7 喰らうモノ ①
ほのぼの回
街灯と月明かりが夜を照らす午前二時。
桜崎の高等部…その校門前に立つ一組の男女からは、緊張するような冷えた気配が感じられた。
「……中等部の生徒だったのではないのか?」
正確に言えば緊張しているのは外国人の女性だけで、男のほうは感情どころか表情すらも見えてこない。
「お前に聞いているんだ……使徒殿…」
そんな男の態度に女性は苛立ったように短い金髪を指で掻き、ネイティブに近い日本語で、『使徒』という言葉に侮蔑を込めて男を睨みつけた。
「ここで問題ないよ、ヴィッカー」
感情の見えない冷たい美貌……。男性と言うよりも少年に近い年齢の彼は、ただ淡々と事実だけを口にするが、ヴィッカーと呼ばれた女性がまだ睨んでいるのを見て。
「失礼、ミス・ハンナ」
あっさりと名の呼び方を修正した。
「わかればいい……」
何故かファーストネームにミスを付ける呼び方を強要したハンナは、苦々しく顔を顰め苛立ちをぶつけるように声を出す。
「それと質問に答えろ、京人っ! 報酬分は働いて貰うぞ、知識神の使徒よ!」
京人とは上の名か下の名か…。京人は激高する170センチのハンナをさらに上から見下ろして、そっと自分の口元に人差し指を添える。
「ミス・ハンナ…あまり騒ぐと小鳥が逃げるよ。そして質問の答えは、先ほど中等部よりもこの場所から強い『存在認識力』を感じたからだ」
「…間違いないのか?」
「もちろん。俺の神に誓うのが信じられないのなら、公平に『黒髪の少女』へ誓おう」
『黒髪の少女』……神と同列に扱われる存在とは何なのか。
その名を聞いて、ハンナの表情がさらに歪む。
「その話は…あまり好きじゃない……。そんなことはいいからさっさと言えっ! アレはどこにいる!?」
「かなり曖昧になったが、……今なら『そこ』かな」
声を荒げるハンナに京人は微かに眉を顰め、やけに適当に指をさした。
ほんの数メートル先を指さされ、ハンナがぎょっとして振り返ると、そこには。
「……悪魔かっ」
「あなたの国元では、あれをそう呼ぶのか?」
ハンナの吐き捨てるような言葉に、京人の漆黒の瞳にわずかに興味の色が浮かぶ。
碧と黒の瞳が見つめる先に存在したのは、電柱の影に隠れ蠢く暗い塊。
数万匹の羽虫を練り合わせたような蠢く物体に、汚物を見るような目を向けながら、ハンナは小馬鹿にするような声を返す。
「ふん…。当たり前だ、あれに他の呼び名があるとでも言うのか?」
そんな答えに、京人はもう興味を無くしたのか淡々と情報を告げる。
「最下級疑似魔神体。レイヤーの一枚もなく、知性も知能もない、本能で他の生命を襲うだけの、『司祭』ならば何の問題もなく倒せる相手だ」
「…………」
ハンナは微かに眉を顰めて何の言葉も返さず、ただじっと最下級と呼ばれた魔神体を睨みながら、腰のポーチから無言で小さな刃を掴み出した。
その次の瞬間、
『…одинтриодиншесть…我は求め訴えたり…』
月夜に流れる曲のように遠くから声が聞こえると…、夜空から降る闇色の礫が疑似魔神体を一瞬で引き裂いていった。
「…なっ!?」
驚きの声を漏らしたハンナの目の前で、疑似魔神体が塵となって夜風に消えると…、その後には嘘のように清廉な空気だけがその場を満たしていた。
やっと我に返ったハンナが辺りを見回すが、もう何の気配も感じられない。
「ミス・ハンナ、もう無理だよ。ああまで見事な遠距離攻撃では、痕跡を見つけることすら困難だろう」
やはり事実のみを無表情に告げる京人にハンナは苛立ちを向ける。
「あれは何だっ!? 言えっ、京人っ!」
乱暴に京人の襟首をつかみ上げたハンナに、京人は顔色一つ変えず…。
「あれは君の所属とも因縁深い相手だ、ミス・ハンナ」
