第十一話 未来への遺産
手のうちに握ったボトルを小さく揺らす。ただの透明な液体だが、無害の水ではないことはもうわかっている。そしてこれがあのお嬢様にとってなんらかの重要なアイテムだということも。今のところこれの保管も調査もお嬢様の身柄さえも俺に預けられてしまったが、全くもって嫌な案件というわけではない。文句を言ったこともないし、お嬢さんについてわかったことも逐一報告をしているのだから(この俺が!)、上から嫌な目を向けられる必要もないはずなのだが。
「やっぱり達也さんに任せるのはまずかったかもって話になってるんですよね」
「え、ほんと?おじさん悲しいなあ」
「思ってもないくせに」
「そうでもないって、後輩の優秀なパイロットさんになじられちゃあ」
大仰に肩をすくめたところで、十朱城の坊ちゃんが後ろからソファの背もたれにのしかかってくる。やや背の方に引き寄せられるかたちになり見上げてやると、随分いいおっさんになってきたその綺麗な顔が悪い笑みを浮かべていた。ばっとその手がボトルに伸びてくるものだから、反射的に遠ざけてしまうと大佐殿はあらら、とため息を漏らした。
「それ欲しかったのに」
「子どもかいな」
「おじさん世代にとって僕らはまだまだ子どもでしょう?」
「違わんけども」
こいつ、いま真剣に奪おうとしたよなあ。ジャケットの中にボトルをしまいこんでみるとなんでもなかったように十朱城は背を伸ばして離れてしまう。階級的には上司にあたるわけだが、海と同様に何十年もつるんでいればなかなかに堅苦しい関係にはおさまらず、恋はたまにこうして部屋に遊びに来る。本当に何もせず、何もせず。俺が部屋にいない時も多いっていうのに、ちょうど俺がいるタイミングで遊びに来る。やっぱり上司だとそういうとこまで管理できちゃったりすんのかね。だがヴィオラお嬢様のあれそれを最終的に決定したのもこの上司だ。文句は言わせない。
「まあ何にせよ、実際に問題が起こった対処としてお嬢さんを引き剥がすなら、俺だって甘んじて受け入れるさ。だが、そうでもねえのに勝手に移したりすんなよぉ、あの子わりとなついてきてくれたんだしさ」
ね、と笑いかけてみるが恋は気でも拗ねさせたように、黙ったまま隣に腰を落としてきた。あくまでも丁寧な所作だが、いい年したお坊ちゃんが僅かに表情を不機嫌に染めているのが見えて面白くて仕方ない。
「帰らねえの」
「帰っても仕事が山積みなんです。ほんと、大佐なんてものになってからパイロットよりもはるかに忙しい」
「おいおい、それを聞いたら俺は帰れと蹴飛ばしちまうぞ」
「そうやって怒ってくれるのも今じゃあなたくらいだ」
しかし、先のこいつの言葉を思い出すと、馬鹿かと笑ってやるかわりにその少し長い髪を撫でてやった。
まだまだ子どもでしょう、か。
親を失ったはじめの世代。7年前の戦争の主役の世代。彼らは、ずいぶん大人になってしまった。
「……ほんとまあ、青二才ばっかでおじさんらの手はいっぱいいっぱいだっての」
さあその起因となる憎むべき敵国から、とんでもない爆弾がやってきた。しかしそいつは自分の親国を恨んでるときた。さてどうする。
「おっさんにできることは、ガキの先導ひいてやるくらいなんだがなあ」
「あれ、あなたそんなことできたんですか。驚きだ」
「あんまりいじめられっとおっさん泣くぞぉ」
第十一話 未来への遺産
「ちょ、ちょっと聞いたか!」
「聞いたも何も……ってあんま大声で話すとやばい、いつ大尉が聞いてるかわかったもんじゃねえ」
「ああ、ああそうだ。……えっと、ヴィオラお嬢様の、抗体値」
「なんでここに来るのかわかったもんじゃねえな」
普段は鉄を叩く音と金属がぶつかる音ばかりが響く整備場が、朝からやけに人の声で騒がしいなとは思っていたのだ。抱えた工具箱をしまいにやって来た先でも技術部員であるシーダとミオが話し込んでいた。棚にどかっと工具箱を置くと二人ともこちらに気づいたようで、わたしも彼らを凝視していたせいで目がバッチリあってしまった。
「おうレナ、お疲れさん」
「なんだよガン見して」
「へっ、いや、なんか今日どこもそこも喋ってるなって…」
「お前も良かったじゃねえか、やっと女の部員が増えるぞ」
「う、うーん……」
「なんだよ、喜べよ!誰もがビビる期待の新人だぜ」
素直に励ましてくれるシーダと、歩み寄って来て肩をバシバシ叩くミオにどう反応すればいいのかわからなくて、わたしは唸った。
「お嬢様、の、抗体値の話です……?」
いかんせん何かを話す友人というのがいないわたしは、皆の話を把握できていなかった。確か昨日にヴィオラお嬢様の抗体値の測定があった、という程度は耳にしていたけれど、それが果たして皆が湧くほどの話題なのだろうか。抗体値の数値を知らないから、多分そこに皆が湧いているんだろうとは思っていた。
疑問符を浮かべてみれば案の定二人はぽかんとした。ぐわっと食いついて来たのはミオだ。
「お前知らねーの?!あー、通りで……」
「抗体値が50なんだそうだ」
「え?」
「50ちょうど!」
「……50コンマいくつ、の話ではなくてですか?」
「あの鬼塚さんと同じ数値なんだってよ!」
そこで憧れのパイロットの名を聞いて、この話の現実感をようやく味わった気がする。
抗体値が50?
