プロローグ
天は二物を与えず、という諺がある。
「一人の人間が多くの才能や資質を持つ事は無い」という意味らしいけれど、これは大きな間違いだ。
何故なら、この私――兼元 燈香こそ、天より二物を授かりし才色兼備の完璧超人なのだから!
なのだから、のだから、だから……(エコー)
「……なのに、一体全体どうなってるの!?」
自分を鼓舞してみたところで状況は好転しない。
叫び声は虚しく響き、周囲の木々からバサバサと何かが飛び立つ音がして身を竦める。
辺りは真っ暗で何も見えないけれど、逆に命拾いしたかもしれない。だって、聞こえてくるのは私の知っているどんな生き物の鳴き声とも違ったから。
普段は私を慕う大勢の人間に囲まれているのに、呼び掛けても返ってくるのは静寂だけ。
真夜中の森がこんなに怖いなんて知らなかった。一人がこんなに心細いなんて知らなかった。
「もう嫌……誰でも良いから、助けてよ……!」
震える肩を抱いて、涙を溢しながら蹲る。
どうして私がこんな森の中に居るのかというと、時は数時間前に遡る――
◆◆◆
私、兼元燈香は花も恥じらう18歳の高校三年生。
お母様譲りの黒髪と端正な顔立ち、和服の似合うスマートなプロポーションを持ち、勉強はもちろんスポーツの成績も優秀な、非の打ち所の無い優等生――それが私。周囲の期待する、兼元燈香の姿。
歴史ある兼元家の長女として生まれ、幼い頃から大事に育てられてきた。色々と窮屈に感じたこともあるけれど、家柄には誇りを持っていたし、それに恥じない生き方をしてきたつもりだ。
そんな私にも、他人に言えない特技が一つある。
「でさ、死んだと思ったチワワが……」
「おいネタバレすんなって!」
「それ先々週の話じゃん」
教室で耳を澄ませば、クラスメイト達の話し声が自然と耳に入ってくる。
「この前出た新作コスメ試した?」
「あれ超カワイイよねー!」
「ねぇ知ってる? 二組の喜多川さん、サッカー部の主将とデキてるんだって!」
「マジかよ!? 俺狙ってたのに!」
「バカ……私がいるじゃない」
「ん? なんか言ったか?」
「今日の日替わり何だっけ?」
「アジフライ定食だよ」
「またか……これで三日連続だぞ」
最近の出来事や流行、恋愛の話に学食の話etc..
聞こえてくる内容は様々で、全て聞き分けるのは不可能に近い。だけど、私にはそれが可能だった。
かの有名な聖徳太子には、複数人からバラバラの内容で話されても正確に聞き取ることの出来る耳を持つという逸話があるけれど、そんな感じ。
私も聖徳太子のように、クラスメイト達の会話を同時に、そして別々に聞き取ることが出来るのだ。
もっとも、生まれつきこんな事が出来たわけじゃない。その経緯こそ、人に言えない最大の理由。
今まさに行っている行為――盗み聞きを繰り返す内に体得した特技なのである。
学校内でも外でも優等生で通している私が、どうしてこんな事をしているのかと言うと……
「あぁ、今日も兼元さんは麗しい……」
「お前じゃ一生無理だ、諦めろ。彼女は俺達みたいに遊んだりだらけたりしないんだぞ」
「くぅ~っ……住んでる世界が違うって感じだ」
「燈香さま、どんな音楽が好きなのかしら」
「きっとクラシックとかに違いないね。J-POPなんてガラじゃないでしょ」
「…………」
そう。誰もが羨む高嶺の花だからこそ、他の生徒と同じような暮らしができないからだ。
家でもそう。テレビや雑誌なんて物は無く、勉強と習い事の日々が延々と続く。
恵まれた暮らしをしているようで、私はクラスの誰よりも不自由を強いられているのである。
そんな私は、こうやってクラスメイト達の会話を盗み聞くことでしか、若者らしい情報を得ることができなかった。
友達と呼べる存在もいない。彼らは私を遠巻きに眺めているだけで、決して話し掛けてはこなかったから。こちらから声を掛けても、萎縮してしまって可哀想になる。
それに、話は聞いていても、実際に同じ物を買ったり食べたりしたわけじゃないから、何と切り出したらいいか分からない。実はずっと聞いていました、なんて言えるはずもなく。
少しでも彼らの事を知りたくて、その会話を聞き漏らすまいと耳をそばだてていた結果、聖徳太子のような事ができるようになっていた。
そんな、呆れる程に悲しい特技なのである……
「はぁ……」
結局、今日も盗み聞きしかできなかった。
すれ違う生徒から挨拶される度に微笑んで返しつつ、内心ではがっくり項垂れながら迎えの車が待つ駐車場へと向かう。
――――。
そんな時だ。私の耳が、奇妙な音を捉えたのは。
鈴が鳴るような、それでいて頭の中に直接響くような……耳鳴りにも似た不快さと、不思議な心地良さを同時に感じて眩暈がする。
これは、何? 私を……呼んでる……?
