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真空のなかのドレス  作者: 織野 帆里
四季の外縁
27/45

27.太陽の裏側

 ☆

 

 彼女の顔を見る。


 そこにあるのはいつも通りの笑顔、すなわち無表情。しかしある瞬間を境に、珈琲に一滴のミルクを落としたように表情が変わっていった。


 混濁する感情。

 悲しげな瞳、それでも微笑む口元。


「ねぇ、生きていたくないのは私も同じなのに……。ズルいですよ、一人でそちら側に行ってしまって」


 そちら側。


 その言葉がぼくが一人であわや死にかけたことを指すのか、死にたいという思いから少し解放されたことを指すのかは分からない。彼女がどうして生きていたくないと感じたのか、どうしてそれをぼくに教えてくれたのか、それも分からない。

 分からないことばかりだけど、その感情がいかに制御しがたく、苦しいものであるかだけはぼくにも分かる。


 だってそれは、ぼくが抱いた感情と同じだからだ。

 数日前までぼくの中にあった渦巻く暗い感情は、まだ忘れられるようなものではない。


「驚きましたか?」


 そう言って微笑むのは、きっと精一杯の強がりなのだ。


 いつも変わらない笑顔に丁寧な言葉遣い、徹底して白い服装、シンプルな身の回り。

 彼女のポリシーだと思っていたそれらのもの。

 それは、彼女を守るための盾として、彼女が自ら構築した世界なのではないだろうか。


 今まで遥か遠くに見えていた彼女が、突然、ただの女の子に見えた。

 14歳の普通の子供。1年前のぼくと同い年の、小さいことで悩み、眠れない夜を過ごす子供。


 もちろん非凡ではあると思う。

 だけど、彼女の小さい肩にのしかかっている苦しみが少しだけ見えた。


 何か、なにかできないだろうか。ぼくが、彼女のために。

 本気の悩みの前で、言葉なんて大した救いにはならないだろうか。それでも、触れたら壊れそうな彼女になにか言葉をかけてあげたくて、ぼくは必死に頭を捻った。


 一つ、希望があった。

 甘い考えかもしれないが、確信めいたものを感じていた。

 

 貴方を助けたい、そう誰かに思われること。


 それは、実際に何の助けにもならなくとも、何よりもの救いになるはずだ。

 

「夏さん、同盟を組もう」


 ぼくは彼女に向けて、右手を差し出した。


 彼女の目が、僅かだが見開かれた。思わず零れたといった様子の、素の驚きの表情。

 気恥ずかしかったけれど、それは一時の感情だ。そんなものに流されてこの機を逃すわけに行かない。手を差し出したまま言葉を続けた。


「夏さんはぼくに生きていてほしいと言ってくれた。ぼくも同じで、夏さんに生きていてほしいと思う。これはぼくのエゴだけど……」


 しばらく、考えを整理する時間が要った。その間に彼女が何か喋ったり、あるいは誰かが翠緑荘の呼び鈴を鳴らしたなら、ぼくの言葉は永遠に雲散霧消してしまっただろう。幸いなことに、静かな呼吸音と遠い風の音しか聞こえなかった。

 程なくして言いたいことはまとまったけど、それを口にするには少々の勇気が要った。


 ぼくは深呼吸した。

 そして、肺を押す空気の勢いに任せて言葉を紡いだ。


「せめて夏さんの余生は素敵で楽しくて、綺麗なものであってほしいし、それに尽力したい。できれば貴女がしてくれたように、ぼくも夏さんを助けたいけど。……それが叶わないなら、秘密を共有するものとして、一番近い場所にいるくらいは許してくれないか?」


 それだけ言い切って、目を固く閉じた。とても彼女の顔を見る勇気はない。

 あの時と同じように、彼女に判断を委ねた。


 数秒、間が空いた。


「……それは恋人の権利ではないですか?」


「は? ……あっ!」


 ぼくは間の抜けた声をあげたあと、自分が言ったことを頭の中で繰り返した。何を喋ったんだ、ぼくは。彼女の一番近い場所にいる権利を要求した? それだけじゃない。夏さんが生きていく日々が素敵であってほしい、そのためにぼくの時間を捧げることも何ら厭わない。


 本心だ。

 本心だけれども、あまりに出過ぎた頼みではないか?


「ごめんっ、言い過ぎ……」


「いいですよ」


 今にも引っ込めようとしたぼくの手に、彼女の小さい手が触れた。冷たい手だな、と思った。

 そのまま、半ば強引に手を握られた。

 ロマンティックな物語とは似ても似つかない、まるで商談のような握手を交わす。


「それとも、やめておきますか? 本気じゃありませんでした?」


 彼女がふふ、と悪戯っぽく笑った。彼女のペースに乗せられてしまい、ぼくは次の言葉が出てこない。


「別に体裁はどうでもいいんです。恋人でも仲間でもいいんですが、私を理解して、最期の日まで一緒にいてくれるパートナーとして優治さんがいてくれるなら、それも良いかなと思いました」

「ぼくが君を理解できているとは思えないけど……」


 焦るな、慌てるなと自分に言い聞かせながら、ようやくそれだけ言う。


「当然です。全て知られたら逆に困ってしまいます」


 彼女はぼくの手をやっと解放して、ソファーに座り直した。さっきまで彼女の手に触れていた右手と、ぼくの膝の上で固く握られていた左手は、一対の手のはずなのに全く別物のように思われた。


「それでも、貴方が私を信頼して幾らかの素顔を見せてくれているように、私もほんの少し、自分のしたい分だけ、素顔を見せられる相手が必要なんです。そんな相手はこの世界にほとんどいませんから。――さっきから自分のことを『ぼく』と呼んでいますね?」


 そういえば、と口を押さえるが、もう出てしまった言葉が戻るはずもなく。いつからか、強がりの現れであったり、あるいは周囲の変化に合わせて、一人称が変わった。でも本当はぼくと呼んだほうが馴染むのだ。このギャップはそのまま、大人になっていく「俺」の身体とそれを拒む「ぼく」の心の乖離であるのかもしれない。


 彼女の前ではぼくは嘘を吐きたくない。

 意地やプライドの象徴である一人称は、出てくる余地もなかったのだ。


「自然に言ってた……」ぼくは、赤くなっている気がして顔を抑えた。


「無意識こそ、一番信頼できる真実だと、そう思いませんか?」


 優しい声が降り注ぐ。


 そして、彼女は今まで見たなかで一番の笑顔を浮かべた。宇宙のような暗闇のような瞳が細められて優しい印象になる。やはり彼女の笑顔はどこかコントロールされた印象を受けるけど、偽りでないのは彼女の一万倍鈍いぼくでも分かった。


 よろしくお願いします、とぼくらは互いに言った。


 ☆

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