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真空のなかのドレス  作者: 織野 帆里
四季の外縁
17/45

17.夜が明ける

 ☆

 

 あの後、よく部屋に戻れたものだ。それだけは褒められてもいいと思う。


 ともあれ、ぼくは気づいたら電気の消えた部屋で倒れるように眠っていたようだ。ようだ、とはずいぶん他人事のような言い方だが、自分で寝た覚えがない。


 記憶を辿ってみたが、彼らの演奏を聴いたあと、強烈な疎外感を覚えてその場を逃げ出したことしか思い出せなかった。

 ……あまり、思い出したいことでもなかったが。

 それ以上考えようとすると、胃が締め付けられるように痛んだから、きつく目を閉じて無理やりに思考をストップした。


 時計を見た。午前二時。

 あのあとすぐに眠ったなら、六時間以上は眠っていたことになるだろう。おかしな寝方をしていたせいで腰が痛んだ。


 ぼくは、半分床に落ちた身体を持ち上げ、ベッドに寝転がる。


 耳鳴りか、人の声か、遠くで轟々と流れる水のような雑音が永遠に響いている。僅かな外の明かりに応じて、例のネックレスの、作り物の月がきらきらと光っていた。

 

 すでに結構眠ったためか、まったく眠りに落ちる気配がなかった。


 最近までなかったことだが、眠れないというのは存外に苦痛だ。ただ毛布を被って目を閉じているだけなのだが、何度も寝返りを打つうちに疲れてくる。

 加えて、眠らなければならない、という焦りがぼくを責め立てる。眠るためには意識を手放さなければいけないのに、眠れないと思えば思うほど色々考えてしまう。


 ぼくは、時折うめきながら目を閉じていたが、そのうちに諦めて部屋の中をぼんやり眺めていた。


 結局、一睡もできないまま、空が明るくなり出した。


 眠れないまま横になっていたためか、内側から叩かれるように頭が痛かった。こんなことなら、初めから寝るのを諦めておけばよかった、と思う。


 ぼくはベッドから起き上がり、昨日から来たままだった制服を普段着に着替える。休日に使っている古い鞄をひったくり、財布とスマートフォン、家の鍵を入れ替える。


 そのまま、足音を立てないように部屋を出て、階下に降りた。


 リビングは、ぼくの予想通り無人だった。


『夜には帰る』


 付箋に書き置きを残して、リビングのテーブルに貼り付けた。壁に掛けられた時計を見ると、5時を数分回った頃を指していた。


 冷たいスニーカーを履き、モノトーンの玄関をくぐる。


 外には、明け方の空が広がっていた。

 星が浮かぶ真っ黒の天球が、東から徐々に、思い出したように、色を持ち始める。その色は、深海に沈んだエメラルドを思わせた。


 空気は凍るように冷たかった。

 昨日、雪が降っていたのだからそれも当然だろうか。積雪することはなかったようだが、肌にぴりぴりと刺さる空気の鋭さは雪の名残を感じさせる。


 いまは昨日の続きなのだと思い出した。


 ぼくは翠緑荘の敷地を出て、小さい茂みを抜け神社側に入った。昨日あれだけ人がいたのが嘘のように静かだった。商店街にある店の名前が入った提灯は残っていたが、路上ライブの設備はしっかり片付けられたようだった。


 朝の、静謐な空気はまるで深海の底のようだ。


 騒音やチリや、空気に混ざる汚れのようなものが、深夜の間に地面に落ちてゆき、沈殿する。そうして上澄みのように、透き通った清浄な空気が残るのだ。


 ぼくは息を吸った。

 そして、吐いた。


 昨日のぼくが抱いた、悲しみだか苦しみだか、もはやよく分からない感情は、未だ腹の底で渦巻いている。だが、朝の空気は、身体を絞られるようなその痛みを少し薄めてくれるように思えた。


 ぼくは石段から、辻ヶ丘を見下ろした。


 育ちの割に、神道に対する信心はほとんどない。しかし、この神社の神様は毎日この景色を見ているのか、と思うと少し羨ましい気がした。


 よく、宇宙と比べると悩みなど小さなものだ、という言い回しが使われる。

 ちなみにぼくはこれが好きではない。宇宙に比べればたしかに悩みは小さいものだが、同様にぼく自身もちっぽけなものだからだ。矮小なぼくの些細な悩みは、ぼくから見れば宇宙より大きいものなのだ。


 それでも、壮大な景色は少し心を洗ってくれる。


 それは、悩みの小ささを実感するというよりは、ただぼくという存在の小ささを忘れられるからに他ならないのだが。


 ともかく、ぼくはあまり胸の奥に意識を向けないように、自分の外側に目を向けるようにして坂道を歩き出した。


 滑り止めの円が刻まれたアスファルトの固さとか。あるいは、頬に当たる風の冷たさとか。田舎の、つまらない街だが、注意して見れば情報量が多いものだ。

 世界中に溢れる雑多な情報で、頭のなかを洗い流そうとした。

 

 ――長い坂を下るあいだ、ずっと桜の芳香がぼくにまとわりついていた。


 良い香りだとは思う。

 しかし、どこか粘ついていて不快だった。それを振り払うように、できるだけ早く歩き、駅に行って、人の少ない電車に乗った。


 電車の扉が閉まると、桜の香りは嘘のように四散した。


 どこかに行くことではなく、ひとところに留まらないこと、移動それ自体が目的だった。ひとたびどこかに立ち止まれば、途端に脳が昨日のことを反芻してしまうからだ。

 しかし、目的地は決まっていた。

 

 ぼくには、会いたい人がいた。


 ☆ 

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