6 彼女のお願い ③
□一樹 23:54
「…来てくれたんですね」
誰も居ない学校。深夜零時の少し前。
月明かりに照らされたプールサイドから、水面の揺れる光に照らされた彼女が、僕を静かに出迎えた。
「……あ、うん」
彼女…小花ちゃんの声に僕は間抜けな声を返してしまう。
僕を見つめる琥珀色の瞳と、鎖骨に掛かる程度で揃えられた繊細な黒髪。
いつもの修道服を思わせるセーラー服姿と違って、初めて見た彼女の私服はレースをあしらった薄手のブラウスと……、ここまではいいんだけど。
その下は濃紺のミニスカートで、大人しめな印象の小花ちゃんには珍しく、白い生脚が大胆に露出されていて、まだ13歳ほどの女の子だと分かっていても、目のやり場に困ってしまった。
「………ぁ、」
僕に視線の意味に気付いて、小花ちゃんは恥ずかしそうにスカートの裾を抑える。
「すみません……。汚してもいいスカートが、今日はこれしかなくて…」
真っ赤になって俯く彼女に何か気の利いたことを言えるほど、僕も慣れている訳ではなくて。
「だ、大丈夫…似合ってるし」
「…………すみません」
そんなことを言ってみたら、小花ちゃんはさらにモジモジと身を竦ませた。
結論……。清楚な女の子が恥ずかしがっていると、見ているほうも恥ずかしい。
こうしてあらためて見ると、小花ちゃんはとても線の細い女の子だった。
同年代の子と比べて極端に痩せている訳じゃないけど、全体的に色素が薄いのか、細い睫毛や髪が彼女を霞ませて見せる。
陽の光の中で溶けてしましそうな印象も、今は月明かりに仄かに輝いて見えて、僕は幻を見ているような思いがして何度か目を瞬いた。
「あー…、話を聞かせてくれるんだよね?」
「…は、はい」
小花ちゃんもまだ少し赤い顔で、動機を抑えるように息を整えてから僕に愁うような瞳を向けた。
「すべてお話しします。……ですが、朝にお話ししたように一度聞いてしまったら、聞かなかったことには出来ません。いいですか…?」
小花ちゃんは最後に確認してきたけど、僕の答えはここに来た時点で決まっている。
「うん、聞かせて欲しい」
「…はい」
ゆっくり…静かに…小花はプールの回りを歩き始める。
「五十根先輩……。先輩は『異法』と言う言葉を知っていますよね…」
「…うん、言葉だけは」
小花ちゃんとエレナさんは、僕を『異法使い』と呼んだ。
確かに不思議なことは出来るけど、絵本に出てくる『魔法使い』のように大層なことを出来る訳じゃない。
小花ちゃんは僕の言葉に小さく頷いて。
「人は他者から『認識』されることで『存在』することが出来ます。……別に哲学の話ではありませんよ。他を認識して、他に認識され、存在する『力』を得るのです」
少し意味は違うけど、人が住まなくなった家が傷みやすいのと似たようなものだろうか…?
「沢山の想い…多くの『正しい認識』を得られれば、それは『力』となります。…でも普通の人はそんなことには気付かないでしょう。他の人より少しだけ傷の治りが早い。他の人より少しだけ疲れにくい。他の人より少しだけ記憶力がいい…」
確かにそんなのは誤差の範囲だ。
「けれどもそれは、受け取る側の『思い』一つで、少しだけ『不思議な力』に変わることがあるのです。……それが」
人の想いが集まり生み出されたモノ。…『異法』…。
「……五十根先輩?」
語りながらも、小花ちゃんはプールサイドを歩き続けて。
「私って…元気に見えますか?」
そんな唐突な質問を投げかけた。
「それは…」
見るからにか弱くて儚げで…、悪く言えば病弱そうにしか見えなかった。
それを言葉だけで否定するのは簡単だけど、小花ちゃんも自分で自覚しているだろうし、そんな見え透いた言葉を期待している訳でもないだろう。
「…ごめんなさい、少し意地悪でしたね…」
小花ちゃんは少しだけ自虐的な笑みを浮かべて…
「私、…三年前に死んでいるんです…」
そんな言葉が風に流れ、風に流された雲が一瞬だけ彼女を夜色に染めた。
「……死んでいる?」
「はい…、私は三年前に命を失い、再びこの世に命を得ることが出来ました。…けれど私を救ったのは、お医者様でも現代医学でもありません」
「………」
三年前に死んだと彼女は言った。
死にかけた…ではなくて『死んだ』と言うのが嘘じゃないのなら。
「……それも異法だと…?」
彼女本人か、第三者による治癒能力。……我ながら映画や小説の読み過ぎだと思うけど、そんな考えに辿り着いた僕に、小花ちゃんは静かに首を振る。
「いいえ、違います。それは『人』が出来ることの範疇を超えていますから…」
それでは『何が』彼女の命を繋いだというのだろう…?