技術部に入る人間の抗体値はせいぜい平均の50プラスマイナス3程度のものだ。それはパイロットとして働く人たちとあまり変わらないけれど、身体能力と得意なことが技術寄りになっているだけ。それでも、抗体値が50に近い技術部員はパイロットに引き抜かれることだってある。それはとても珍しいものだからだ。
先日、ヴィオラお嬢様が技術部に挨拶に来てくれたことがある。その時にまじまじとみた美しい姿の彼女を、この場所にやけに似合わないなあと思った感覚を、デジャヴとして思い出した。
「リト先生」
少しだけの畏怖を覚えつつ名前を呼びかけるも、振り向いた瞳にそんな緊張は一切いらなかったのだと落ち着いてしまう。いや、無駄だったのだろうと落胆するのだ。彼女はずっとずっと表情のない顔をしているから、きっと俺の気持ちもそこに浸透などしないはずなのだから。
「どうかしたのですか」
俺たち兄妹にとっては、幼い頃から親のように世話になった女性。この国では珍しい黒髪をたたえたリト=カナミは小走りで駆け寄ってきた俺をまっすぐ見上げてくる。まるで不思議だと思っているように。ヴィオラに似た表情をしていると思うものの、それより随分、もっと感情が見えない。冷たい印象さえ覚える。だがそれに負けていては兄として、アルス=マークエル=ハイネスとしての立場がならない。
「……先日出撃した『アライジア製マナ』は特別だったのではないのですか」
「ええ、実験的ではあるけれど、『火星型マナ』の肩に当たる部品を武器に加工したものを」
「それなのに何故わざわざ日本に回収させるような真似事を」
「回収は目的ではないの。あれは、日本も同じことをしだすのが早いか遅いかの違いにしかならない」
「では何故」
「『地球型マナ』を傷つけられたならそれでいい。『火星型マナ』の部品はまだまだ多く残っているのだから」
そのいいぶりに、今の今まで特訓をしていた俺は愕然とした。アライジアが捕獲した純正『マナ』の中でも『トリトン型マナ』は比較的原型を保っており、その意識は今でも潰えることなく生き続けている。故に俺たちハイネス家はこの三十年、彼、もしくは彼女に搭乗し続けてきた。抗体値が理由ではない。ただ単に、俺たちが宗教的に『そうあるべき』として、親から、叔母から、叔父から、従兄弟から、妹から、何人もが搭乗し続けてきた。だがあれは、機械じゃない。生き物だ。それが自分が乗るようになって改めて認識できた。それに乗り続けたせいで父は、母は、そしてあの人たちから生まれた妹たちはおかしくなった。
いつのまにか拳を固くしていたことに気づき、ゆっくりと指の力をときながら呼吸を繰り返す。それは、確かにこの人に教わったものだった。
だった。
「どうかしたの?」
この人から笑顔を奪ったのも、ヴィオラも、父も母も殺してしまったのも、全部同じものであるはずなのに。
なんで、俺は、俺たちは、それに。
「……いえ、なんでもありません。早く、もっと精進します。次こそはもう少し動かせるくらいに」
脳裏に浮かんだ記憶をかき消すように、俺は頭を下げた。そう、と頭上で声がする。ハイヒールはそのまま歩き出してしまい、廊下は静かになった。
――考えたらダメだな。せっかく俺が、パイロットになる機会を得たっていうのに。
銀色の髪を掻き上げて、俺は小さくため息を吐く。するとその肩にポン、と衝撃が走った。
「やあお坊ちゃん、本日の訓練はお疲れでしたか?」
気配。唐突な気配だ。思わず振り向くと、軽い声に予想した笑顔があった。
「アクセルさん」
アクセル=アロイド。驚いた心はすぐに安心に落ち着く。長子である――ということに一応はなっている――自分にとって長らく兄のように連れ添った相手であり、その飄々とした態度も気を和ませてくれる。不思議な人では、あるけれど。
「い、いえ。慣れない部分はありますけれど」
「お疲れではない?」
「まあ、大丈夫です」
「本当にお疲れでない?」
「……何かあるんですか」
笑顔がぐいぐいと寄ってくるものだから、俺は不思議に思う心を折らせてやって、伺うように問いかける。するとアクセルは笑顔を更に輝かせた。
「はい、ありますとも!なによりあなたを待っていたんですから」
「うわっ」