首を絞めるハンナの腕に京人の手がそっと触れて…、その漆黒の瞳がアメジストのような綺麗な紫色に染められていく。
ちらり……ちらり…と、晩夏の夜に降る雪が二人の周囲だけを極寒の冬に変えて、恐怖に凍るハンナの耳元に京人はゆっくりと囁いた。
「君たちの神敵……【黒神】の魔法だよ」
***
□一樹 12:20
桜崎大芸術学にある、いつものアトリエのいつもの席で…。
どんよりと沈んだ表情で、昼食も摂らずに描き続けていたスケッチブックをパタンと閉じると。
「……はぁぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~…」
と、僕は長くて深い溜息を付いた。
昨夜の『出来事』に僕は何とか折り合いと付けようと頑張ってみたけど、思い出すと倫理的な重圧に心が折れそうになる。
寄りにもよって、まだ13歳の女子中学生にお願いされるまま、あんな『お願い』に応えてしまった……。
そこに。
「…また、いつもより景気の悪い顔してるねぇ」
「っ!?」
背後からの誰かの声に、僕はまたビクッとして振り返る。
「……薫子先輩…」
見知った顔で一瞬だけホッとしかけたけど、よく考えてみると、何も知らない人より事情を知っているほうがやばいと気付いた。
「その顔じゃ、モデルを頼んだらあの子に逃げられた?」
「………」
やっぱり、今は触れられたくなかった小花ちゃんの話題を振られて微妙な顔つきをする僕に、薫子先輩は『うんうん』と頷く。
「大学生の男にいきなりそんなことを言われたら 中学生なら怖がっちゃうよねぇ…。でもせっかく一樹くんが新規分野を開拓するチャンスなのに勿体ないなぁ……。ここはいっそのこと私が…」
「薫子先輩、これ以上ややこしくされると……」
僕が重たい口調でそう呟くと、キョトンとした薫子先輩は、昼ご飯なのか持っていたコンビニ袋からオニギリを取り出して、キョトンとした顔のまま齧り付いた。
「お~い、一樹ぃ~」
やっと静かになった薫子先輩の背後から、いつもの絵の具だらけの白衣を着た東が、大きな紙袋からメロンパンを辿り着くまで三個も胃に収めながら、のっそりとやってきた。
「ヒンガシ…、何だよ、その大量のメロンパンは…」
「駅前のパン屋で、5個200円セールやってたから千円分買ってみた」
「えぇ~~っ、いつの間にそんなのやったのっ!?」
いや、買いすぎだろ。
でも話題に食いついた薫子先輩に東は何個かメロンパンを与え、僕のように何か感じたのか同じようにメロンパンを恵んでくれた。
「一樹……なんだその顔は…。悩みか? 疲労か? 寝不足か?」
「………」
まさか全部正解とは言えない。
「ありがとな……。それでヒンガシは、僕にメロンパンを食わせに来たの?」
「あ、そうそう、昨日の子が一樹に会いに来ているぞ」
「………先に言えよっ!」
「すみません、会いに来てしまいました…」
急いでアトリエの入り口へと向かうと、ちょっと大きめの巾着を持った小花ちゃんがホッとしたように僕を微笑みで出迎えてくれた。
「……うん」
その柔らかな微笑みが、絵の具に薄汚れた学舎にあまりにも似合わず、そこだけこの世界から切り離されていたみたいだった。
淡い琥珀色の瞳と繊細な細い黒髪……。
夏服から冬服に替わっても、あの夏の終わりに感じた、世界から消えてしまいそうな儚さは何も変わらない。
でも……
前と少しだけ違うのは、僕が見つめるその視線に、小花ちゃんは頬を染めて少しだけ瞳を逸らしてしまうんだ。
「あの……昨日はありがとうございます。その…お身体は大丈夫ですか…?」
「あ、……うん、僕は大丈夫だよ」
また少し、ぼ~っとしてたかも。僕は小花ちゃんに笑顔を返してから、声のトーンを落として話しかけた。
「僕よりも小花ちゃんは平気? 昨日は…えっと……あんなことになっちゃったけど、身体は大丈夫…?」