歩き続ける小花ちゃんは、すでにプールサイドの反対側に差し掛かり、離れたはずの彼女の声は、風に流れてはっきりと僕に届いた。
「先輩は…どうして異法が『異法』と呼ばれるのか分かりますか?」
再び投げかけられた問いは、また唐突だった。
その質問の意図も、さっきの答えも分からないまま、それでもとりあえず思い付いたことを口にする。
「……魔法使いと違うから…とか?」
映画でもお伽話でも、魔法使いという単語は簡単に見つかる。
まぁ、英語だと違うけど、初めから『魔法使い』と言う単語が存在していたので、その言葉になぞらえて『異法』となった。
…そう考えていたけど。
「…はい」
小花ちゃんは僕の答えに頷いて。
「この世界とは違う『神様』の『魔法』と異なるモノとして『異法』と呼ばれるようになったのです」
彼女が言った答えは、僕とは少しだけ意味が違っていた。
「………神様?」
小花ちゃんは確かにそう言った。
その答えで今までの質問の意味も繋がった。でも……
「………」
僕は小花ちゃんにからかわれてるのだろうか…? 何もかも嘘で、昨夜のことも何かの冗談だったのでは……。
そんな思いが顔に出ていたのか、小花ちゃんは少し寂しげな瞳を僕に向ける。
「信じられませんか…? 死んだ私が、神様の魔法で生き返るなんて、所詮は夢見る少女の戯言にしか聞こえませんでしたか…?」
「………」
確かにそう考えたほうが簡単に納得出来た。
病気か事故で命を失いかけて、それを神様が救ってくれたなんて、年頃の女の子に良くある『白馬の王子様』的な感傷だ。
プールの反対側で、何も答えることが出来ない僕に、小花ちゃんはそっと向き直る。
「お願い……信じて」
信じる……。
それは神様の存在…? それとも小花ちゃんのことを?
僕が見つめていた小花ちゃんの姿が月の光に仄かに輝いて……、柔らかな瞳から琥珀色の暖かみが消えて、血のような真紅に染まっていく。
「おいで……死喰い蝶……」
ゾッとするような、冷たい瞳と声……。
謡うような呼ぶ声に、彼女の桜色の口唇から黒い靄が溢れ……。
それを蝋燭の炎を吹き消すように、ふ…と宙に吹き出すと、黒い靄は漆黒の蝶へと姿を変えた。
まるで平坦な闇を切り抜いたような『黒い蝶』はヒラヒラと夜を舞い、プールの中央で手品のように宙に留まる。
「…………」
僕は昨夜のように動くことが出来なかった。
質感の無いその羽根の縁は、何年も風雨に曝された布のように解れ、両手を開いたほどの黒い羽根に皺のような模様が浮き出ると、それは見る間に枯れ果てた即神仏の顔に変わり、愚かな僕を揶揄するようにけたたましく笑った……。
ぎぎゃががががががががががががががががががががががががががががががが…!
「……っ!?」
声にならない悲鳴を上げて、僕は耳を押さえて蹲る。
全身の血がデタラメに流れるような苦痛と、激しい頭痛と嘔吐感に襲われ、目も開けていられない。
それは確かに昨夜聞いた、亡者の笑い声……。
この声は……生きている人間が聴いてはいけない……
……………。
肌が濡れるような、微かな冷たさを感じて。
「……………」
霧雨のように降る水滴に僕が目を開くと、黒い蝶はすでに消えて、その場所は大きな岩でも投げ込まれたように、水面が激しく揺れていた。
「……大丈夫ですか…?」
すぐ近くから聞こえた声に顔を向けると、いつの間に移動したのか、小花ちゃんが膝を付いて僕に心配そうな瞳を向けていた。
「……これが…神の力…?」
この世界にある、あらゆる教義に属さない、本当にいる『神』の存在……。
小花ちゃんが何度もしてくれた忠告の意味がやっと理解できた。
その存在が広く知られたら、この世界にある宗教は根本から覆されるだろう。
それがどれだけ世界に混乱をもたらすか……。宗教によって纏めているような小さな国なら、簡単に消滅するかも知れない。
想像した恐ろしい考えになって思わず寒気がした。
「……、」
そんな僕に手を伸ばしかけていた小花ちゃんは、そっと引き戻した自分の手をギュッと握りしめる。
プールから舞い上がった水が霧雨となって僕たちを濡らす。
水滴が小花ちゃんの細い睫毛から零れて、泣いているように見えた……。
恐ろしい神様の恐ろしい力。
それでも……
「……信じるよ。小花ちゃんのことを」
それが僕の心から出た本当の気持ちだった。
どんなに恐ろしくても、目の前にいるのは小さな肩を不安そうに振るわせる、ただの女の子なのだから。
「……五十根先輩…」
少しだけ泣きそうな顔で、小花ちゃんは潤んだ琥珀色の瞳を僕に向けて、そっと膝でにじり寄る。
濡れたブラウスが淡い膨らみと…それを包む白い下着を浮き上がらせていた。
少し気まずい思いがして僕が思わず目を逸らすと、小花ちゃんはさらに僕に近づいてくる。
「お願いが……あります」
そんな声に僕が顔を上げると、小花ちゃんは潤んだ瞳のままで……そっと胸元のボタンを外し始めた。
「……、」
僕はさっきと違った意味で硬直して、目も逸らすことが出来なかった。
そして……
夜気に晒される、黒子一つない透き通るような白い肌……。
「お願い……」
潤んだ瞳で……上気した頬で…。
震える白い指先が、淡い膨らみ包む下着のホックを静かに外す。
「……胸から…吸って…」