18.ありふれた記憶
☆
鈍行の電車は海沿いを走っている。
無人の車両。古びて、汗と埃の染みた、どこか前世紀から持ってきたようなドア。
ぼくは扉にもたれかかって、闇のなかから次第に色づく海をぼんやりと眺めていた。
太陽が水平線に現れ始め、雲の隙間から放射状の光を放つ。僅かにピンク色を含んだ藍のグラデーションは、別の世界のようなひとときを見せる。
そんな幻想的な色調のなかにぼくは佇んで、ただ静かに、目的の場所へ着くのを待っていた。
一度乗り換え、また四十分ほど待って、電車は目的地に着いた。その駅には落下防止の柵すらなかった。人が集まるような街ではなく、リゾート向きの立地だから開発は遅れがちだ。この駅は沢並から五十キロと離れていないだろうが、まったく趣が異なる。
駅前で花を買っていこうと思ったのだが、当然と言うべきか花屋は開いていなかった。
あの人が喜ぶだろう。
と、そう思っていたので計算違いに少しがっかりした。考えてみれば、それは当然のことなのだが。なにしろ、まだ七時半だ。この時間に営業している花屋を探す方が難しい。
しばらく花屋が開くのを待つことも考えたが、無愛想に降ろされたシャッターにある、張り紙に書いてある開店時刻までは二時間以上待たなければならなかった。
仕方ないと思って諦める。
目的地に向かうにはバスが手っ取り早いのだが、これまた早朝のため便が少なく、しばらく待たなければならなかった。
簡素なベンチに座り、バスを待つ。
陽はすでに昇っていたが、バスターミナルは駅の影になってしまっていた。薄暗く寒いバスターミナルには、ぼくの他に誰ひとりいなかった。
たまに、駅に入っていく人がいる。
二十分ほど待ったあと、時間から八分遅れてやって来たバスに乗り、整理券を取る。辻ヶ丘にいると、駅が近く、バスに乗ることはあまりないので少し緊張した。
何人か先客がいたが、俯いて動かず、地蔵のようだった。
ぼくは空席の一つに陣取り、窓枠に肘をついて外を眺めながら、これから会いに行く人のことを考えた。
☆
その人は、ぼくのことを「優治くん」と真面目くさって呼ぶ。
応接スペースでぼくの前にホットミルクを置いて、ぼくの向かいに座った。
布製の、刺繍が施されたコースター。ノルディック柄のマグカップ。ガラス製の花瓶に生けられた花。
無骨な折りたたみの椅子と机ばかりの部屋でも、住人が、生活に彩りを添える努力をしていることが窺えた。
「さて。今日は、教科書のここからだね」
「……仕事はいいの?」
その人がぼくの持ってきた教科書を開き、机の上に放り出してあったボールペンを掴んで、くるりと回し器用に持ち替えた。あまりにもその仕草が堂々としていたのだが、なんせそこはその人の職場でもあったので、ぼくは少し気になって聴いてみたのだ。
「いいの、いいの。今は待つ時間だからさ、そういうときがあるんだよ」
「ふぅん……」
本当だろうか。
ドアの向こうから、同業者と思わしき人々の交わす声が聞こえるのだが。
「はいはい。優治くんは集中して」
分かったよ、と言う代わりにぼくは口を尖らせた。
ほんの少しだけ。
あまり好きな教科ではないけど、だからこそ教えてもらっているわけで。
その人はどこからか裏紙を持ってきて、ぼくから正しい向きに見えるように、逆向きにさらさらと文字を書いていった。その筆跡は綺麗で、普通に書いたものと比べても遜色がない。
どうしてそんなことができるのか、聞いてみると、「こうしないと優治くんから見えないじゃぁないか」と当然のように言われた。
「……ええ?」
しばらく、呆れてものが言えなかった。
「そうじゃない。ぼくが聞いてるのは、何でそんなことできるのってこと」
「ん? 今、言ったけど。必要は発明の母なんだよ」
「なにそれ?」
「辞書を引きなよ」
馬鹿にされているような気がして、むっとした。
その人はにやりと笑って、椅子に背を預けて足を組み変えた。
「ははぁ、優治くんもやってみたいんだな。ちょっと慣れれば簡単だよ。じゃあ教科書はやめてそっちの練習するかい」
「いい。自分で練習する」
はは、とその人は快活に笑った。
そういう、よく分からない特技を大量に持っている人で、果たして習得する苦労に見合っただけの見返りはあるのだろうかと不安になるが、本人は気にもかけないようだった。とにかくよく笑う。そして、鼻にこそかけないが、とても優秀な人なのだ。
そんな人だ。
コツコツと、控えめにドアが叩かれる音がした。
「はい、どうぞー」
と、その人が答えを返す。
気がつくと、勉強を始めてから一時間近くも過ぎていた。面白みが分からない教科でも、具体的なエピソードを加味した軽妙なトークによって展開されると、何だかおもちゃ箱のように見えてくるから不思議だった。
「主任ー、そろそろ帰ってきてくださいよー」
「はいはい、ごめんね。結果、もう帰ってきた?」
「とっくに来てます! いま帰ってくるべきは結果じゃなくて主任ですよ!」
扉の隙間から顔を出した女性がコミカルに頬を膨らませる。怒っている体ではあるが、冗談の延長に過ぎないことが分かった。それだけ二人は仲が良いと言うことだろう。というよりも、職場全体がそうであるというべきなのか。
「白峰ちゃん、ごめん、あと一分だけ」
「はぁ。早くしてくださいね」
彼女はあきれ顔で顔を引っ込める。ぼくは、ちょっと居心地が悪くて肩をすくめた。そろそろ帰らないと行けない気がした。
「じゃあ、悪いけど。一旦、戻るね」
「ぼくはもう戻るよ」
と、鞄を持って立ち上がった。気をつけて、と花瓶の向こうで手を振ってくれる。
遠くでその人の名前を呼ぶ声が聞こえた。
翠さん、と。
☆