第十話 進化の前兆
夢を見ていた。はっとして自分の頬をつねってみて痛いと思うのに、声を出そうとしてみればちゃんと音となって自分の耳に届くのに、俺は何故かこの今の空間を夢だと認識していた。唯一夢らしい感覚といえば、体が、精神がふわふわと浮いていること。まさに夢心地で、いつこれ以上意識が沈んでしまうかもわからない不安感もあった。だがとても気持ちよかった。
そもそも、夢見てるってことは、俺なんで寝てるんだっけ。
はて、と考えてみるも記憶を全く掘り返せなかった。あれ、おかしい。寝る直前何してたかも昨日何食べたかも誰にあったかも鏡で見た自分の顔も自分の名前もなんも思い出せない。
何も。
――いや何かある。
ぼんやりと景色が見えた。いや、景色というよりは色だ。それも真っ暗で、冷たくて、狭苦しく重い重い空気。
これは、なんだ?ここは、どこだ。しかし俺はそれを何よりも知っている気がした。俺はいつからかそこにいて、そして俺はずっとそこにいた。だけど記憶は何も繋がらなくて、何も、何も。何も。じゃあこれは何なんだ、この言葉はなんだ、言葉とは何だ、俺は何を考えてるんだ。俺って、俺って、俺。
俺って。
誰だ?
ピピ、ピピ。
機械音が耳につく。ゆっくりと視界があるのを認識したけれど、俺はいつから目を開けていたんだろう。遅れて瞼の重みを感じた。見上げているのは真っ白な天井で、呼吸はしづらい。なにかが口元に取り付けられている。息を吐くたびにむれて口元が生ぬるくなった。
病院か。ああ、病院と、言うのか、これは。
「あ、鬼塚少尉!鬼塚少尉、わかりますか」
ふと声に反応して目を向ければ、ビニールだろうか、透明なカーテンの奥に看護師が見えた。音を連呼して、看護師は腕の端末から無線をつなげて報告をしだした。
この人、今なんて言った?
おにづか?
鬼塚?
俺は自然と目が丸くなるのを感じた。今まさに地面に着地した。そんな安心感と自重を一気に感じ、妙な歓喜に心から震えた。グラグラとまだ揺れていて、でも重くてしっかりとしていて、不思議で、でもやはり嬉しい。新しい感覚に包まれる。
だが歓喜は長くは続かなかった。
大きく吸い込んだ息が内部から皮膚を押し上げ、ブチッ、と嫌な感覚がする。
「いっ……でええええ!!!!!!」
夏の兆しも見えてきた五月の頃。
俺、鬼塚定清は実に七日ぶりに意識を取り戻した。
第十話 進化の前兆
目を覚ましてみれば山盛りのパンを筆頭にした土産があったのに驚きつつ嬉しく思ったものの、胃を含む内蔵に膨大な損傷があるからしばらく消化に悪いものは禁止、と釘を刺され、土産の品を片付けられた。おまけに部屋も移動することになり、本格的な除菌室から以前ヴィオラがいたような広い一人部屋で寝ることになった。傷の具合から見た待遇というよりは、官位とパイロットとしての貴重さゆえの待遇か。まあ、悪いもんじゃない。人がいるよりはよっぽど好きだ。去り際に、治ったらお菓子もお返しますからね、と言った看護師の笑顔が今ばかりは恨めしく思ったが、実際左の脇腹の感覚が気持ち悪くて仕方ないので黙ることにした。意識が戻ってすぐに麻酔を打ってもらったが、余計に違和感が、すごい。この七年間でここまでの大怪我ってなかったんじゃなかろうか。ダイヤモンドで作った刃ですら『マナ』の金属には傷を付けるのが精一杯らしいし、戦場で弾丸を受けようと抉れることもなかった。そもそもそんなことをされる前に大抵はバリアを張ってしまうから、あっても打撲や切り傷程度だったというのに。
俺はまた病室に一人になってから、数日前に起こったアライジアの襲撃を思い出した。まだ詳しい話は聞いていないが、日本防衛部に損害が出ているという話がないのなら全て無事に片付いたのだろう。それなら、それはいい。なら問題はこちらのことだ。
