第十三話 最良の決別
「まったくもってあいつは頑固だな!」
鬼塚との話し合いにはさした進展もなく、結局夕食にするぞとジュリオが切り上げてくれるまで殴れ、殴れませんの攻防ともいえぬ泥仕合が続いた。俺がひとつ鬼塚に拳をぶつけてやったならば鬼塚とて怒りを顕にしたはずだ。だがそれができないのが俺の性分であり、そして皮肉にも鬼塚にも似たようなものが備わっていたのだろう。非のない相手に拳を向けるなど、いまさらジュリオの言葉を借りてしまうが、道義に反するというものだ。そんなことはあってはならない。
だがそれとこれは別だ。廊下を常より力強く蹴り飛ばせば、隣を歩くジュリオからため息が漏れる。
「頑固なのは双方だ。まったく、子供でもあるまい」
「こ、子供とは失礼だな!……俺は別に、間違ったことは言っていなかったはずだ」
「正しいかそうでないかの話ではないだろうに」
ああわかっている、わかっているとも。そしてジュリオも俺がわかっていると知った上でわざわざ言ってくれているのだ。普通の人間であれば自分のような奴は扱いづらいであろうに、と自分ながらに思う。そんな奴を好き好んで――というわけかどうか確信したわけではない。だが、この男が何かにつけて真っ先に俺を見てくれるその仕草ひとつが、わずかながら、自然に自信をもたせてくれる――隣に置いてくれるのだから、本当にこの男はよほどのお人好しである。
「……つくづく、お前はよくできた人間だと思う」
「俺か?」
横を歩く緑の瞳を見上げると、俺と目が合うその時までまるで自分のことを言われているとまったくもって気がつかなかった、と言いたげな驚き顔をしていた。そう、お前だと頷く。瀬尾ジュリオという、日本防衛支部の歴史の中でもかなりの異端である存在が俺の隣にいるのが、ふとたまになんとなく不思議にさえ思えることがある。パイロット達が鬼塚に抱く思い――思えばこれは嫉妬だったのだろうか、いや、それにも畏怖が加わってもっと触れ難いものだった。否、まだそれが完全に消えたわけではない――とはまた異なった、パイロットからに限らずありとあらゆる日本人より向けられる敵意。そう、ジュリオが、今は落ち着いたにせよ、その身に受けているのは明らかな敵意だった。祖母方が今は敵国の出身であるという陳腐な理由で。祖父方が日本に歯向かったという前科を持つ一族であるがゆえに。
遠い昔、俺がただ一言、お前は俺と同じ日本人なのだろう、と彼に言った記憶がある。どういう状況であったかまでは、その、よく覚えていない。あまりにも自然に伝えただけだったのだ。しかしただその一言がために、こいつは俺の隣にいるんだろうか。そんな律儀な。当然のことを言ったまでだというのに。
長い黒髪と、緑の瞳が揺れる。
その陰に、見えるもの以上の暗がりを感じたような気がした。
「……俺はこうありたいと思って、そうしているだけだ」
そう言ってジュリオが頬を緩めるが、俺はそれがただの謙遜のようには思えなかった。
ジュリオ、と声を追ってかけようか迷った時だった。すれ違った人影に俺は思わず過剰反応をしてしまい、ジュリオにも、通り過ぎようとした人物にももちろん気づかれた。
「一心?どうした」
「あれ、あー、この間はどうも」
にっこり、と慣れたように笑うのは、藤堂安司。鬼塚の、幼馴染だ。彼が間違いなく俺に向けて言った台詞に、ジュリオはなにやら沈黙。末にああ、と納得したような声を出した。
「もしかするとこの間の『つて』というのは」
「あっ」
「この人ね、急に来たと思ったら定清の好物がどうだとか教えろだとか言うから何事かと」
「お前言うなという約束だっただろうが!!」
くすくすと笑う藤堂は「ごめんごめん、じゃあまた」と暴露するだけ暴露してさっさと歩き出してしまった。あいつ、約束をあっさり破りやがった。この、もう、どうしてくれようか。ばっとジュリオを振り向けば、案の定先程よりもにやついた顔があった。俺はバシンと腕を叩いて釘をさす。
