26.ほろ苦いココア
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「……このココア、苦いです」
幾分かいつもの調子を取り戻した夏が、マグカップをコースターに戻して言った。
「えっ? 台所のココアパウダーを使ったんだけど」
「砂糖を入れないと、優治さんが知っているようなココアにはならないですよ」
「……そうなのか」
ぼくらは顔を見合わせて苦笑いした。
ほんのりと苦い、ココアの匂いが広がる。
「そういえば、一つ不思議だったことがあって」
ふと思い出して口に出してみる。机の上には、リビングから持ってきたアンティークな角砂糖の瓶がある。夏は角砂糖を幾つかマグカップに放り込んで、マドラーでココアをかき混ぜながら、ぼくの顔を見た。
「父さんが見舞いに来たとき、何も伝えずに出て行って……みたいなことを言われた。だけど、ぼくの記憶が正しければ出掛ける前に書き置きを残した気がするんだ」
この辺に、とぼくはテーブルの上を指さした。叱られた記憶は、ココアの薫りより苦い。
確か「夜には帰る」とだけ書いたはずだ。
行き先も具体的な時間も書かなかったので心配させるのは当然なのだが、何も伝えずにと言われるのは違和感があった。
ぼくはうーん、と唸る。
「何かに紛れちゃったのかなぁ」
「あのメモ書きですか。それなら私が処分しました」
当然のようにさらりと言われた。
ああ処分されたのか、なるほどと一瞬納得して、いやいや、と思い返す。
「え、何してるの? それで余計大変なことに……」
「大事にならないと困ったんです」
ぼくの言葉を遮るように彼女が言った。その顔は真面目そのものだった。
「大騒ぎになって、色々な人に心配されればその分だけ、見つけられる可能性が上がります。あなたが事切れてから大騒ぎになっても遅いんですから。分の悪いことに、最近の優治さんは外を出歩くことが多く、早朝に出掛けていったと知っても、他の人は大して心配しないだろうと考えました。なので少々強硬手段にでたんです。ごめんなさい」
「いや、謝られるのもなにか違う気がするけど……それ、ぼくが死ぬつもりだったのを知ってたってことだよね」
「確信は持てなかったけど、おおよそ察しは付いていました。それに出会ったときから、貴方が死にたがっていると知っていたから」
確かに、一番最初に彼女に言われたのがそれだった。
あの駅で彼女に出会ったのはほんの半月前の話なのに、遠い昔のようだ。
「不思議だ。ぼくは死にたいなんて誰にも言わなかったし、言えるはずがないと思ってた。夏さんの洞察力……かな、すごいな」
「大層なものではありません。ただ、同じことを考えている人からは、同じ匂いがするものです」
彼女はそう言って、括った髪が顔に落ちてきたのを手で払った。髪の束がさらりと泳ぎ、太陽の光を受けて金色の残像を描く。その見事な曲線に見とれるぼくの頭の中で、同じ、という言葉が反響していた。
すぐには意味をかみ砕けず、言葉はあめ玉のように転がっていた。
――意味が分かってぞっとした。「何が」「何と」同じなのか。その部分に当てはまる文章がようやく組み立てられた。分かってしまった。
ぼくが死にたがっているのが、彼女と同じ。
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