24.日常への回帰
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ぼくが退院した日は火曜日だった。
平日の空いた電車を乗り継ぎ、辻ヶ丘に帰った。
少し体力が落ちたようで息が切れ、頭が痛かった。今日の授業は欠席ということになっているらしいので、登校の時にいつも曲がる角をそのまま通り過ぎ、翠緑荘に戻った。
当然ながら住人は出掛けていて、無人のリビングでぼくは無為に時を過ごした。
ティーパックで紅茶を入れたけど、ぼんやりと庭を眺めているうちにたちまち冷めてしまった。
父さんに言われたから、という訳ではないけど、ぼくは目覚めてからずっと、あの日のことを忘れないように何度も反芻していた。
不思議な静けさと共に目覚めた朝のこと。
この世のものではないように思われた朝焼け。
あの人の墓に吹いていた風の冷たさ。
そして、夢のなかにいるような気分のまま、手首を切って意識を手放したこと。
手首の傷は想像以上に浅く、すでに塞がり始めていた。
ほとんど傷跡も残らないだろうと言われた。ぼくとしては、残ってほしかったと少しだけ思う。
そうすれば、ぼくはあの日のことを忘れないだろうから。
あの日のことを回想する旅ではいつも、宇宙を漂う景色、そして光の中で涙を流す彼女の姿に辿りつく。
この二つはどちらも朦朧としたぼくが見た景色だけど、前者は回想を繰り返すたびに彩度を欠き、遠い記憶になっていった。やはり夢だったのだ、と今では当然のように信じているのだが、目が覚めた当時はそちらの方が現実のように思えたのだ。
そして後者、彼女の姿は逆にどんどん真実味を増していった。
「夏さんが優治を助けたんだ」という周囲の言葉と一致していたというのもあるが、あれは夢ではないのだと確信に至りつつあった。
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ぼくの前に現れた彼女は、月のネックレスを渡した後、ぼくに問いかけた。
「これからどうしますか?」
言葉の意味が分からず、彼女の声が綺麗に響くのを聴いていた。
「優治さんが助かりたいなら、そのように。死にたいなら、そのようにします」
「死……?」
自分が死にかけているという感覚がなかった。なぜならぼくは、宇宙を漂う夢から醒めたばかりだったのだから。
「優治さん、見えますか? 雪が降っています。ここで眠っていたら死んでしまうのですよ?」
その口調はずいぶん、必死なものに聞こえた。
今まで、ぼくは彼女の顔に一切の感情を感じたことがなかった。笑ったり眉をひそめたりはするものの、それが心からの感情であるという感じを受けなかった。いつも無機質で、まるで現実味がなく、どこか神々しさを感じた。
そんな無が彼女の本質だと思っていたのに、いま、彼女は涙を流していた。
ぼくに選択を委ねながら、それでも本当は死なせたくないのだ。だけど、自分の感情を抑え込んで、ぼくの意思を尊重してくれている。
なんて綺麗な心なのだろう。
その高潔さに感動したから、ぼくは言った。
「任せるよ」と。
そうして、今、ぼくは生きていた。
今でこそ助かって良かったと思うけど、あの瞬間のぼくは本当にどちらでも良いと感じていた。だから、任せるとだけ告げて目を閉じた。
それからの記憶はない。
彼女がぼくの言葉に苦悩したのかあるいは迷わずに決めたかは分からないけど、彼女にぼくは命を預け、それを彼女が今日に繋いでくれた。
ぼくは一度死んで、彼女の手によって再び生き返ったようなものだ。
だから一生かけて彼女に感謝をしよう。
まあ、それを彼女が望めば、の話だけれど。
彼女に恩を返すために生きる。
何者にもなれずに命を浪費することが、怖かった。
では、そういうシナリオを紡ぐために命を使うのは、どうだろう?
リビングに差し込む光が傾くころ、庭を回り込んでくる足音が聞こえて玄関の扉が開いた。ぼくは息を潜めて、音の主が部屋に入ってくるのを待つ。
数秒後、彼女が扉を開けた。
まるでぼくのいることを初めから知っていたかのように笑顔を湛えて。
彼女としばらく目が合っていた。
その時間はそれこそ永遠のように感じられたけど、おそらく本当は数秒のことだっただろう。
「お帰りなさい」
そう言って、次に彼女は頭を下げた。
「ごめんなさい。勝手に助けてしまって」
たちの悪い冗談だと思った。
だけど俯いた彼女の笑顔が、今にも泣きそうに歪んでいるのに気づいた。
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