「は、はい…」
あんなこと…と言う言葉を聞いて、小花ちゃんは真っ赤な顔で下を向く。
「…血も…少しでしたし、そんなに……痛くも…なかったです…」
「……………」
笑顔のまま凍り付いた僕は、今現在窮地に立たされている気がした……。もしも誰かに今の会話を聞かれ出もしたら、僕の大学生活はここで終わる。
「…そ、そっか、良かった。僕も心配だったんだよ」
「はい…」
ちょっとだけ早口になった僕に、小花ちゃんは赤い頬に潤んだ瞳で僕を見上げて。
「…五十根先輩が…優しくしてくれましたから…」
「……………」
そんな一言が、僕に残っていた本日分の気力を根こそぎ奪い取っていった。
小花ちゃんは中等部へと戻り、ふらつく足取りで僕がアトリエに戻ると、遠くから様子を見守っていた薫子先輩と東が、二人同時に呟いた。
「「…ロリ…?」」
「ちっがぁああああああああああああああっう!」
反射的に否定すると、薫子先輩は古い映画のアメリカ人のようなオーバーリアクションで、手の平を上に向けて肩を竦めながら首を振る。
「あの光景の何処に否定出来る余地があるのさ?」
「…うっ」
僕だって薄々気付いていたので思わず呻いてしまう。
「一樹、それはなんだ?」
目敏くも気付いた東が、僕が持っていた『巾着袋』を指し、言われた僕はあまり言いたくなかったけど……。
「…お弁当だって」
「「…ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお…」」
このお弁当は小花ちゃんがわざわざ作ってくれた物で、その小花ちゃんは。
『勝手に申し訳ないのですけど…、少し精の付く物を作ってみました。お口に合わなければ残してかまいませんので…』
と言っていたので、僕はもちろん、口のほうを合わすつもりだった。
「なになになに、その急激な進展具合はっ!? ねねねねねねねねねねねねねねねね、中身はどうなっているの!?」
まるで初めて女の子から手作りのお弁当を持った中学生の一人息子を持つ母親のような(例えが長い)様子で、薫子先輩が詰め寄ってくる。
清楚系女子中学生の手作りお弁当。
大変心惹かれるものは理解できるけど、みんなの前でそれを広げるのは抵抗があるんだけど……。
「精の付くお弁当か……健康補助食品満載だったりして」
「……ぇ」
東のそんな言葉は信じないし、小花ちゃんに限ってそんなことはあり得ないと思うけど、彼女の名誉のために開けてみることにした。
「へぇ…良い感じだねぇ」
薫子先輩が感心したような声を出す。
巾着は渋い柿色の染め物で、男女どちらが持っても違和感はなく、その中には朱色に菜の花をあしらった柄の二段重箱が収められていた。
その蓋を、固唾を呑んで見守る瞳の中で開けてみると。
一段目には、アスパラとニンジンの肉撒き、ほうれん草のごま和え、甘い卵焼き、イワシのハンバーク、カボチャの煮物などが入っており、
二段目には、じゃこ、しゃけ、そぼろの、三種の俵型おにぎりが、いくつも詰められていた。
「…これ、完全に手作りだよね」
「……ですよね」
少し焦げていたり形が崩れている物もあったけど、どれもこれも一生懸命作られていることが一目で分かった。
「作るのも時間掛かったでしょうに……。でもこれなら、モデルの件は何とかなったんだよね? 良かった良かった」
「……え?」
「…え?」
ニッコリ笑って僕の肩を叩こうとした薫子先輩が、お弁当を摘み食いしていた僕と同時に硬直する。
薫子先輩の顔が盛大に引きつって。
「……まさか、一樹くん、まだモデルを頼んでないのかぁあああああああああっ!」
先輩に首を捻られながら、僕が直前に口に入れた卵焼きは、…本当に息が詰まるほど甘かった。




