Second Day./Ⅱ/『たまり場』
僕は大通りまで全速力で走った。早く人の温もりを、その温もりのもたらす安心感が欲しかったからだ。
商店街のある通りに着いた。
ただそばに人がいる、たくさんの人がいると思うだけで僕の心は穏やかになった。
通りを歩いている内に、いつもの行きつけの八百屋が目に入った。この八百屋には僕の大好物の『鮮血トマト』が売ってある。その名の通りトマトの汁が人の血のように真っ赤でかなり濁っている。その濁りには生きていく上で最低限必要な栄養素が含まれている。トマトはとても安く、僕は好んでこれを買っていた。盗むこともときどきあった。でも、出来るだけ買うことにしていた。だから、今もトマトを購入した。
「へい、いらっしゃい。おう、あんちゃんかトマトだねぇ?1ペニーだよぉぅ」
「はい...」
「なんだぁか暗いねぇー。まぁトマトでも食って元気だしなよっな」
ガタイのいい怖顔の店主は僕を励ますかのように力強く背中を叩きながら釣り銭とトマトを僕に渡した。ポケットがさっきより重たくなった。
僕はまた、通りをうつむきながら歩き出した。
「あんちゃん!」
立ち去ろうとしていた僕を店主が止めた。
「ちょっと来な!いいとこに連れてってやる」
僕は無言で頷いた。正常な思考回路が働いていたとしたら普通はついていかないだろうが、極度の疲れと再び湧いた恐怖がそれを妨げた。
そして僕は店主の後をトボトボとついていった。
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「俺の名前はマックてんだ。マック・ドッグ。まぁ気楽にマックとでも呼んでくれ。ただしドッグとは言うなよぉぅ。犬みたいでおらぁその呼び方が嫌いなんだ」
「はい...分かりました...」
バンッ。
先を歩いていた店主、マックが突然立ち止まった。僕はマックにぶつかってしまった。
「よし、着いたぞ、あんちゃん」
僕は下ばかり見ていた顔を上げる。マックはぶつかったことになんとも思っていないようだ。案外体がでかすぎて気づいていないのかもしれないと僕は思った。
そこは商店街の通りから一本外れた道だった。そして目の前に一軒の古びた喫茶店があった。その店は古いことをなんとか隠そうと新しく見せようとしていたが、その努力も無駄なことに古さを誤魔化しきれていなかった。
喫茶店の名前は『haunt』。
店の扉には『closed』の看板がぶら下がっていた。
「あの、閉まってるんじゃ...」
店の扉の取っ手に手をかけていた店主を止めるように僕は言った。
「なぁーに、この店が閉まってるときだからあんちゃんが入らなきゃいけないんだよぉぅ」
そう言って店主マックは扉を開けた。
カララン。
軽快なベルの音が内にも外にも鳴り響く。
店主のマックは『closed』とかかっているにもかかわらず、ズカズカと店の中に入っていった。
僕もそれに続いて遠慮がちに入っていった。
店の中は少し暗かった。明かりは入り口の横にある窓から差し込む朝日だけらしかった。
カウンターテーブルの真上に電灯があったが、まだその明かりは光を灯していなかった。
カウンターはL字になっており、店の中の席はカウンター以外に二人席が二つと四人席が三つあった。外見の割には大きめの店だった。
L字のカウンターの中に一人の女性がいた。足を組みながら新聞を読んでいる。新聞紙越しに煙が見えるから、煙草でも吸っているのだろうか、と僕は思った。
「ちっ、燃えちまった」
彼女は新聞紙を地面に放すように投げ捨て足でグリグリと、その新聞紙を踏みつけた。そのあと新聞をひろい上げ、読もうとしたが、
「なんだ。客か...」
こちらに気づいたようだった。
「お前も美人なんだから煙草くらいやめろよぉぅ。もってぇーねぇーぞぉう」
「ドッグ。お前にそんなこと言われる筋合いはない」
彼女は怒っていた。
そして煙草の火を消した。
「で、何の用だい?」
「客を連れてきやったてのに冷てぇなぁおい」
「そこの坊やかい?客ってのは」
「おう、あと俺も客だ。コーヒー一杯くれや」