気が付くと、周囲には誰も居なくなっていた。私だけ世界に取り残されたような感覚がして、だんだん景色が歪んでいく。
耳鳴りは更に強くなり、頭痛となって襲い来る。痛みに顔をしかめ、目を瞑った一瞬の間に、世界は変貌を遂げた。
「…………え……?」
黄昏時の空は闇夜に染まり、不気味なほど明るい月が輝いている。
周りの建物やアスファルトの地面は、鬱蒼とした木々と土臭い草地に。生温い風が肌を撫でて、これがただの幻でないことを物語っていた。
さっきまで沢山いた下校中の生徒や通行人、車の音は一切しない。私に聴こえないのだから、本当に人っこ一人居ないのだろう。
そして、冒頭に戻る。
いきなり周囲の景色が様変わりして、真っ暗な森の中に独りきり。怖がるなと言う方が無理な話だ。
多少のサバイバル知識なら教養として知ってはいるものの、実践する日が来るなんて夢にも思わなかったし、今は心細さの方が勝ってしまっていた。
このまま助けが来なかったら……そんなマイナス思考に支配されそうになった、その時。
――――。
また、あの音が聞こえて顔を上げる。私を呼んでいるような、不思議な音。
無意識の内に立ち上がって、音の出所を探るように歩き出す。
制服が汚れるのも気にせず草木を掻き分け、やっとのことで茂みを抜けた私は、そこにあったものを見て僅かに息を呑んだ。
「剣……?」
それは一本の剣。やや開けた空間の中心に、月明かりに照らされる石の台座があって、片手で持つには少し大きいくらいの西洋剣が、台座の中程まで突き立てられている。
台座に近付くにつれ、呼び声ははっきりと聞こえてきた。
――ツドエ。
「ツ、ド、エ……集え? 私を呼んでいたのは、この剣なの?」
どうして、という疑問を口にする前に、私の耳は別の音を捉えた。
それは足音。茂みを進む音もして、誰かがこちらに近付いてくるのが分かる。
だけど、助けが来たという感じではなかった。走るような音は一つじゃなく、荒い呼吸の他に獣じみた呼吸音も聞こえる。
「熊? 狼? ……いいえ、違う。それより軽くて、人の足音に近い……だけど、人間がする息の仕方じゃない」
聴覚の伝えてくる情報が、驚くほど私を冷静にさせた。まずは、どこかへ身を隠さないと……
なるべく足音の方向から遠い、台座の横の茂みに飛び込んで様子を伺う。私の耳なら直接見なくても大体の状況は分かると思う。初めて盗み聞き以外の事で役に立ちそうだ。
足音が台座の近くで止まり、話し声が聞こえる。
「はぁ、はぁっ……ソェガ! エジタヌバイゾ!」
「ケケケッ。ナリム、チァッパ……」
……前言撤回。声は聞き取れるけど、何を言ってるのかさっぱりだった。私の知っている十か国語のどれにも当てはまらない言語。言語という壁にぶつかったのは生まれて初めてだ。
辛うじて分かる事は三つ。一人は声の感じからして女の子で、追われている様子ということ。もう一人……人かも怪しい奇っ怪な声を上げて、たぶん笑っているということ。女の子を追いかけている側だろう。
そして、どちらも私を呼んでいた声とは違うということ。
「セネマ、ルチナシア!」
恐る恐る茂みから顔を出すと、銀色の髪を足元まで無造作に伸ばした小さな女の子が、必死の形相で台座から剣を引き抜こうとしている。
その背後には、見た事もない人型の生き物が立っていた。緑っぽい肌を持ち、小柄で鼻だけ大きく膨れている。どちらも身に着けているのはボロ布一枚で大差は無く、浮浪者の方がましな格好をしていそうなほどだ。
両手で剣の柄を掴み、裸足で台座を踏みつけて引っ張る女の子だが、剣はびくともしない。そうしている間にも、緑肌の生き物は女の子に近付いていき、右手に持ったナイフのようなものを振り上げた。
「――危ないッ!」
「エッガ……!?」
ああ、私はなんて馬鹿な事をしたんだろう。
狙われる女の子を見て、体が勝手に動いていた。茂みから飛び出し、女の子を庇うようにしてナイフとの間に割って入る。
ぞぶり、と下腹部に刃が突き刺さって、焼けるような痛みが襲ってくる。
「あ、っぐ……にげ、て……!」
痛みに悲鳴を上げながら、声を絞り出すように女の子に言った。だけど言葉が通じない事を思い出して、このままじゃ駄目だと途切れそうな意識を必死に繋ぎ止める。
台座の剣へと迷わず手を伸ばした。この状況で、武器になりそうな物はこれしかない。
これでも武道をやっていて、それなりには鍛えている。女の子には無理でも、私なら剣を抜けるかもしれない――そう思って柄を握った時、頭の中に声が響いた。
――タタカエ。
「……!!」
それは、ここまで私を導いてきたあの声。
この剣が私を呼んでいたの? と問うまでもなく、私の意識はどす黒い何かで埋め尽くされた。
そこから先は、あまり良く覚えていない。剣はあっさりと台座から抜け、私はそれで緑肌の生き物を滅多切りにしたような気がする。
だけど、すぐに全身から力が抜けた。生暖かいものがお腹の辺りから止めどなく流れ出ていく感覚がして、それに反比例するように私の身体は冷えきっていく。
立っていられなくなり、地面に倒れ込んだんだと思う。ああ、このまま死ぬのかな……なんて他人事のように考える。
家柄に縛られ、何一つ自分では決められない人生だった。それが最期には自分の意思で誰かを助けられたなら、私の生にも価値はあったんだと思えた。
でも、死ぬ前に一人くらい、友達……欲しかったな……
「…………」
薄れゆく意識の中、最後に見たものは……私の顔をじっと覗き込む、銀髪の少女だった。