07
様々な感情が渦巻いては消えを繰り返し、克之は一睡もできないまま朝を迎えた。
談話室の大きな窓から、少しずつ白んで夜が明けていく様が見て取れた。
平生であれば、雲一つない清々しい朝を好ましく思うところであるが、莉緒の身に起こった理不尽な仕打ちと今後のことを考えると、克之の心が晴れることはなかった。
そして7:30、病院の朝が始まる。
入院患者に提供する朝食の配膳で院内の空気は慌ただしくなった。
克之は看護士たちの邪魔にならないよう、談話室の隅で窓の外を眺めていた。
奏子から「明朝、入院の支度をして病院に向かいます」とメールが来ていたが、車は俊輔に託したままだし、奏子は免許を持っていないから交通機関を乗り継いでくるとすれば到着は10:00頃になるだろうと踏んでいた。
それゆえ、あと少しこのままでいようと思ったその時――。
「あなた……!」
背後から声をかけられ振り返ると、憔悴した様子で大きな荷物を手にした奏子が立っていた。
隣には俊輔と大久保が付添い、そして後から内藤翁が歩いてきた。
「奏子……。俊輔、それに大久保さん。社長も……!」
「莉緒の容態はどうなの? 大久保さんや大和くんから話は聞いていたけど、集中治療室ですって?」
奏子の目の下にはうっすらと隈ができている。
気丈なフリをしているが、莉緒のことが心配で一睡もできなかったのだろう。
克之は、荷物を受け取ると奏子を抱き寄せた。
「あぁ、重傷だが容態は落ち着いている。ロクに連絡できず心配かけてすまなかった」
「ホントですよ、まったく。でも、大久保さんや大和くんが逐一連絡くださったので助かりました」
奏子を抱きしめる手を緩めると、克之は大久保に頭を下げた。
「大久保さん。莉緒の捜索に手を尽くしてくださって本当にありがとうございました。大久保さんの的確な指示と大和くんの勇敢な行動がなければ、今頃莉緒は煙に巻かれて命を落としていたことでしょう」
続いて、俊輔の方に向って頭を下げた。
「俊輔。偶然とはいえ、お前が莉緒を迎えに来てくれていなければ、俺は動揺するばかりで対応が全て後手に回っていたことだろう。そして、内藤家にも害が及ぶかもしれない状況で大久保さんに逐一状況を報告してくれたからこそ、城南島にも捜索隊が向かうことができた。俺の直観力は外れてしまったが、お前が後押ししてくれたことにどれほど感謝していることか。本当にありがとう」
最後に、内藤社長に向かって頭を下げた。
「社長。この度は娘のことで御心配御迷惑をおかけし、誠に申し訳ございませんでした。大久保さんや俊輔の、いや、内藤家の協力がなければ莉緒を救出することはできなかった……。本当になんと申し上げたらよいか……」
克之は感極まり、言葉が続かなかった。
それを見ていた奏子が、克之の隣で深々と頭を下げた。
「皆様のご協力をいただき、莉緒は私たちの元に戻ってきました。本当にありがとうございました。そして、ご心配ご迷惑をおかけしたこと、心よりお詫び申し上げます」
克之も奏子も、頭を下げたまま動かなかった。
「克之も奏子さんも、やめてくださいよ。法的には受理されるのは未来のことだけど、7年前に莉緒ちゃんが隼人を受け入れてくれたあの日から家族なんだから。それに、元を正せば隼人が原因なのだから内藤が動くのは当然のことだ」
「そうだよ、克之くん。莉緒ちゃんは内藤家に端を発したトラブルに巻き込まれたしまっただけだ。むしろ、こちらこそ莉緒ちゃんになんと言ってよいのか……」
俊輔も大久保も、深く頭を下げた。
そして、内藤翁は克之らの前に立つと、二人の手をとり涙を浮かべて頭を上げさせた。
「克之くん、奏子さん。莉緒ちゃんは隼人の嫁であり、実の孫息子より可愛くてならない大事な孫娘じゃ。祖父としては、一族の持てる力をフルに使って手を差し伸べるのは当然のこと。それに、今回のことも前回同様莉緒ちゃんに非はない。隼人に横恋慕した甘ったれ娘がしでかした暴挙の矛先が向けられただけ。むしろ、わしらの方が木下家に詫びを入れるのが筋というもの。内藤家の当主として、この通り、木下家の掌中の珠に傷をつけるような事態を引き起こし、誠に申し訳なかった」
「社長……」
克之は、こみ上げる感情の高ぶりを堪えきれず涙をこぼしたその時――
「木下さーん、昨晩お預かりした入院手続の書類なんですが、訂正か書き直しをお願いしたいんですけどー」
克之らから少し離れた場所から、担当看護士の和泉が間の抜けた声で呼びかけた。
一瞬固まったその場の空気。
和泉はそんな空気をものともせず、ツカツカと克之の元に歩み寄り件の書類を見せた。
「ここの欄、入院するのは『木下莉緒』ちゃんなのに『木下克之』さんの情報が記載されているんですけど~。ちなみに、入院の保証人欄には莉緒ちゃんの名前が……」
「……?」
「「「「えぇ~っ?!!」」」」
皆一様に驚き、和泉が持ってきた書類を凝視した。
「克之くん……。マジか……」
「入院するのは莉緒ちゃんと見せかけて、実は克之の入院だったのかぁ〜」
「克之くん……。その、まぁ、それだけ動揺してたということじゃろ?(な、そうじゃろ?そうじゃと言ってくれ)」
「……じゃぁ、莉緒を連れて帰るから、あなた存分に検査してもらいなさいよ……」
大久保と内藤翁からは憐むようなまなざしを向けられ、俊輔にはいじられ、奏子には嘆息された。
何の間違いでこうなったのか――。
書類を手にして固まったまま、徹夜明けの頭で必死に考えた。
山本医師の説明のあと、看護士から入院手続についての説明を受けた(気がする)。
『莉緒ちゃんの欄は黄色い付箋を貼っておくので、保証人欄には赤い付箋を貼っておきますね』
確か、そう言われて書類を受け取った(気がする)。
そして、集中治療室で眠る莉緒の顔を見ながらペンを走らせた(気がする)。
目立つ赤色は入院患者、黄色いのは保証人でそれぞれ記入し……。
……あ、あれ?
「うわぁぁぁぁぁっ!! 恥ずい! マジで恥ずいわっ!」
時間差で訪れた羞恥心に、克之は頭を抱えてしゃがみこんだ。
顔は火照るわ、頭は沸騰するわ、いたたまれず穴があったら入りたいわ、もう……。
しばらくは克之の様子を生温く見守っていた奏子だが、放っておくと家出(実家に帰る)するとも言いだしかねない。奏子は嘆息しながらも、蹲る克之を抱きしめた。
「あなた、仕方ないわねぇ~。私が代わりに入院の手続をしてくるから、そこで大人しく珈琲でも飲んでいてちょうだいな」
克之から書類を奪うと、奏子はひらひらと手を振り和泉の案内で手続に向かった。
そして、内藤翁はスケジュールの都合で迎えに来た秘書ともに本社に戻り、談話室に男3人が残された。
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