Second Day./Ⅲ/『ティムズ川』
なんというか、とても寂しい。
そういう気分になる場所だなぁ、と僕は思う。
今、僕はティムズ川の上にいる。二人乗りほどの大きさのボートに乗っている。
黒い暗い悲しい水面には、明るい華やかなロンドンの街が、夜景が、映し出されていた。
時計台は11時を指そうとしている。
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「ティムズ川、橋の下、いつも、舟、ある」
エルサームが片言ながらそう言っていた。
そのことを頭に叩き込み、日が沈むまでに僕は橋の下へと向かった。
ティムズ川は暖かみのある色合いを映し出している。日暮れが近い。
橋の下にはエルサームが言っていたとおり、小舟が一艘浮かんでいた。岸にロープで止められているわけでもないのになぜか舟は川の流れに流されていなかった。
僕は舟の船首にロープをかけ岸の方へ手繰り寄せた。
舟の中には見たことのない器具が置いてあった。
それはメガネのようでメガネでなく、どちらかといえばゴーグルに近かった。だが、そのゴーグルには口元を覆う何かが付いていた。そう、ガスマスクのようだったが、なぜかその口元を覆う部分からホースのようなものが伸びており、その管の先には大きなタンクが繋がっていた。
僕は舟に乗るとそれを顔に装着した。試しに息を吸ってみるとタンクから空気が送り込まれ、吐くと空気が外へと逃げていった。
これが水に潜るための装置だとは知らなかったが、そのためにあることには気が付いた。そして僕はマスクを外した。
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ゴォゥン、
僕はマスク越しにその雄大な鐘の音を聞くと、後ろ向きにティムズの水の中へと沈んでいった。
水音は...立たない。
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「今日は何もするなって言われてもなぁー」
短針は11を少し離れたところにあった。長針は4を指す。
「こっちにだって都合ってのがあるってのに」
一人の少女が橋の上、橋の真ん中にいた。橋の高欄にもたれかかっている。
「昨日逃げきられた相手に1日やるって、こっちもかなりピンチだなぁー」
そうは言いながらも彼女の口元は緩んでいた。余裕のある様子だった。
橋に背を掛けながら少女は上を見た。彼女の被るフードがバサッと外れた。
「あーあ、どうっしよっかなぁー」
彼女は顔を空に向けて言う。口元はどこか楽しげだった。彼女の顔立ちは幼げで人一倍大人びていた。彼女の白い銀の髪が、ロンドに吹き込む乾いた風に流される。白に埋もれている黒い髪も、夜の光に照らされてなびいているのがわかった。
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ティムズの水はとても冷たかった。身体が凍りつきそうなほどだった。
僕はティムズの流れに流されないよう岸から垂らしておいたロープにつかまっている。
手が、足が、胸が、頬がその流れの優しさのなかにある刺々しさを感じていた。
僕が今、どれくらいの深さにいるのかわからなかった、が、水面にはまだ光がともっているから思っているよりも深くはないのかもしれない。それでもその光は手を伸ばしても掴めそうにはなかった。顔の前から現れる空気の玉だけが目の前で生まれては上へ上へと上がっていった。
孤独。
水の中はどこか、いつもの生活に似ていた。
ごく最近こんな思いを感じて僕はその時にもがいていたような気がした。が、ただの思い込みだったようだ。夢にでも出たことがあったのだろうと思った。
水面にギラギラとした光が外から近づいてきた。水中から見れば蛍のように見えたが、明らかに違うものだとわかった。
それは僕の世界に突如侵入した。
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「みは眠くなったし帰ろうかな」
橋の上の少女は橋にもたれていた。
ふわぁ、と小さな口であくびをする。
夜もまだそこまで深くはないはずだが、彼女のいる橋には人が全くいなかった。まるで彼女のために世界が静まり返っているようだった。
「足音がないな」
彼女にしか聞こえないような小さな声で少女は呟いた。
彼女は、橋を今にも渡り始めようとしていた男のそれに気がついた。男は時計台とは逆方向の闇からあらわれた。
