希望の夜明け
夜が明けた。
どこへ行ったって、能面のようのな顔のの人達しかいない。
決して良い世の中じゃなかったが、こんな何の温もりも感じられない
世の中よりは、ずっとマシだったんじゃないだろうか?
涼介は、実家へ電話をした。
やっぱり誰も出ない。
もう限界だ‼︎
涼介はアパートから外へ出た。
死に場所を探すために……
公園の木にロープをかけて首を吊ろうか……
高層の建物から飛び降りるか……
いざ、そうしようと思うと、以外に死に場所は見つからない。
歩き疲れて、公園のベンチで ぼんやり座っていた。
「あの……」
涼介に誰かが声を掛けた。
どこかで見た顔だ。
「どうかしたんですか?何だか元気がないじゃないですか」
年配の男性がそう言った。
思い出した。あの薬局の店主だ。
本当に久しぶりに、能面じゃない人に声を掛けられた。
「あなたは薬局の……僕、もう疲れてしまって……
今だって、死に場所を探しに出てきたんです。もう、限界なんです!」
涼介は、さして知りもしない相手にそう言ってしまう程、切羽詰まっていた。
薬局の店主は言った。
「良かったら話してみませんか?私でよければ力になりますよ」
店主は涼介の隣りに腰掛けた。
涼介は、これまで自分の身に起きた事を、洗いざらい店主に
話して聞かせた。
店主は黙って、時折り相づちを打ちながら、真剣に聞いてくれた。
一頻り涼介の話しが終わると、店主が言った。
「本当に大変でしたね。あなたの気持ちが分かるなんて、おこがましい事は
言いませんが、私にも辛い事がありましてね。聞いて頂けますか?」
涼介は聞いてみたいと思った。「是非、聞かせてください」と答えた。
店主は、ゆっくりと話し始めた。
「私には30年間連れ添った妻がいました。できた妻でね、料理も上手かった。
子供には恵まれなかったが、私達は 二人であの店を切り盛りして、裕福ではないが、
それなりに慎ましく生活していた。私は妻を愛していた。心の底から……
幸福だった。
そんな妻が突然、病気になってしまった。乳癌でした。
発見した時はもう末期の状態で、余命1年と医者から宣告された。
私は妻にその事を隠していたが、彼女は何か感じていたんでしょうね……
私が彼女のベッドから、ほんの少し離れるだけで、とても不安がってね。
私は出来るだけ妻のそばに居るようにしました。
彼女は自分の死期が近づくにつれ、自分に感情がある事を嘆き始めました」
「感情が邪魔だったという事ですか?」涼介が聞いた。
「その通りです。感情が無ければ、死への恐怖も、私と離れる寂しさも
何も感じなくて済むと言ってね…… 私も辛かった。
彼女の命が1日1日、死に向かっている事を思うと、私自身も
感情を捨ててしまいたいと思ったものですよ」
「心を捨てたい……」
涼介も、正にそう思っていた。
心を捨てるために、死を選ぼうとしていた。
この老夫婦は死の恐怖から逃げるために心を捨てたいと思っていた。
動機は真逆だが、通じるところはあった。
店主は続けた。
「そんな時、ふと ある友人の事を思い出しましてね。その男は脳の研究を
長年やってるヤツで、私は彼に連絡をしたんです。その後、彼と会って
全ての事情を話し、心を捨てる事が出来ないかと相談したんです」
涼介はゴクンと唾を飲み込んだ。
店主の話は続く。
「私は研究者でも、医者でもないから、詳しい事は分からないが、
友人の話は興味深かった。あなた、大脳辺縁系
という場所が脳内にある事を ご存知ですか?」
涼介は「いいえ」と答えた。
店主は言った。
「そうでしょうね。私もその友人の話を聞くまで知らなかったんですから……
どうやら、その部分が、愛情、怒り、抑圧、恐怖、不安などの感情を
司っているらしく、人が人として生きるための営みを担っている場所
