2.スポットライト
☆
カーペットの端に座り込んでぼくは話を四半分に聞いている。
望んだつもりもないのに最近背が伸びて、いくぶん部屋が狭く感じるようになった。伸ばしたら邪魔になる両足を抱え込んで、ただその場に存在する、という作業をしている。
部屋の真ん中で、翠緑荘の住人たちに囲まれる彼女はというと、一片の曇りもない笑顔で楽しそうに喋っていた。ぼくに話しかけたときの、精密に設計された完璧な笑顔とはまた違う。程よく親しみやすい、なんというか普通の女の子だ。
彼女は、夏と呼ばれていた。
最初に目が青色だと思ったせいか、彼女の目は青色にしか見えなくなった。白い肌に薄い色の髪、青い瞳、これまた白い服とまるで人形のような出で立ちを、柔らかい表情が緩和している。
年齢はぼくのひとつ下らしい。初対面の印象はとても年下のものとは言えなかったが、こうして話しているのを見ると、たしかに、とも思う。
「ついに俺らより年下が来たか、なぁユージ」
お調子者の幼馴染が楽しそうに話していた。可愛い子が引っ越してきたからはしゃいでいるのだろう。彼はとても分かりやすい。
「そうだな」とぼくは適当に相槌を打つ。翠緑荘はめったに住人の出入りがない。数えてみると、最後にメンバーが増えたのは五年まえだった。
夏が椅子に座り直して、こちらを向いた。
「ユージさん、と仰るのですか?」
話題の矛先になったぼくに視線を向けて、小首をかしげた。「はじめまして」
「どうも……」
駅のホームでのできごとは無かったことになったのか、それともぼくの顔までは覚えていないのか。正直なところ、いまの彼女の態度は演技にしか見えない。あの凄まじい視線を放つことのできる少女が普通の女の子を装うことはできても、その逆はできないだろうから。おそらく知らないふりをしているのだろう、と思う。
「優治……です。優しいに、治療のチで優治」
ぼくは場を盛り上げるような返しが思い付かず、自分でも吃驚するくらい暗い声で自己紹介した。
「優治、夏さんは三階の空き部屋に入ってもらうからね」
ドアの隣に立った父さんが相変わらず優しい声で言った。ここでは男女でフロアが別れている。二階は男性、三階が女性の居住エリアだ。
「何かあったら助けてあげなさい」
「わかってるよ」と言って、ぼくは立ち上がり、そのまま逃げるようにリビングを出た。自室へ向かう。
こんなどうしようもないのが、最近のぼくです。
自分の情けなさは分かっていて、それでも、分かりたくないから布団で目を閉じる。
高校生になっても、隣人が増えても、たぶんぼくはこのままだろう。
☆
あっという間に四月が来てしまって、地元の高校の入学式の日になった。
新しい制服に腕を通して、窓ガラスに映る全身を見た。ぱりっと糊のきいたブレザーはつれない印象だ。そこに置物のように乗っているぼくの見慣れた顔。目は開ききっていなくて、どんよりと暗い。
時刻は六時半。ぼくはリビングに向かう。この時間帯なら、まだ人が起きていないことが多いから、誰かと鉢合わせしたくないぼくは自然に早起きするようになった。いいことなのか悪いことなのか分からない。
足音を立てないように注意して、緑色の手すりに手を滑らせ、階段を下っていく。翠緑荘、と名づけられていることに関係しているのか、この建物は青みのペールグリーンを基調にして作られている。むかしは、集合住宅とはいえ大きくて綺麗な家が自慢だった。でも今のぼくは、大きな家なんていらないからひとりにして欲しい。そう思ってしまう。
四月とは言え、朝の廊下はまだまだ冷え切っている。なにか温かいものでも飲もう、と思ったが、リビングに近づくとすでに珈琲の匂いがした。ということは、誰かがすでに起きていたらしい。
引き返そう。
そのつもりだったが、ぼくが階段に戻るより早く、リビングの扉が開いた。
逆光の中に見慣れないシルエットが見えた。否、見慣れているはずなのだが、最近髪をばっさりと切ったもうひとりの幼馴染が、一瞬だけ知らない人に見えたのだ。
