる今の方が、空想に浮かされているのかもしれない。


 分かっている。


 でも、この希望が空想なら、それはそれで、しばらく騙されてみようと思った。


 なぜなら、少なからず、その空想は日々を豊かにしてくれるから。


 明日はきっと良いことがある――そう信じることで、空の青さは増し、人と語り合う喜びに触れ、些細な幸運に気づく。前を向かなければ見えないものがあり、晴れ晴れとした気分でいられることは、それだけで価値があると思う。


 見上げた木立の向こうに、ぼくは青空を見る。


 すると夏さんが、瞳をほんの少し上に持ち上げた。それが、ぼくの視線を彼女が追いかけてくれたように思えて、心臓がどきんと跳ねた。


 君の見る空はいま、何色をしているだろう。


 春の陽気に細めたまぶたの内側、光の透けた青い瞳に映っている、その空は果たして青いのだろうか。


 残り時間を伸ばせないのなら、せめてその日々は美しく彩られてありますように。


 それが願いであり、ぼくが彼女の隣にいる理由の全てだった。


 ☆

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