そのまま腕を引かれ、よろめきながら歩き出す。スーツのようなきっかりとした様相を普段からしているのに、このアクセルという男は誰よりも子供のようにはしゃいでその場をかき回してくれる。まるで俺たちにないその部分を補ってくれているかのように。
それまで重かった思考回路が、走るうちに絆されていくようだった。
ほだされて、いいのだろうかとも思う。
こんな立場の俺が。
でも、と絡まり始めた思考に甘い香りがまとわりつく。
顔を上げると同時、アクセルの部屋の扉が開かれた。閉じていた状態でも香ったというのに、開けばより鮮明に染められる。
「あ、お兄さま!」
「お兄さま!」
おかえりなさい、ときれいに重なった美しいかわいらしい声。
ケーキセットを囲んだ妹たちを見て、俺の顔がどう変わったのかは自分でも嫌というほど理解している。それを見てくすくす笑うアクセルのせいで、尚更。
「さ、気も詰まったんでしょう。いいんですよ、今は」
彼は悪魔のように囁く。
これを天使と認識できない俺は、俺も、同類なのかもしれない。
「……妹のお世話、いつもすみません」
「まーたそんなこと言って」
ぱん、と背中を強く叩かれ、よろめき出た俺の足元に妹たちが椅子から飛び降り、駆け寄ってくる。それを抱きとめる腕にかかる重みが、あたたかさが、俺をやっとここに返してくれた。
この体温を、守らなくては。
ありがとうございます、と口の中でつぶやいたのを聞いて、アクセルはやはり笑うばかりだった。
小部屋を与えられた。簡素なベッドと簡素なキッチンと、机と、棚と、冷蔵庫、それから奥にもうひとつ扉がある――いや、それしかない狭い部屋だ。退院をしたのは少し前だが、今日までは客用の部屋らしいホテルのような一室で睡眠をとっていた。手続きがめんどくせーんだ、と説明してくれた御美川は私をこの部屋まで案内してあっさりと帰っていってしまった。
私は部屋に入ってすぐに、動けなくなった。
どうしたら、いいのだろう。
あたりを見回さなくても部屋の全てが視界におさまってしまう。これはもはや寝泊りだけをすればいい部屋ではなく、私の部屋になった。技術部員寮の、なんでもない一室が、私の部屋になった。ホテルの感覚と異なり、何かをしなければならない、という気分になってなんとかベッドにまで歩み寄ってみるが、手にした布はやや、薄い。それから軽い。どっと焦りが出てきた。そうだ、それから、と冷蔵庫を開きにかかる。中身は。皆無だ。そんな。そして目を向けたのは奥の扉だ。駆け寄って思い切り開いた。ユニットバスがあった。人一人がやっと入れるかというようなバスと、窓は、ない。見覚えのない色形のつくりをしていた。
ここに、住めというのだろうか。
呼吸さえ怪しくなってきたところで、ふと、また嫌な連鎖はつながるもの。
「……バスローブが、ない」
ホテルにあったローブがない。どこにもない。自分のパジャマなんて持ってきていないし、この部屋には自分の服が一枚もなかったのだ。これでは、シャワーが浴びれない。『アライジア製マナ』に潜んだときよりもっともっとどうしようもない絶望感が襲ってきて、パニックになる。こんなこと、こんな、どうしようもないことなのに。わたしの、『わたし』の知らないことはまだあまりにも恐ろしい。
そうすると遠いところで声がして、呼吸を促してくれる。
――まずは、呼吸を。
すう、としばらく息を吸い、吐き、そしてまた吸う。最後にゆっくりと息を吐いた時に隣の部屋に入っていると御美川が教えてくれた名を思い出した。
時計に振り向き、まだ平均の就寝時間にはずいぶんと時間があるのを確認。私は全部扉を開けたまま――冷蔵庫だけは気づくとそっと閉めて――部屋を出る。そしてすぐ隣の扉を、思いのほか戸惑いもなく、ノックした。
「は、はいはーい、どなたです、か」
灰色の髪がひょいと覗く。それから見えた眼鏡がきらりと光って、中の目が丸くなった。
「ぎゃっ、お、お姫様!」
「……そのような扱いはおやめください、と」
「そっ、そうでした!……えっと、その、で、どう、なさいました」
早乙女レナだ。御美川からも優秀な部員だと推された同年代の技術者で、ネストでも珍しい女性だ。技術部員となるにあたって挨拶に回ったとき、随分焦って驚いた彼女に忠告したことはすっかり忘れられていたようだ。おそらくあの上司はわざわざ彼女に近い部屋にしてくれたのだろう、見えた姿にそれでも安心した。