「ユージ。起きてたの」
気づかれてしまったので、仕方なく、ぼくはリビングに引き返した。淹れたての珈琲の匂いがリビングを染め上げている。リビングの椅子に我が物顔で座っている彼女は、優雅に珈琲をすすりながら「おはよ」と素っ気なく言った。
彼女は、四六時中と言っていいほど翠緑荘に入り浸っているが、ここの住人ではなく、近くの商店のひとり娘だ。つり上がった意志の強そうな目が、ショートカットの髪型によって強調されている。それにしてもこんな早朝から来ているのは珍しい。
「珈琲、ひとりぶんにはちょっと多いから。あんたも飲みなさいよ」
幼馴染とふたりきりなのは気まずいけど、ぼくも珈琲は嫌いではないし、ちょうど身体が冷えていたので、ありがたく飲むことにした。冷蔵庫から出した牛乳をすこし足してから飲む。薄暗い部屋に沈黙が落ちる。自分からなにか話を振る気にはとてもなれなかった。
「まだ、あんた以外起きてないワケ?」
マグカップをコースターに置いたのを皮切りに、彼女が口を開いた。
「たぶん」とぼくは返す。
この翠緑荘は住人同士の心理的な距離がかなり近いけれど、いちおうは集合住宅の体をとっているので、部屋ごとが独立して鍵がかかるようになっている。就寝するのも各自の部屋だ。なので、他の住人が起きているかどうかまでは分からない。
そのことは彼女も知っているはずで、したがって、ただ話のきっかけを作ろうとしただけなのだろう。そのくらいはぼくでも分かる。
「ふぅん。まぁ、まだ七時前だもんね」
「うん……。郁乃こそ、どうしてこんな時間にいるんだ」
ぼくが自発的に喋るのを待っている雰囲気に耐えられず、ぼくは適当な質問を投げかけた。つまらない質問だが妥当な疑問だろう。
彼女はふいと顎を逸らして、落ち着いたトーンで答える。
「……別に。入学式でワクワクして早起きしちゃったってとこよ」
ワクワクして、か。同じ珈琲を飲んでいて、同じ制服を着ているのに、ぼくらの心情のなんて食い違っていることだろう。ぼくらは長い年月を共に過ごしていて、それでも相手の心情ひとつろくに想像できないのだ。
まあ、そういうものなんだけど。人間って。
だけど、そういえばあの子は。真っ白な彼女は、ぼくの深層に隠れた、誰にも言わない本音を見事に言い当てた。真っ暗な深海に、道具も使わず降り立った。
「そういえば、なっちゃんもそろそろ始業式かな」
ちょうど彼女のことを考えていたので、幼馴染にその名前を出されてどきりとした。幼馴染とは早くもあだ名で呼ぶ関係になっていたらしい。
「だろうな」
「ユージ、あの子と何かお喋りした? すごくいい子だよ」
「いや、あんまり……」
ぼくは言葉を濁す。廊下ですれ違ったときに会釈をするくらいだ。
あれ以来、彼女は『新しく引っ越してきた、十四歳の善良な女の子』として自然なふるまいを続けていた。駅のホームで見せた刺すような視線は隠したまま。まったく裏のなさそうなふるまい。しかし、それ自体が、裏にしか見えない。
しかし、そのことを話す気にはなれなかった。他の無難な話題を探す。
「……あの子、ファッションが変わってるな。いつも白い服を着てる」
ぼくが彼女について言える、まったく当たり障りのない話題といったらこれくらいだ。
「え、そうだっけ?」
幼馴染は首をかしげる。あんなに目立つのに。「そういえばそうだった気もするわね」と曖昧な返事に曖昧な笑顔。例えるなら、この薄暗いリビングに差し込む朝日がそうであるように、眩しい白だったのに。
だけど、それもそうか。世界の全てをきらきらと反射させて、スポットライトの下で生きているような、幼馴染には分からないだろう。あの明るさは、あたかも夕暮れどきの太陽がひときわ際立つように、どんより落ちくぼんだぼくの目にしか、映らないのだ。
なんてね。妄想ならもっと面白いことを考えるべきだ。
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