「……他言するなよ」
「了解した、なに、お前にもそういう面があったんだな」
「うるさい」
ついさっきのようにずんずんと俺は歩き出した。だがふとそこで、ここは病棟で、そんなところに管制塔勤務の人間がわざわざ来るということは、と思い至る。
「……あいつは本当に鬼塚と仲がいいんだな」
「藤堂か?ああ、よく鬼塚の見舞いに来ていたな」
鬼塚の隣にいる者といえば、まず第一に藤堂安司の名が浮かぶ。それはおそらくほとんどの人間の共通認識であり、鬼塚定清を嫌う人間にとっては特に目に付く情報だ。あまり直接的に関わらない管制塔の人間のことであるから、攻撃的な関係にはなっていない、はずである。
鬼塚定清の隣には藤堂安司が多くいる、それは事実のはずなのに、どうして俺はこんなにも違和感を覚えるのだろうか。俺の隣に瀬尾ジュリオがいることと、少し似ているような感覚がする――いや、それは俺たちには関係のないことだ。きっと。
早く飯を食いに行こうと、俺は足を進めることに集中した。
第十三話 最良の決別
こんばんは、と俺が言うと、看護師さんもにっこりと笑ってこんばんは、と返してくれる。このやりとりも片手で足りないくらい繰り返して来た。定清が病院暮らしになって早いことに、もうすぐ二週間が経とうとしている。だが幸いにもこの二週間『地球外マナ』も『アライジア製マナ』も襲来してはこなかった。鬼塚定清というパイロットが動けない今、今を狙えばアライジアは日本を打ち倒せるのではないのだろうか。あのヴィオラという女の子――なんでも技術部に勤めることになったらしい、上司の判断だから文句は言えないけれどもなんて奇策だと、笑い話にもならない――がもし仮にスパイだったとしたならば、鬼塚定清の現状をアライジアに伝えているはずだ。そうでなくとも『地球型マナ』の損害は明白であったろうし、この空白の期間の意味がわからなかった。
俺がベッドの傍らの椅子に腰掛けると、気をきかせてくれたのか看護師さんが部屋から出ていった。別にいいのに。閉じた扉を見やってから、今もまだ眠りにつく定清の顔を見下ろした。
うん、まあまあ男としていい顔してると思う。いい男っていうんだよね、こういうの。さっきの綾瀬一心だったか、その隣にいた瀬尾ジュリオはこの間から妙な付き合いを重ねているけども、なかなかに見ない美人さんだ。定清とは真逆だよな、なんてなんとなく思いながら観察をする。
すうすうと心地よさそうな呼吸をして眠る男の腹には、まだ塞がりきらない傷があるのだろうか。衣服と白い布とに覆われてわからないが、眠る腕が左腹を避けて乗せられているように見えた。
「……せっかくあげたお菓子、まだ食べれないの」
閉じた瞼に声をかけても、応答はない。眠っているのだろう。
軍人の割にまだまだ傷を覚えていない綺麗な肌だ、と思って、する、と頬に指の背を滑らせてみる。
「ねえってば」
呼びかけても、応答はない。まだ日が沈みきっていない夕方なのに、こいつはいつからいつまで眠り続けているんだろう。俺がいろんな情報の管理に追われたような日に、疲れた体をわざわざ仕事終わりに運びにきてやったというのに、定清は平気な顔をして眠り続けていた。
それはつまり、どういうことか。
この男は、そんなにも。
そんなになるまで、戦うご身分になったっていうのか。
俺は膝の上にのせた腕に、口元を埋める。
「なんでそんな遠くなっちゃったの」
俺はもう、こんなにも傷つけさせてなんて貰えない。傷つきたいわけじゃない、ただ、定清がそうしているのになぜ俺がそうできないのか。わけがわからなかった。孤児院にいるときはお互い馬鹿しあって先生に怒られて、お互い同じ女の子を好きになったりして、そんなことしたじゃないか。この国が俺たちみたいな、俺たちみたいな親のないガキに目をつけさえしなければ、定清は傷つく事なんてなかったんだ。定清が俺から離れることなんてなかったんだ。
だってそうしたら、こいつは『マナ』なんてものに縛られなくてすんだのに。
