15.桜隠しの夜
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どうにか、坂のてっぺんの鳥居まで辿りついた。
神社に向かう石段も、翠緑荘に向かう道も人が多かったので、ぼくは石段の脇から伸びるけもの道を上っていった。一応人が通れるだけの道幅はあるが、草が生い茂っているので、観光客にはそこは道だと認識されていないようだ。
腰ほどの高さがある低木の間に分け入るぼくを、着物姿のカップルが不思議そうな目で見ていた。
翠緑荘の前には、白い仮設テントが立てられていた。
今朝はなかったもののはずだ、と思う。恐る恐る中を覗くと、翠緑荘の住人が二人いた。
折りたたみの机が設置されていて、コードが伸びるマイク、それと繋がった何かの機械、分厚いコピーの束などが置いてある。
「あ、優治くん。おかえり」
中にいたうちの一人が、ぼくに気づいて微笑みかけてきた。
「達海さん……これは? 前夜祭と聞きましたが」
彼は童顔だが、ぼくよりずっと年上の大学生だ。物腰が柔らかい彼は、えっ、と首をかしげた。
「これは、って? 分かってるじゃない、前夜祭だよ。聞いてない?」
「例年にはないことですけど……」達海さんの隣から、もう一人が補足した。彼女も翠緑荘の住人で、達海さんと同い年の女性。
名前を千理さんという。
「昨日、灯子さんが説明していたときに、たしかに優治さんはいませんでしたね」
「えっ! ああ、そういえば、いなかったね」
「……昨日、ですか」
想像は付いた。ぼくが彼女と沢並を歩いていた頃だろう。
もちろん、前夜祭を行うことが昨日になって初めて周知されたとは思えないが、何しろぼくは翠緑荘の住人とほとんど話をしていなかったのだ。情報が来ていなかったのも納得の道理である。
ぼくは準備以外の役割を与えられていなかったから、伝える優先度が低かったのだろうと想像できる。
灯子さんは四方八方手を尽くしてぼくを桜まつりに引き込んだが、ぼくの仕事をできるだけ削減してくれようとしたのだろう。
ぼくのための、彼女なりの優しさだったはずだ。
その思いやりが、結果としてはぼくを疎外した。そういうことだ。
「大丈夫です。優治さんは特に今日はお仕事はありませんから、前夜祭を楽しんできてください。あ、荷物、ここに置いてもらっても良いですよ」
千理さんの優しい言葉が、ぼくに突き刺さった。
ぼくはお礼を言って、スクールバッグを置き、仮設テントを後にした。この辺りにはほとんど観光客は来ていないが、木立を挟んだ向こうの境内から、賑やかさが伝わってくる。
あちらは大通り以上に賑やかなようだった。
ぼくは導かれるように、ふらふらとけもの道を降り、石段を登って境内に向かった。
☆
やけに賑やかだ、と思ったのは間違いではなかったらしい。
様々な音が重なり、重奏のように鳴り続けている。
見慣れた境内が狭く見えるほど、人が集まっていた。無秩序に散らばっているような人々は、よく見るとみな同じ方向を向いていて、その中心に何かがあるのだと気づく。ぼくが石段を登り切った途端、聞こえていたノイズのような音が急にはっきりと聞こえだした。
それは、心臓を揺らすほどの打撃音に始まり、重厚な弦の音から軽やかな高音まで全てが一体となり、ぼくの耳に届いたとき、
やっとそれが音楽だと気づいた。
輪の中心から音楽が流れ出していた。
明らかに録音ではなく、今ここで演奏しているものだと分かる。どうやら、女性ボーカルのバンドがストリートライブをしているらしい。ぼくは楽器に詳しくないが、ギターとドラム、それにキーボードがあるのは聴こえる。
旋律は人々の頭を超えて届いてきたが、肝心の発信源はよく見えなかった。
ぼくは後ろの植え込みまで下がり、演奏者を見た。
そして、自分の目を疑った。
見覚えのあるエレクトリック・ギターを弾いている、ボーカルの女の子よりも小柄な少年。端でキーボードを弾く、ショートカットの少女。
見間違えようもない。ぼくの幼馴染だった。
街灯のオレンジ色に照らされ、見慣れたはずの幼馴染たちはまるで別人に見えた。
彼らが楽器を演奏しているところは今までに見たことがなかった。
智明はたしかに最近ギターに凝っていたし、郁乃もそういえば昔はピアノを習っていた気がする。そういう風に、知識としては知っていたのだが、現実に楽器を弾いている彼らは見たことがなかった。
ようやく状況が整理されてきた。
沢並に行くとよくストリートライブに出くわす。ああいうのは無許可でやっているイメージがあるが、神社の境内で、しかも桜まつりの前夜祭である今日やっているのだったら、ゲリラ的ではなく計画されたものだったのだろう。
おそらく神主である父さんや、桜まつりの運営に携わる人々はこのことを知っているし、彼らも今日に備えて相当練習を積んできたことだろう。
そのことすらぼくは知らなかった。というより、知ろうともしていなかったのだ。
智明が隣の部屋で、夜な夜なギターのコードを鳴らしていることを知っていて、「何のために?」あるいは「何の曲を練習しているの?」とは聞こうとしなかった。そういう小さな怠慢、あるいは無関心が原因で、いつの間にか、こんな大きなプロジェクトが進行していたことにも気づかなかった。
だけど、そのことについて取り残されたような悲しみを覚えるのは、傲慢だ。被害妄想だ。
何しろ、いくらでも気づく機会はあったにも関わらず、部屋のドアを開けなかったのはぼくの方なのだから……。
すべて、ぼくの責任だ。
ぼくが招いた結末だ。
だけど、それでもぼくは問わずにいられない。
ぼくが見たかったのは、本当にこんな光景だったのか。
楽器が弾けるわけではない。音楽に覚えなどない。それでも、ぼくは本当は彼らと一緒に、今、あそこに立っていたかったのではないか?