らしいんです。その部分の動きを止められれば、感情はなくなるかもしれないと
彼は言ったんです。」
「それで、どうなったんですか!」涼介は急かすように言った。
「まだテスト段階だが……と言って彼は薬を見せてくれた。
私は、その薬を妻のために分けて欲しいと頼んだ。
彼は分けてくれたんですよ、その薬を……」
涼介は凍りついた。
薬で人の心が無くなるなんて、そんな事あるのか……
店主の話は続く。
「私は病院へ戻って、ベッドの妻に、薬の説明をした。彼女はそれを
飲みたいと言った。」
「飲ませたんですか?それを……奥さんんに……」涼介は目を見開いた。
店主は頷いた。
「薬はよく効いてね、妻は死への恐怖を口にしなくなった。
ただ、私の事も分からなくなってしまったらしく、何の反応も
なくなってしまった。悲しかったが、これでいいと思った。
泣きながらこの世を去っていく妻の姿なんて、どうしても
見たくなかったからね。それから一ヶ月程で妻は逝きました。
何の言葉も残さず、顔色一つ変えずにね……」
涼介は、にわかに信じ難い話に、言葉を失っていた。
店主が言った。
もう、妻が亡くなってから10年も経つのに、私はまだ妻への
愛情を消せずにいる。
彼女を失った寂しさを忘れられずにいるんです。
それでも、どうして私が妻と同じ薬を飲まないのか、
あなたに分かりますか?」
「なぜですか?」涼介は聞いた。
「私にはやらなければいけない事があると気づいたんです。
心があるせいで、苦しんでいる他の人達に救いの手を差し伸べるべきだって……」
店主は満足そうに微笑んでいる。
「どういう意味ですか?」涼介は尋ねた。
店主は言った。
「私には幸い薬に関する知識はあった。友人から入手した情報で、
私なりに薬を調合したんです。
妻の時の様に、即効性があるものではなく、ジワジワと効いてくるやつをね……
あなたも、私の店で見たでしょ?茶色のビンに入った あれ。あれですよ。」
涼介は思い出していた。
表情のない女性客が、箱買いして行った あの薬だ。
「みんな、あの薬のおかげで苦しみから解放されて行ってる。
苦しみや、悲しみ、そんな記憶必要ですか?
実際、あなただって逃げようとしていたんでしょう?
そういう感情から……
何も命を絶つ必要なんてないんですよ」
店主は悟りきった顔で涼介に語った。
死を願っていたはずの涼介の心の奥底の方から、大きな波が
押し寄せる様に、ザワザワと何かが湧き上がってきた。
涼介は、それを吐き出す様に言った。
「違う!あなたは間違ってます‼︎」
「そうでしょうか?」店主は不思議そうに切り返した。
涼介は言った。
「確かに、こんな世の中無くなってしまえばいいと思う事もあります。
考えるのを止めたくなる事もあります。起きてくる事件の方が多過ぎて
耐えられないと思う事もあります。ハラワタが煮えくり返りそうな事だって……
そりゃもう毎日ヘトヘトですよ!でも、もし感情が、心が無かったら
人への愛情や、喜びや、感動や、数え切れないくらいのステキな気持ちも、
もう味わえないじゃないですか?
そんなの生きてる意味ありますか?
みんな能面の様な顔をして、まるで初めからインストールされてる動き
を繰り返すロボットと変わらないじゃないですか!
それって生きてるって言えますか?
ただ ただ死ぬ日を待ってる様な、そんな生活、少なくとも僕は望まない。
今は確かに苦しい。逃げたい。
でも、いつか このトンネルから抜け出せると僕は信じてます。
きっと何かを掴んで立ち上がれると、今の僕なら言える。
あなたのしようとしている事は、僕達人間が、絶対に入ってはいけない
領域だと思います。
心が必要ないなら、どうして僕達人間は心を持って生まれてくるんでしょうか?