ぐ、と目元を腕に擦り付ける。
「……俺、やっぱり『マナ』なんか嫌いだ」
全部大事なものを持っていった存在。顔さえ覚えていない親もきっとそいつらの争いによって殺されて、俺たちは引き離されて、そして挙句幼馴染までもそいつに持ってかれてしまった。ああこの時ばかりは自分の抗体値が高くて良かったなと思う。あんなものに乗せられてたまるか、あんな、あんなものに。
定清の部屋にあった模型を、ふと思い出す。いつからあんなものあったんだろう。そんなに、あれが大事なのか。定清はあの模型を見ては高揚して喜んでバカみたいに笑ったりしてたんだろうか。あんなものが、好きなんだろうか。
あんなものが。
「……定清のことも、嫌いだ」
俺は眠る顔をもう一度見た。もう何年もこいつの隣にいるから、嫌ってほど見た顔だ。馬鹿みたいに素直で明るくて誰にだって好かれる人柄の、俺の大事な幼馴染だった。大好きな幼馴染だった。ああ今は嫌いだとも、そんなに遠くに行ってしまった幼馴染など。俺の隣にいてくれない幼馴染など。
「嫌い、ほんと嫌い」
そうやってまっすぐ言える俺も大概性格悪いよなあ。
つぶやきに反してひとりでにふっと笑って、定清のあちこちに跳ねる猫っ毛を撫でてやった。
「じゃあね定清、もうちょっとゆっくり寝てたらいいよ」
そうしたら『マナ』に乗るのも、遠くなる。
もうしばらく、定清のあんなに痛そうな悲鳴なんか、聞きたくない。
俺はゆっくりと立ち上がると、行きよりもはるかな倦怠感を抱きつつ部屋を後にした。
扉の音と入れ替わりに入ってきた足音にすっと目を開くと、看護師さんが笑いかけてくれた。持っているお盆にはお粥が乗せられている。胃に負担をかけないやわらかいものなら、と固形物の食事が解禁されたのは今朝のことだ。
「……どうも」
「目を覚ますのは七時間ぶり、でしょうか」
「そうですかねえ」
「疲れてませんか?寝る間にも体が治療をしているでしょうから、普段の睡眠より体力は削られていることかと」
「……喉がむちゃくちゃ乾きました」
「はい、どうぞ。少しベット起こしますね」
そう言って差し出してくれた水を喉に流すと、まるで生き返ったような気分だった。つい数秒前まで俺は死んでいたのかもしれない。うん、死んでたとも。決して起きてなんかいなかったとも。
水を一気に飲み干してしまうと、勢いに任せてため息を吐いた。
ここに置いておきますね、と看護師はお粥をテーブルに置いて部屋から出ていった。これを食べればまた寝ている間に片付けられるだろうし、俺がやることは傷を治すことしかない。まだそんな生活が続くのか。早く戻らないと、早く俺が『マナ』に乗らないと。そう思うのに、そう思うと刺さるように、抉るように俺を苦しめてくるのは数秒前の幼馴染の声だった。
定清のことも嫌いだなあ、か。
手が触れた頭をがしがしと掻く。早く治れと激励することなく、嫌いきらいの二段打ちときた。いや知っていたようなもんだけど、こう、こう、声にして言われると。目頭が熱くなってまたため息を吐いた。そりゃそうだ、俺についてきてこんなところにまで来てくれたが、その俺だけが引っこ抜かれて仕事をしているというのは気持ちのいいもんじゃないだろう。あいつが軍人になりたかったかどうなのかはわからないにしろ、だ。
「……あーあ」
こうなりゃ俺はいっそ一心を殴った方がいいのかもしれない。歩み寄ってくれようとするあいつの心を理解していないわけじゃない、そしてそれは今の俺にはとても甘美なものに思えた。
「……俺は好きだったんだけどなあ」
誰にだって分け隔てなく、親切に接する普段の安司じゃない。笑顔で素直に毒を吐いて素直に俺の馬鹿に付き合ってくれる。特別な友達だから、俺にそうしてくれていると思ったのだけど。どうにも現実は、そうではないらしく。
早く、早く料理に手をつけてしまわないと冷めてしまうと思うのに、水で満足したのか、果たしてそうでないのか、手を進める気にはならなかった。