男は何の躊躇もなく暗闇の中から橋を渡り出す。スタスタとも鳴らないその足音が少女に近づいていく。
男は、彼の特徴を際立たせているであろう角ばったゴーグルの下に、薄く細長い笑みを浮かべた。どこか畏怖が感じられた。
男が少女の前を通り過ぎようとしたとき。
「お嬢ちゃん、こんな夜遅くに一人でいたらあぶないよーん」
「ん?」
少女は顔を元の位置へと戻し男を目で追う。
「だがまぁー、今日はついてる。今日のリッパーの狙いは君じゃなかったようだ」
男はハハハ、と笑いながら橋を渡る。少女がその言葉の意味を理解したころ、男は明るいロンドの街の方へと溶け込んでいった。
「今日は負けてばっかりだなぁ」
少女は少し悔しげだった。それでも彼女はその顔に笑みを浮かべていた。まるで何かのイタズラを思いついたかのようにーー
「やめよっかとも思ったけどやっぱりやーろおっと」
そう言うと彼女はポケットから丸い何かを取り出した。その形は手榴弾そのものだった。
彼女はその手榴弾の先のピンを口で抜き、手首をふわっと曲げた。
黒い小さな楕円のそれが光を、奇妙な光を、放ちながら落ちていった。
ボトンッ
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ボトンッ
小さくはあったがその音は僕の耳に届いた。音に反応、いや、反射するかのように上を見る。
水面にキラキラと映る、光とは明らかに異質な閃光が視界に入ってくる。
ーまぶしい。
そう思う刹那、また僕を、僕の身体が拒絶するものが身体の中に入ってくる。
音。音波。
ー 僕には...わかる。
ーーーーーー
その音波は、常人の、さらには超人でも感じ取れないはずの高音、つまり高周波を放っていたが彼の超人をも凌駕するそのセンス、五感がそれを読み取った。理解した。
ーーーーーー
ーなんて耳障りな音。いったい何なんだ。頭が痛い。
僕は塞いでも何も変わらないだろう音を防ぐため耳に手を当てた。やはり音は鳴り止まない。
僕の耳に黒板に爪を立てたような不快な旋律が流れ続ける。
ーはやく、治まってくれ。
榴弾は小さな丸いつぶを吐き出しながら、まるで鳥の羽根のように、ひらひらと落ちてくる。
コツンッ
その音、榴弾が川底についた音と同時にその不快は消えた。
ー治まった。なんだったんだ?
僕は右手にロープを握りながらその黒い発光体がなんだったのか探りにいく。
川底はとても暗く、その物体が何でありどこにあるのかもわからなかった。
僕は流されないようロープを掴みながら足場を手探りに探す。川底の土が舞いあたりは泥に包まれた。
ブクククク
そんな音、そんな水の音が耳に入ってきた。
川の流れとは反対方向から聞こえてくるその音はまだ正体がわからなかった。音の発信元はかなり遠いようだった。
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「あれー、おっかしいなー。なにも起きないじゃんかー。ただ光っただけー?」
橋の少女は高欄から身を乗り出し、川の下の人工的に作られた光が消えたのを見てガックリとしているようだった。
「なんだよ、もー詐欺かよー」
川に投げ込んだそれが少女の期待した役目を果たさなかったようだった。
だが、
ブクククク
そんな音が彼女のいる橋に迫っていた。
少女はまだ気づいていない。
"ブクブククク”
音は次第に大きくなっていく。
そして、少女がそれに気がついた。
「おっ、きたー」
少女は、響き渡るほどの高い声と共に無邪気な笑顔を作り出していた。
彼女の足下には黒い黒い巨大な魚影が泳いでいた。
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僕は目を凝らす。川下の方へと。
それは、その音は、だんだんと僕の方へ流れてくる。水の流れに反して。
頭の中に響くのはあの美術館のBGM。迫り来る『ジョーンズ』のテーマ。
ーー響く響く響く
//////ダダン/////ダダン////ダダン///ダダン//ダダッ
ブクブクッ、ブク、ボコッ、ボコボコッ
ー息が、呼吸が乱れる。
それは、
ー逃げなきゃ
それは、
ー早く
それは、
ーハヤク、ニゲナ、キッ、ヤ
迫り、開いた。『鮫、サメ』
ゴボゴボゴボッゴォホボゴッゴボゴボッボボッ
呼吸が-。前に投げ出す腕は無力にも流される。動かせど動かせど足は縺れ、水流に絡め取られる。
ーー藻掻く藻掻く藻掻く
僕は泳ぐのを諦めた。それは生への執着を捨てたわけでは無かった。
ーいい方法があった。
それだけのことだった。