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真空のなかのドレス  作者: 織野 帆里
四季の外縁
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1.純白の少女

挿絵(By みてみん)


 ☆


 ぼくが産まれてから、十五回目の春が来た。

 大人になるまで、あと三年。

 意味もないカウントダウンを、それでも日々繰り返す。


 駅ビルの壁面をいっぱいに使って、「宇宙へ行こう!」という文字が躍っている。これでもかと爽やかな色合いを使ってデザインされた広告パネルは、完璧な角度に保たれた笑顔の青年たちを映し出していた。


 『第二期 宇宙留学生の皆さん』というテロップが、彼らの輝かしい身分をさりげなさを装って示す。逢水野(おうみの)市の支援で宇宙に行くことができた、文字通り選ばれし人々だ。今にも光ださんばかりの微笑みを湛えて、色調を鮮やかに調整された銀河の画像を背後に、宇宙での経験がいかに素晴らしいものであったかとか、人類は今後宇宙とどのように関わっていくべきかとか、明晰な口調で語っていた。


「宇宙ステーション『天京(てんきょう)』より、お送りしました」


 逢水野市の高校生の皆さん、次に宇宙に行くのは、あなたかもしれない。と、そんなつまらない言葉で締めくくられてコマーシャルが終わった。つまらない芸能人のゴシップを流しはじめたパネルから目を離す。

 駅のホームには冷たい夜風が流れていた。それでも、日々冬の匂いは薄れ、桜が芽吹き始めている。


 ぼく――本宮優治。モトミヤ・ユージは、広告パネルの見えるプラットホームのベンチに座っている、どこにでもいる十五歳の少年です。

 

 ぼくはこの春から、高校生になるのだ。この駅から歩いて七分の、私立汐ノ音(しおのね)高校。ぎりぎりの成績だったけど、どうにか受かった憧れの高校。この逢水野市でもトップクラスの進学校だ。科学研究所の並ぶ地区にあって、海沿いにそびえたつ校舎がいかにも最先端の印象を与える。ぼくは夜空を仰ぎ見ながら、高校に続く桜並木が見事だったことを思い、満開の桜のアーケードを歩いて高校に向かう道のりを想像した。

 帰宅ラッシュがピークを越え、家に向かう人々の流れがだいぶ疎らになったことに気づき、腕時計を見ると時刻は午後七時。ぼくは未だ、ベンチから立ち上がる気がせずにいた。そろそろ帰らないと父親が心配するぞ、と、ぼくの心の冷静な部分が警鐘を鳴らす。ポケットの奥にしまい込んだスマートフォンの、冷えきった形状を感じた。

 

 途端、一気に現実がぼくの中に流れ込む。


 ああ、と言葉にならない音を吐き出す。重力が二倍にも三倍にもなったような気がして、どっと押し寄せる疲れに身を縮めた。ぼくは幻想から醒めて、それでも、この場所にいるということだけが真実だった。

 当然、合格すると思っていた。心のどこかで、進学校とはいえ余裕だと思っていた、その高校に落ちた。掲示板に貼られた前後の番号を覚えている。当然あるものと思い込みながら掲示板を見たけれど自分の受験番号はそこにはなくて、とつぜん、ぼくの全ての人生設計は消えてしまった。

 

 ぼくが塗り固めた幻想は、ぼくのかつて描いていた未来だった。

 

 届かなかった学校の最寄り駅で、自分があの学校の新入生であるという幻想に沈むことだけが救いだとは。客観的に見たら、あり得ないほど情けない行動をしているなんて、とっくに気づいている。だけど、今のところ、唯一ぼくの心が静まる場所がこの夢の中なのだ。

 あと三年。それで、ぼくは大人になってしまう。ひとりで生きる存在に。仕事も役目も、税金もぜんぶ自分で引き受ける大人に。

 そこまでの道筋はたしかに見えていたはずなのに、忽然と消えてしまった。どこへ進むべきか分からない。それなのにタイムリミットは確実にやってくる。暗闇を模索する手も空を掻く。これが、絶望と呼ばれる感情であることに気づいたのは最近だ。

 それ以来、ぼくは決して考えないようにしていた言葉を心の中で吐いている。

 死んでしまいたい。消えてしまいたい。

 どこへも行けないから、最後に残された道を選びたい。――と。


ぼくが産まれてから、十五回目の春が来た。

 大人になるまで、あと三年。意味もないカウントダウンを、それでも日々繰り返す。

 なぜなら、心底、その日が来て欲しくないと願うから。


 一巡したコマーシャルが、宇宙留学生とやらの画像をもう一度映し出す。彼らの名前の後に付く、カッコに挟まれた十八という数字を見て、吐き気を催しそうになった。

 ぼくは救いを求めて、ふたたび幻想の底に沈もうとする。


 

 ホームに電車が静かに滑り込んできて、たくさんの人間を吐き出した。どうやらこれは、この駅止まりの電車らしい。騒がしい往来は幻想の邪魔になるから、なるべくシャットアウトしたかった。ぼくはマフラーを強めに巻き直す。

 そのとき、雑踏の中にひときわ目を惹く存在があって、ぼくの視線が少し上がる。

 彼女は真っ白い服に身を包んでいた。白いコートの裾から覗くレースのスカートも白。白いブーツを履いて、白いトランクを引いている。可愛いとか魅力的とか、そういう意味じゃなくて、単純に色彩によって目立っていた。