悲しい事を悲しいと感じるのも、悲しみを乗り越えるのも、
心じゃないですか?
あなたは、とんでもない間違いを犯したと思います。
あなたは、神には なれない……」
涼介は肩を震わせて泣いた。
店主は言った。
「あなたはまだ若い。私の様に年を取れば、そんな事
理想でしかないと分かる日がきますよ。あ、あと 私は
神になりたいわけじゃないんです。ただのボランティアで
やった事です」
ボランティア?冗談じゃない!涼介は思つた。
「あの人達、感情を無くした人たちを元に戻す方法を
教えてください。知ってるんでしょう?あなたは……」
「さあ……私はやっぱり感情は必要ないと思っているんでね
逆の薬は作ってないんですよ。それじゃ……」
店主はそう言って立ち去ろうとした。
「ちょっと待って!無責任ですよ、そんなの……
僕の両親だっておかしくなってるのに」
涼介のこの言葉に、店主は答えた。
「みなさん、自分の意思で薬を飲んだんですよ。
人には忘れてしまいたい記憶の一つや二つ、あるもんなんです。
年を重ねれば重ねるほど、それは増えて行く。
もう、そっとしておいた方がいいと思いますよ」
「そんな……」涼介は力なく言った。
「ただね、薬なんかなくたって、自力で立ち上がろうと
している人間がまだいたなんてね。少し呆れましたが
会えて良かったですよ。その 心の中の希望の旗、
捨ててはいけませんよ」
店主は笑顔でそう言って去って行った。
なんて事だ……
みんなを助ける方法は無いのか……
涼介は、インターネットで調べてみた。
図書館で今まで見た事もない様な分厚い医学書を
開いてみた。
答えは見つからない。どうしよう……
自分は非力だ。
「神様…… 助けて。神様……」
今まで祈った事もないのに、涼介は泣きながら祈った。
泣きながら、アパートのベッドで いつの間にか
眠りに落ちていた。
夢を見た。またあの夢だ。
涼介は白い大地に一人で立っている。
下には蟻の様に多勢の人々が右往左往している。
もう何度も見て知っている。
そこにいてはいけない。
こっちだ、こっちだと白い旗を大きく振る。
すると空に、とてつもなく大きな虹が現れた。
下にいる人々が、次々に虹を見上げた。
しかも、今回は声が出る!
「危ない!ここへ上がって来ーい‼︎」
何度も声が枯れる程、繰り返し叫ぶ涼介。
下の方にいた、蟻の様な多勢の人々が、
一人、また一人と、白い大地に向かって這い上がって来る。
その中には、涼介の両親もいた。
あのコンビニの店員や、ファミレスの店員もいた。
下には誰一人残っていないのを確認したその直後、
大きな亀裂はいつも以上にメキメキと数を増やし、
やがてボロボロに崩壊した。
みんな助かった。
本当に良かった……
スズメの鳴く声で目が覚めた。
涼介の頬は涙で濡れていた。
目を覚ました涼介は、ベッドの上で考え込んでいた。
そう。
今のは、あくまで夢の話だ。事態は何も変わっていない。
涼介は解決の糸口を、何ら掴めずにいた。
どうしよう……
どこへ行けば みんなを助けられる?