「あれは『マナ』の武器だったよなあー……」
『マナ』を傷つけうる唯一の存在、それは同一の存在である純正の『マナ』でしかありえない。しかしあの時襲来したのは間違いなく自爆用の爆弾を詰んだ『アライジア製マナ』であったし、それなのにあの右腕の刃だけは異質だと『俺たち』は認識した。そしてそれは事実『地球型マナ』の腹を貫いた。
嫌な感覚だ。それがどういうことなのかくらい、俺だって、なんとなくは分かる。アライジアが捕獲した『地球外マナ』がどうなったのか、どうされたのか。日本がかろうじての道徳心をもって禁止とされている『地球外マナ』の強制的な改造、解剖に容易く踏み入っているというのか。ああ、空っぽの胃だっていうのに吐きそうになる。
っていうか腹減ったなあ。
とりあえずぼけっと時間が経つのを待ち、傷がとっとと塞がってくれるのを助けるしか今やること、やれることはない。天井のシミでも数えるかと見上げて、ものすごく綺麗な真っ白の質感しかなかったのにため息を吐いた時だった。
扉が開く。あれ鍵とかしまってないんだ、と思ったがそういえば前俺もさらっとヴィオラの部屋に入ったしなあ。そう思っていたのだが、来客はその時とは全く逆の状況となるお嬢様本人だった。
それも、なんか、ドレスなんかじゃなく俺たち日本の隊員服なんかを着てるお嬢様が。
目を瞬かせているうちにヴィオラはベッドのすぐ傍らまでやってきて、手本のような礼をする。
「戦闘の方、ご苦労様でした。戦果と現状をお伝えするために参りました」
「……はい」
「あ、そうでした。ジョーにはお伝えしていませんでしたが、この度ヴィオラ・マークエル・ハイネスは日本防衛部の技術部門に所属することとなりました」
「はい?」
「監視目的ではありましょうが、私から情報を実践の上で収集させたほうが都合も良いという判断かと。それに、私としては『マナ』に触れることが出来る機会ですから、誠心誠意努めさせていただきます。それで、この報告をしてこいと、初仕事を預かりまして」
なにか変な呼ばれ方をしたような気がするが、そんな真剣にご挨拶されても俺にどうしろと。え、というか敵国のお嬢様に国家機密レベルの兵器を触らせるっていうのか?誰が決めたんだこんなこと。だが嘘とは思えず、ああそうなのと小さく頷くと、ヴィオラは顔にはさほど変化を出さないが、動きにかちこちと緊張を見せながら腕の端末からディスプレイを宙に投影した。映し出されていたのは緑の混じった黄色をした、刃。俺はそれに覚えがあった。
「あなたが眠っていた間に、こちらの調査が概ね終了しました。それから、『アライジア製マナ』の研究も進んでいます。この国は『アライジア製マナ』の情報がほとんどないのですね」
「そりゃあ、持って帰る前に爆ぜちまってたからなぁ。まさか自爆積んでるとはそうそう思わねえよ」
「解析もつけず勝負のみを繰り返していたなんて、不思議な国です。……ではなく、こちらの刃の素材としましては」
「『地球外マナ』と同じ?」
「はい、そして『地球型マナ』とほぼ同質。おそらく、ではありますが『火星型マナ』が所持していた武器もしくは体の一部に、更に加工を重ねたものかと思われます」
それが襲来したのはいつだったか。そしてアライジアに持って行かれたのはいつだったか。そこは純粋に思い出せない。さっきの夢の中ではもっと気持ち悪い感じに忘れていたのだけれど。あれ、というかどんな夢だったっけ。考えれば考えるほど次第に薄れていく記憶に怪訝に眉をひそめていると、ヴィオラはやはりまっすぐな目で、子供のような目でこちらを見てくる。こいつはそうなのだ、子供のようにまっすぐで、純粋で、言われたこと全部飲み込んで素晴らしい人間になっているのに、たまに恐ろしいくらい真っ直ぐになる。表情がないわけじゃない。ただ、楽しそうにするくせに急に別人みたいになる感覚が気持ち悪いのだ。
