19.祈りの庭園
☆
窓から差し込む光の暖かさに、いつの間にかまどろんでいたようだった。
何だか、夢のなかであの人と話していたような気がする。
涙でかすんだ目を擦りながら、バスの車内を見回した。
数人乗っていた客はもういなくなっていた。運転席の横に設置されている昔ながらの液晶を見て、まだ目的地には着いていないと分かり安堵する。
バスは、左右に小刻みに揺れながら、峠を越えようとしていた。駅前から広がる町並みが遥か下に見える。白くて小さい花が道ばたに咲いていた。車道にまで広がってくる草花の隙間を縫って、軽快に坂を下りていく。
低木に覆われた山が広がる、その間にあの人のいる場所はあった。
お金を払ってバスから降りる。普段使っているプリペイドが使えなかったので、小銭をかき集めて払った。バスが行ってしまうと、見渡す限りぼくの他には植物しかなかった。
木々の隙間に、ともすれば見落としそうな木製の階段がある。車だと遠回りする必要があるのだが、徒歩で行くならこの道が一番近いのだ。ぼくは時間を確かめて、その階段を一歩一歩昇っていった。
薄暗い森の中をまっすぐ通る階段の上に、光が見えてきた。
ぼくは時間をかけて、その階段を登り切る。
ちょうど、九時になっていた。
開けた場所に出た。
センターラインのない車道を横切り、入り口の門をくぐる。ヨーロッパのガーデンを思い起こすような華やかなデザインの門だ。何も知らずに訪れた人はフラワーガーデンだと思うだろう。
煉瓦を敷き詰めた地面に、そこかしこに作られた花壇。頭上に渡されたアーチは、色とりどりの小ぶりな花に覆われていた。魅力的だが、しかしそれを見に来たわけではないので、ぼくはアーチの並ぶ下をくぐり抜けて奥へ向かった。
その向こうはゆるい下り坂が広がっていた。格子のように巡らされた煉瓦の道を一本選び、下っていく。しばらく下ったら今度は、直角をなす別の道に曲がる。
無事に目的地に辿りつき、そこにあるベンチに腰掛けた。
そして、向かい合う。
翠という名前がローマ字で彫られた緑色の強化ガラスを、石の台座に乗せたオブジェ。ガラスは平たい円盤の形に削り出され、表面は綺麗に磨かれている。
そうと知らなければ、これが何なのかすぐには分からないだろう。
ぼくは声に出さず呟いた。
久しぶり、母さん。会いに来たよ。
☆
日々、どれだけ嫌な気分になっても、死にたいとまでは中々思えなかった理由がここにある。
思ってはいけないことのような気がしたのだ。
生きているという特権を持ちながら、それを持たない人を身近に知りながら、死にたいなんて宣うのはあまりにもその人に失礼じゃないか。亡くなった人のぶんまで生きる、なんて大層なことは考えてもいないが、自分は「生き残った側」の人間であるという認識がどこかにあった。
ぼくは、ぼんやりと目の前の墓を見つめる。
ガラスと石を組み合わせた、珍しいデザインのものだ。円盤状のガラスが、曲率の違う滑らかな弧を描く石に支えられている。シンプルな直方体の墓石が並ぶなかで、彼女の墓はひときわ目立っていた。
もっとも、どのくらい目立ったところで、本人には適わないと思うのだが。
特別美貌だった訳ではないが、母さんはかなり目立つ人だった。華やかな色の服を好み、明るい色に染めた髪を長く伸ばしていた。着方によっては悪趣味になりそうな鮮やかな色の服を、見事に調和させて着こなした。
そして何より、色素の薄い瞳が印象的だった。
光の当たり具合によっては緑にも見える、日本人にしては薄いブラウン。
ぼくや姉もその要素を引き継いだが、父さんの方は普通のダークブラウンの瞳であるせいか、彼女ほど目立つ色はしていない。
あの人の容貌、声、喋り方にその内容も、全て覚えている。
記憶のなかで再構築された彼女の像は完璧で、目を閉じれば今にも彼女がぼくの頬に触れるような気がするのに。
彼女は世界中のどこにもいないし、ここにもいない。
いないのだが、それでもここに来れば彼女の言葉が聞けるような気がして、来る度にそれがあり得ないことを再確認する。それでも、またここに来てしまう。
そんな呪いにかかっているのだ。
母さんが亡くなった七年前から、あの人の思い出は呪縛でしかない。
考えない方がずっと、平穏に過ごすことができる。
それでも、ぼくの心が危機に瀕したときには、逆に母さんの思い出こそが、ぼくを平常に戻してくれた。
思い出とは、はるか遠い場所につながっている命綱のようなものだ。ごく弱い力で、しかしどんな時も常に、ぼくの心をある方向へ導こうとしている。
心を静め、耳を澄ましてその糸が指す方向に従えば、きっと正解を示してくれるのだ。
そう、思っていた。
だから語りかける。目を閉じて祈る。
母さん、言ってくれ。
ぼくはまだ生きていて良いんだと。ぼくには価値があり、そうは見えなくても誰かに認められていて、自分の手で進むべき道を選ぶことができる。今はちょっと不幸せに思えるかもしれないけど、未来には必ず報われるから、ここで可能性を絶つべきではないと、そう証言してくれ。
保証してくれ。約束してくれ。
頼りないぼくの代わりに。
結局、人任せだなぁ。ぼくは自分の愚かさ加減に呆れ、苦笑いした。
言いたいことを心の中で吐き出し終わると、妙にすっきりとした気分になった。目を開けると、当然ながら、もの言わぬ墓石だけが何も変わらずそこにある。
もちろん、祈ったような言葉はどこからも聞こえてこなかった。
当たり前のことなのだが、その事実が絶望をぼくの胸にもたらした。
渦巻くような激しいものでも、燃えるような苦しいものでもなく、冷え切った宇宙のような絶望が身体を満たす。
いっそ、幻聴でも聞こえたら、まだ良かったのにな。
あなたでさえ、ぼくを助けてくれないことに気づいてしまったよ。
ベンチに背を預けると、春風と言うには少し冷たい風が、ぼくの髪の毛を逆立てて通り過ぎていく。
墓参客はぼくの他に誰ひとりいない、もの言わぬ石の並ぶ斜面を見渡した。すると、自分が遥か上空から世界を俯瞰しているような浮遊感を感じた。しばらく、その心地よさに身を任せる。
幽霊になったらこんな感じなのかなぁ、と思った。
半ば、死ぬつもりで出てきたんだ。
本当は。
死ぬ前にあなたに会おうと、そう思ったんだ。
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