やはり、あの薬局の店主にもう一度会うべきだ
彼の話していた脳の研究をしている男なら、
何か教えてくれるかもしれない。
一縷の望みを抱いて、涼介は薬局へ向かった。
例の重い自動ドアが開く。
店主はそこに居た。
涼介は店主に向かって言った。
「昨日あなたは、みんなを元に戻す方法を知らないと
言っていましたよね。それなら、あなたが言っていた
脳の研究をしている友人の連絡先を教えてください。
その人なら、今のこの状況を変えられるかもしれない。
だから……」
店主は遮る様に答えた。
「だから必要ありませんよ。昨日も私は そう言った
じゃありませんか。感情なんて必要ないって……
それに、本当に能面の様な顔をしたのは周囲の人達
ですか?あなたの顔、よく見てごらんなさいよ」
店主は手鏡を涼介に差し出した。
涼介は鏡を覗き込んだ。
彼の顔は感情のない能面の様な顔をしていた。
涼介は腰を抜かした。
転がる様に店を飛び出した。
「なんて事だ!今まで僕が見たものは、僕の心が見せた
ものだったっていうのか……
感情を失っていたのは、僕自身だったのか?」
もう、訳が分からない。
涼介は、道にバッタの様に這いつくばっていた。
も一度店主に、ちゃんと話を聞こうと、ヨロヨロと
立ち上がり、後ろを振り返った。
ない!薬局は忽然と消えていた。
立ちつくす涼介に、近所の見知らぬ主婦が声をかけてきた。
「どうかしましたか?」
「ここに小さな薬局がありましたよね、知りませんか?」涼介は尋ねた。
「さあ……私、この地域に15年以上住んでるけど見た事ないわね。
別の場所と勘違いしてるんじゃないの?」
「そうですか…… すみません……」と言いながら、しみじみ
その主婦の顔を見ると、あの時、薬局で薬を箱買いして行った女性にそっくりだった。
涼介は混乱した。
何だ、今度は何がどうなっているんだ!
彼は実家に連絡してみた。
母が電話に出た。
「あら、涼介。久し振りじゃない!たまには帰ってきなさいよ。
寂しいじゃない……」
何だ?いたって普通じゃないか?
バスに乗って、ハローワークへ行ってみた。
人の声がする。いつも通りだ。ちゃんと、みんな表情がある。
近くのコンビニにも、ファミレスにも確認に行った。
良かった。元に戻ってる。みんな ちゃんと表情がある。
心を取り戻してる。
涼介は涙が止まらなかった。
夕方、電車に乗って実家へ帰った。
母はちゃんと、美味しい料理でもてなしてくれた。
父は、仕事を失った涼介に意外に優しく、今までの努力を労ってくれた。
次の仕事も必ず見つかるから諦めるな、と励ましてくれた。
とても充実した気持ちだった。
こんな気持ちは久し振りだった。
実家の布団で、安らかな気持ちで眠りについた。
いつもの夢は見なかった。
代わりに、あの薬局の店主が夢に出てきてこう言った。
「あなたの持ってる希望の旗、絶対に 手放してはいけませんよ……」
店主は笑顔だった。
夢の中なのに、涼介は思った。
「言われなくても離すもんか!と……」
アパートに帰って来た涼介は、再び職探しの日々を送っている。
宏樹の事は、思い出すと、苦しくて、やりきれなくて、泣く時もあるけど、
でも、その感情を失くしたいとは やっぱり思わない。
宏樹と生きた記憶を、こんなに大切な記憶を失ってたまるか。
今、心の中にある悲しみも、楽しかった記憶も、
全て 宏樹が生きた証しだ。
アイツが生きた証しを、僕が背負って生きて行くんだ。涼介は そう思った。
あれ以来、あの悪夢はパッタリと見なくなった。
薬局も確認に行ったが、やはり見当たらない。
涼介の経験した出来事は、一体何だったのか……
やはり心を失くしていたのは涼介の方だったのか……
考えても分からない。
ただ一つだけ分かった事。
涼介の心の中に、不動の旗が立った事。
「希望」という名の旗が立っている事。
涼介は ビシッとスーツを着込んで、ピカピカに磨いた靴を履いて、
玄関を出ようとしていた。
これから会社の面接に出かけるのだ。
絶対、今度は 上手くいく。
そんな気がしてならない。
「いざ、出陣!」
自分で自分を茶化しながら、出かけて行く涼介。
その背中は、なぜか自信で満ち溢れていた。