ヴィオラは俺が何を考えていると思ったのか、ディスプレイを消して小さく俯く。
「……ジョーは、日本の人たちは優しい人たちばかりですね。聞く話、捕獲した『地球外マナ』もろくに調べられていない。規則が厳しくてがんじがらめになっています」
「はあ、まあ、道徳がどうだとかいってな」
「道徳」
そして子供のように残虐なところがある。ヴィオラの言葉を借りるなら、アライジアの人間はそういう観念がいささか理解できないっていうもんだ。
心底わからないというような顔をするヴィオラに小さく笑ってやる。
「日本らしいお堅い考えのこと」
「難しい考えのことですね」
「おたくらにはそうかもしれねえなあ」
「難しいです」
それでもヴィオラは笑いもせず頷くだけだった。じっと顔を見ているとエメラルドの目と目線が重なった。大きな目をしている。武器についての報告はそれだけだったようだし、戦果云々は、まあ一心が許してくれでもすればそっちから聞くし。
「報告はそんだけでいいよ、あとはパイロット仲間から聞くし」
「そうですか。あの、ジョーにおうかがいしたいのですが」
うん、もしかしてそのジョーってのは俺のことなのかな。
「なんでしょうかね」
「お怪我の、調子は」
ほかに誰もいないんだからそりゃ俺か。そんな俺のいつかの問いかけの言葉を真似たのか、慣れない様子でヴィオラが疑問符を投げかけてくる。これは、なんだ。こいつなりの気遣いなのかね。
まっすぐなお嬢様の分まで、というわけではないにしろ、俺はお得意の満面の笑みを浮かべて見せた。
「えーと、胃にでっかい穴があいてんだと」
「えっ」
「飯が食えない」
「そ、それは大変です!どうかご安静に!」
うん、感情はあるんだよなあ。
大慌てしだすヴィオラを内心で観察して、こんな彼女でもあんなに恐ろしい顔をするのだと、いつか売国奴を宣言された暗がりの表情を思い出した。
病室を出ると、壁にもたれかかっていたのは自分の上司となる男だった。
「大尉」
「ようお嬢さん。お仕事の出来はどうで?」
「戦果のほうは仲間の方から伺うそうで、武器の説明はしたのですが」
「少尉くんがいいってならいいんだろ。さ、じゃあまた戻って仕事だ仕事」
手をひらひらと振るその仕草そのものが、この人間をあらわすような軽々しさで。私がその背中に迷わずついていってしまうのはそうする他ないからで、強制的な進路であるはずなのに決して重みを感じない選択であると思うのは、思ってしまうのは。
私は小さく息を吸い込んだ。
「本当に私に『マナ』の整備をさせるのですか」
ベッドからの拘束は異常な程早く解かれた。痕は残っているものの痛みはほとんどない。それはあの白い機体がはじめに随分と熱心に私に治癒をしてくれたおかげであり、むしろ治癒をしてくれたせいと言ったっていいはずだった。私は日本にとって敵国の人間であり、ただ野放しにされるはずもなく、今度こそ監獄にでも押し込まれるだろうか、と思っていた。だが一度きり入ったのは『懲罰房』であってあくまでも私は誰彼と変わらない態度をとられている。悪いことをしたからお仕置きだと。しかもそれもすぐに解放され、私の身が受け渡されたのは『マナ』の整備と調査を担当する技術部門だった。
この男、御美川という男は私を喜んで受け入れた。自分にしばらくついてくるようにと指示をし、連れて行かれるままひととおりの技術部の人間に挨拶を重ね、そして今日この後に渡された仕事というのが『マナ』の整備だ。