演奏に集中している彼らの表情は厳しく、集中に張り詰めている。
見映えにまで気を遣う余裕はないらしく、ほとんど笑顔になることはない。時折眉をひそめている。しかし、その音楽や、指先の動きや、膝でとるリズムから、彼らがいかにいま楽しんでいるかが伝わってくる。
どこからか、細かい粒子のようなものが舞い始めた。
周囲の温度がすこし下がったように感じられた。ぼくは袖に落ちた粒子のひとつを見る。小さいながら、中心から六本の枝が伸びているのがはっきりと分かる。
雪の結晶だった。
彼らのステージに降り注ぐ、雪と桜の紙ふぶき。
桜隠し。
この街の人間が待ち望んだ、天から舞い落ちる奇蹟が、今まさに彼らを祝福していた。
分かっている。ぼくよりずっと、彼らの方が桜まつりのため、翠緑荘のため、あるいは辻ヶ丘のために頑張っていたことを。
この瞬間は、そんな彼らに対し与えられた、ささやかな褒美なのだ。
曲のアウトロが終わり、人垣から拍手がささげられた。
満面の笑みを浮かべた幼馴染たちを直視できなくて、俯くと、花びらと雪と、光と歓声が、全てぼくの上に降り注ぎ、ぼくの形に影を切り抜いた。
「聴いていただきありがとうございます! 辻ヶ丘高校、軽音部でした!」
マイクは、ボーカルの女の子から、ギターを演奏していた智明に渡ったらしい。演奏している残りのメンバーは、軽音部の部員だろうか。演奏していた場所が境内であることからして、おそらく企画したのは彼なのだろう。入学してから今までの僅かな期間で、軽音部の名前を名乗れるほどに部活に馴染んだのか。
「さて、皆さん、雪が降ってきましたね。この天気は、辻ヶ丘に特有の天気で、えーとぉ。アレ?」
「桜隠し、といいます。雪と桜が同時に見られる、ふつうは違う季節のものが同時に見られる、とても珍しい天気です」
見かねたらしく、後ろにいた郁乃がマイクを奪い取った。智明があっ、と声を上げて、郁乃を睨むが、郁乃は彼を無視して話し出した。
その一連の流れに、オーディエンスから笑いが漏れる。
「都内などでも見られることはありますが、非常に珍しい現象です。今夜から明日の昼にかけて、桜の枝に雪が積もっているのが見られるかと思います、皆さんぜひ、お写真など撮っていってください! 以上、ありがとうございました!」
辻ヶ丘高校、軽音部でした! ともう一度、今度は演奏メンバー全員で叫んでお辞儀をする。彼らの背中に、惜しみない拍手が送られた。
――桜隠しって言うんだって、どっかで止むの待とうかと思ったけど、勿体ないね。雪の積もった枝を背景に写真撮りたい! 昼間にも見てみたいな、綺麗だろうなあ。
演奏を聴いていた人々が、桜隠しについて喋りながら、三々五々に解散していく。
ぼくは、地面に刺さった杭になったように動けなかった。
やがて、ぼくと演奏メンバーの間を遮るものがなくなり、幼馴染たちと目が合った。多少は気まずい顔をしてくれることを、それでもぼくは期待してしまった。
しかし、彼らは満面の笑みでぼくに手を振ったのだ。
優治! と、名前を呼ばれた気がする。
彼らの元に行かなければ。そして、彼らの演奏を称えるべきなのだ。それが求められていることは、嫌でも分かった。
だけど、ぼくはそれができなかった。
そのとき、雑多の人垣から分離して、彼らに歩み寄った影が三つあった。
背の高くがっしりした男、それに着いていく小柄な女の子、そして、真っ白な服の少女。
春日井と、ユイカと、そして――夏。
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