おずおず、と、まさにそういったさまで問いかけてきたレナに、事情を説明する。
「その、シャワーを浴びようと思ったのですが、着替えがなくて」
「あ、あら」
「衣服が買えるなら買いたいのですが、その、まだお給料も入ってなくて」
「……ほう」
「御美川大尉いわく、明日にはお金が入るから食事は配給の安物で我慢しろ、というのですが、それはいいのです。安くても日本の食事はおいしい」
「はあ」
「……ですが服がないのです」
「パジャマなら貸せますよ?」
あっさりと欲しい返答が返ってきたのに驚いて顔を見つめると、レナは肩を揺らしてなぜかまた焦りだした。
「わっ、私はまた失礼なことを……!す、すみません、いや、体格はあまり変わらないんじゃないかなって、いや、ご無礼を!」
「レナ、そういうことは」
「はっ……す、すみません」
「よいのですか」
私は他人ですよ、と付け足すと目に見えてレナの表情が固まった。ああ、日本の人がよくするような顔をする。間違えたか、と思った矢先にレナが自室の中に戻ってしまった。ぱたぱたと走った彼女を目で追えば、レナは棚からすぐにパジャマを持ち出してくれた。
「はい、どうぞ使ってください!新しい服を買っても、これはあげますから」
「そ、それはそんな」
「お風呂、使い方分かりますか」
「おふろ?は……シャワーが使えれば」
「あったかいですよ、お風呂!」
それまでの勢いはどうしたのか、ぱん、と押し付けられたパジャマを抱いて私はぽかんとしてしまった。どうにもその気になったのかレナは「私の部屋ので教えてあげますから、どうぞ入ってください!」と奥の部屋へ進んでいってしまった。パジャマは、かわいらしいオレンジの柄をしていた。心なしかあたたかい香りもする。きゅっとそれを抱きしめて、私は初めて他人の部屋というものに足を踏み入れた。
横目にした棚つきの机は私の部屋にはないもので、自分で揃えたものなのだろう。それに、その棚には『マナ』の模型があって驚いた。この時代にずらりと紙の本も並べてあって、他に突出したインテリアはない。それだけだ。それだけだが、なんとなく、彼女という人間を感じる香りがあった。
水の音がしてきて、慌てて奥の部屋に顔を覗かせる。
「ここをですね、このパネルを、こうしてやれば簡単にお湯を送ってくれるんですけど」
すでにシャワーから浴槽に向かってお湯を出していたレナは、壁についていたパネルをなれたように操作していく。こんなもの、私の国にはなかった。便利なものだ。
理解できた。操作は、理解できた。できたけれど。
「どうしてここまでしてくれるのですか」
シャワーの音にかきけされると思ったのに、浴室には声が妙に反芻した。パネルを操作してお湯を止めたレナは、くもった眼鏡を外してその瞳に私を映してくれた。それから彼女は、とてもかわいらしく、嬉しそうに、でも悲しそうに眉を下げて笑って。
「これくらいしかできませんから」
そんなことを言うものだから、私は思わず、そうじゃない、日本の人は誰も彼もこんなにやさしいのだ、と言いたくなった。でもそうするよりいいことがあると、なんとなく思って、息を飲み込む。
まだ私は、日本のことも、『地球型マナ』のことも、ジョーのことも海のことも御美川のこともレナのこともまだよくわからないでいる。だが、わからなければならない。わかろうとしなければならない。私はこれからこの人たちを利用しようとしているのだから。
だから、きっと、こうすればいいのではないか。
「……ありがとう、ございます」
ああ、そう言ってみればレナはやっぱり、もっと笑ってくれた。幼い顔立ちいっぱいに広げた笑顔につられてうれしい気持ちが伝わって来るが、うまく笑えない。頬の筋肉の上げ方を、忘れてしまったようだった。
「あとこれ」
「はあい?」
「いいにおいがしますね」
「ぎゃあ!」
パジャマを抱きしめるとやめてください、と濡れた腕を伸ばして面白く反応してくれるレナのために、笑いたかった。だが今は、いつかちゃんと上手に笑ってあげられたらと、あたたかく思えるのだ。