日本の基地の人間は知っているはずだった。私が『マナ』を求めていると。
御美川はゆっくりと振り向く。口元に笑みをたたえた様は、技術部の隊員がこっそりと『あの人はサボり魔だし女好きだしで信用しないほうがいい』と教えてくれたのがとても納得できるようなものだった。しかしその時の誰もがあたたかみを持ってかけてくれた声を思い出して、私は唇を噛んだ。
「んー、そりゃそうだ。なんたっておたくは存外『マナ』に詳しい。それも人工のだけじゃなく純粋のにも、ときた」
「だからといって」
「ということはアライジアで確かに純正の『マナ』に動きがあるってことだ」
御美川が足を止めたのに続いて、その一歩後ろで静止する。声音も表情も一切変わらない。なのにそこには確かに私たちの敵である感情が含まれていた。怖いとは、思わない。むしろ、やっと私を敵として扱ってくれたと、安堵さえ。予想できない対応の方が恐ろしい。
「……そうですね。ですが、私はその知識も経験も、日本に委ねることにしました」
「そりゃどうしてわざわざ」
「完全な『地球型マナ』があるからです」
「つまりおたくらの国の純正『マナ』は不完全ってわけ」
「はい」
本来なら、初日に怪我に怪我を重ねるような拷問を受ける覚悟だってあった。だが今の今まで、アライジアについての問い詰めも簡単な問いかけすらもほとんどなかった。今やもうそれに疑問を抱くより、自ら日本に協力するほうがいい。
あんな、あんな恐ろしいことをこれ以上誰かにさせるような国は。
大切な親兄妹が、私のおかしな性質に成り果てるように、同じように実験されるのは。
神経から食われ、侵食され、私のようになってしまうくらいなら。
それくらいなら。
例え、私が裏切り者になろうとも。
例え、大切な家族を助けられないとしても。
大切な家族の敵になろうとも。
全てを。
わたしが。
そしてそれを、『わたし』は許してくれた。
「……お嬢さん、そんな怖い顔せんでも、俺たちはあんたをうまいこと利用しようってんだ」
気づいた時には頭に手が置かれていた。目を見張る。足音もなく、気配もなく――いや、集中しすぎてきっと意識できなかっただけなんだろうけれど――私に向かい合って笑いかけてくる御美川は、やはり私の敵だと、なんとなく思った。
けど。
「だからあんたはせいぜい頑張って働くんだな。アライジアをぶっ倒す。いい話じゃねえか、俺たちおっさん世代の三十年の願いがやっとこさ叶うってんだから」
敵であるのに、どうして、味方よりも、落ち着くあたたかさをしているんだろう。
しばらくぽんぽんと撫でられ、次第に腰が抜けてしまうのではないかというくらい気力を失ってくる。いつの間にか荒くなっていた呼吸も落ち着いてきて、それを見ると御美川はふふんと満足げに笑ってまた歩き出してしまった。
「さーヴィオラのお嬢さんよ、整備の前にまずはあんたの調査をせにゃならん。抗体値を計るぞ、じゃなきゃあんたが食われても困る」
レナはあいつ低いからもったいねえ、とぼやく声を聞き、せっかく落ち着いた心臓がまた騒がしくなる。
抗体値。
抗体値を、計る。
低いとやはり、整備に障害が出るのか。
何もしなければきっと、私は、使えないただの敵国の小娘に終わる。
だがそれは今じゃない。
私はそっと、歩き出す前に、左の親指の爪を舐めた。
『あの液体』は眠っている間に徴収されたらしく、どこにも見当たらない。だけどそれは私以外にとっては何にも使えない不気味な液体であるし、まだ、九つの爪に塗った液体はそのまま残っている。だから、どうにかなる。きっと、どうにかなるはずだ。
しばらく口の中で唾液を噛んだのち、静かに飲み込んだ。