「残念だが喫茶店はまだ開いていない。さっさと帰れ。あと、坊やは残りな」
僕は小さく頷いた。
「やっぱり冷てぇーなぁー。あーたよ。帰るよぉぅ。店が開いたらまた来てぐだぐだ話してやる」
「早く店に戻れ。お前の奥さんがかわいそうだ」
「はぁー」
溜め息をつきながらマックは背を丸め、来た道を帰っていった。
マックがいなくなるとこの空間がとても広く感じられた。
「さて、邪魔者も消えたところだ。始めようか」
「何を…ですか…」
「何をって。なんだ聞いてないのか。あの犬また適当に選んできたなー」
選ぶという言葉に僕は違和感を覚えたが、何も起きないだろうという小さな確信があった。
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「どうしたらいいんでしょうか」
僕と女性、唐黍もろこし遠子とおこは一時間近く話し込んでいる。
遠子は煙草を加えながらカウンター越しに、頬杖をつきながら話を聞いている。煙草の火に髪が当たりそうになっていた。遠子の髪は火にも劣らないほど真紅であった。
「さぁね。まぁ一つ聞くとすれば、生きたいのか、死にたいのか、ということだけだが」
「死にたい生きたい。です。」
「生きたいのかい?ハハハ。本心は死にたいといっているのにか?」
「きっといいことがあると思っているからです。この不幸は後の幸福につながっている。僕はそう信じているから、死にたいと思っても生きているんです...」
「ふーん、よくわからない。が、坊やを気に入ったよ。君が幸福にならない未来が見たくなっただけだけれど。まぁ今日一日生きられる方法を教えてやろう」
「あ、ありがとう…ございます」
「ただし、料金は高くつくよ」
僕は一瞬言葉につまる。
「まぁだが、一見さんだ。最初はまけてやらんこともない」
「本当ですか」
「ああ、女にも二言はない。そうだな、坊やが、今持っている有り金全部でいい」
「えっ…」
「当然だ。ほら出しな」
「いやっその…」
「なんだ、死にたいなら死ねばいい」
僕には『死』という言葉がいつも以上に重く感じられた。だから、僕はポケットから所持金を全て取り出した。
「んっ、なんだ、意外と多いじゃないかい。まぁそれでも最低価格には足りないがね」
「足りないですか…僕の食事三日分なんですが…」
「まぁ、サービスと言ったのは私だ。これでいいよ」
「ありがとうございます」
遠子は僕の言葉をよそに慣れた手つきで硬貨全てを回収した。
「あと二日逃げ果せればいいな」
扉の数字の意味は遠子の推測によると切り裂き魔の『襲撃回数』ではなく、『残りの日数』らしかった。根拠はないがなぜか僕にはそれが正しいと感じられた。
「あの、二日とも逃げることができる方法は教えてもらえないのですか」
「教えることはできるが、その額じゃ無理だね。諦めな」
「お金ならなんとかします…」
「坊や。スラム街に住む君の言葉を誰が信用できると思う?私も然りだ。世の中はそんなに甘くできちゃいない」
「でも…僕が死ぬかもしれないんですよ」
「そんなことまでは知らないよ。坊やが坊やでなんとかしな。死んだら死んだだ。私にはただそれだけのことさ」
遠子は続けて
「ただ、私の坊やへの期待を失望に変えないでくれ」
と呆れたように言った。
遠子の呆れ顔をみると、僕はそれ以上何も言うことができなかった。
「エルサーム」
遠子は店の裏に向けて、そう誰かを呼んだ。
その数十秒後マックにも劣らないほどガタイの大きい男が暖簾のれんをくぐって店の厨房の方へやってきた。
男の名はエルサーム。顔の彫りがとても深いが、なぜかその顔が特徴の無い各々のパーツによって打ち消され、さっぱりした顔つきになっていた。
「どうした、トオコ」
エルサームは厨房に入るととても低い声でそう言った。『遠子』という東洋人の名前が言いにくそうである。
「あんたに依頼人だ。あとは任せた。私は別の用事ができたからな」
遠子は飽きたと言わんばかりの冷めた顔をして店の裏の方へ行ってしまった。
「要件、なんだ」
エルサームは僕を威圧するようにそう言った