 その、異様に目立つ色彩の彼女は、こちらに歩いてきて、ぼくの隣の席に腰掛けた。脚を揃えて座る。眩しいほどの白は、ほんとうは嫌いな色じゃないけれど、今のぼくの気分にはあまりにもあっけらかんとして、明るすぎて、刺さるように痛かった。だから、彼女を視界に入れないように、うずくまるように姿勢を変えた。それが良くなかった。


「あの、大丈夫ですか?」


 体調でも悪いように見えたのだろう。鼓膜をゆらす形すら綺麗なその声に導かれ、ぼくは顔を上げてしまった。


 終雪のように真っ白な彼女が、こちらを真っ直ぐに見ていた。

 ずいぶんと顔立ちが整って見えた。それは彼女が湛える完璧な笑顔のせいにも思われたが。明るい色の髪の毛よりなお白い肌に、瞳をはじめとした端正なパーツがきわめて丁寧に配置されている。なかでも彼女を引き立てているパーツは、日本人には珍しいくらいに色素の薄い瞳だった。少し青みがかったベージュの瞳を、ぼくはしばし呼吸を忘れて見つめた。

 まるで彼女が自ずから光っているような錯覚を起こしてしまう。ただそこにいるだけなのに、なぜか非現実的だった。

 何か答えなければと思って口を開く。


「大丈夫です。ただ――」


 この先、どうしたらいいのかな、死ぬしかないのかな、と考えていただけで。

 緊張状態というものは恐ろしい。なにより一番他人に言えないことを、口走りそうになった。


 慌てて、「何でもありません」と首を振る。


「ふぅん」


 粉雪を吹くような、小さい声。

 視線をこちらに固定したまま、彼女は首を捻る。その瞳をまぶたが隠して、また現れた瞬間、彼女の顔から表情がふっと消えた。その視線が、ぼくを通して背中側の世界を見ているかと思うほどに冷たく、鋭いものに見えた。

 長いまつげに縁取られた紺碧の視線。

 色の薄い唇が開く。


「死に場所でも探しているような顔をされていますね」


 ほんとうに視線に貫かれたのか、と思うほど眩暈がして、しばらく何も考えられなかった。気がつくと、後続の列車に乗っていったのだろう、彼女はもういなかった。綺麗な声が遠ざかっていくのを、そういえばグラグラ揺れる脳で聞いた気がした。

 偏頭痛を起こしたときのように頭が痛かった。目がくらむほどの白い服を着た彼女は、視覚的な印象以上に衝撃的な言葉をぼくに残していった。

 あなたはまるで、死に場所を探している様。だ、なんて冗談でも人に言えることではない。ただ単に非常識なのかもしれないが、それにしてはぼくの心情を的確に当てすぎていた。彼女は、ぼくの本心を透かすように見たからこそ、あの言葉を吐いたのか。

 あの真っ白な姿が、そして視線が、記憶から消えない。ぼくはふらふらと、ホームに滑り込んできた鈍行に乗り込んだ。


 数時間後、自宅にて、ぼくは彼女と再会する。

 

 最寄り駅から、うんざりするほど長い坂をどうにか登り切って、インターホンを鳴らさずに鍵を開ける。時刻は九時半になっていた。暗い玄関ホールに、ぼくを感知した暖色の灯りがともった。右手にあるリビングから、話し声と光がもれている。そちらに混ざる気は起きなかった。いつも通り、隠れるように二階の自室へ向かおうとしたのに、運悪く階段を降りてきた父親とかち合ってしまった。

 

「――ああ。帰ってきていたんだね」


 父親の言葉に無言で頷く。べつに叱って欲しいわけではないけど、こんな時間に帰ってきても、この人は何も言わないんだな。そのまま、彼の横を通り過ぎようとしたけれど、後ろから、「ああ、ちょっと良いかな」と声を掛けられる。

 いつもならこれで済むのに、と思いながら振り返った。不承不承、「なに?」と聞き返す。


「少しリビングに顔を出しなさい。翠緑荘に引っ越してきた子がいるから」


「なにそれ」

 口から零れたのは正直な感想だった。「そんなの、俺、聞いてないんだけど」


 ――そりゃぁお前、お前が最近ぜんぜん出てこねーからだろ。

 ――そうよ。おじさんのせいにしないの。


 頭の奥で友人たちが苦言を呈す。分かってるよ。今日は三月の何日だっけ。ぼくは何日、彼らと話をしていないのだろう。

 だから、誰かがこの翠緑荘に引っ越してきたことを知らないのは、完全にぼくのせいなのだから、父さんはそう言って逆にぼくを叱ったっていいのだ。だけど、父さんはそれにけっして触れない。言う機会がなくてね、といってお茶を濁す。

 とにかく一言挨拶しなさい、と言われて仕方なくリビングに引き返した。


 扉の外側に、真っ白なトランクが置かれていた。


 それを目にした瞬間にすべての時計が減速を始め、鼓動だけが早く打っていた。何十倍にも感じる数秒を、ぼくは泳ぐようにして、リビングに向かった。


 その白さを知っている、と思った。

 椅子に腰掛けた後ろ姿が振り向く。

 視線どうしが出会った。


 視界の端を、最近見上げることもない夜空が通り過ぎた。


 ☆

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